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佐賀城内散策!堀端 編 [故郷(佐賀)を歩く]

佐賀城内 散策地図.png

 母校がある城内の周囲、県庁の展望ホールから見える佐賀城の堀端を中心に城内を巡ります。
 平成3年度に「佐賀城公園まち構想」が策定されました。①鯱の門周辺の整備(佐賀城本丸歴史館オープン・東濠の復元整備・NHK佐賀放送局等の移転)、②多布施川の整備、③北濠の堀越道路(平成9年)④西の御門橋の整備(平成21年)、⑤西城内マンション問題(平成13年)により景観ガイドラインを作成です。今日まで、歴史及び文化・水と緑・生活・文教・にぎわいのある街の創生に向けて城内の整備が図られています。
 ・佐賀県庁・・県庁舎は昭和24年2月(1949年)明治以来の庁舎が火災で焼失、昭和25年12月に(1950年)本館が落成。隣接する県警本部移転跡に新行政棟が1期・平成3年(1991年)、2期平成6年(1994年)に竣工しています。行政棟の最上階には展望ホールがあり、市内全域の景色が楽しめます。
(展望レストラン有)https://tabelog.com/saga/A4101/A410101/41000396/
 ■開館時間■ *西高ファイヤーストームが見下ろせます!!
 平日(開庁日)8:30~22:00 土曜(閉庁日)10:00~22:00
          日曜・祝日(閉庁日)10:00~21:00
佐賀県庁 本館 展望別館.jpg
 ・県庁展望ホールより・・母校の後方には「雲仙普賢岳」が遠望できます。佐賀城内から有明海を挟んだ真南の位置、雲仙山麓に長崎県雲仙市国見町神代(こうじろ)があります。ここは佐賀藩の飛び地にて、藩祖鍋島直茂の諸兄・鍋島信房を初代とする神代鍋島家が6,263石で統治し、本藩大組頭「家老」の家格でした。
母校後方普賢岳.jpg
 ☆・有明の海を飛んで、神代小路(こうじろこうじ)のご紹介
 寛文3年(1663年)神代・第4代鍋島嵩就(たかなり)が佐賀から居を移して、武家屋敷などを整備し、今日まで江戸期の街並みが保たれています。平成17年(2005年)7月、「国の重要伝統的建造物群保存地区」となっています。
神代 案内図.jpg
 ・・国見神代小路歴史文化公園鍋島邸 佐賀藩神代領の領主陣屋後に建てられた邸宅で、江戸中期(隠居棟)江戸末期(長屋門)・明治中期・大正期(御座所、書院)・昭和初期(玄関・主屋)の建物5棟は国指定重要文化財。平成の代まで子孫が生活されていましたが、東京在住の当主より平成16年(2004年)敷地は地元自治体に売却、建物を無償譲渡され、平成26年2月より邸内の有料見学(大人300円)ができるようになっています。長屋門は江戸末期の慶応元年(1865年)建築です。
神代 鍋島邸 長屋門.jpg
神代 鍋島邸 邸内.jpg
 正面玄関及び主屋 昭和5年(1930年)第16代当主鍋島佳次郎(外交官・駐ベルギー公使・貴族院議員)の晩年に建築。近代和風建築において九州を代表する秀作。
神代鍋島邸 玄関.jpg
神代鍋島邸 主屋.jpg
 邸内にある境界石柱
神代鍋島邸 境界石.jpg
  神代の街並み
神代小路 街並み説明版.jpg
神代小路 桝形道.jpg
神代 街並み 1.jpg
神代 街並み 2.jpg
 神代鍋島第4代嵩就の寛文10年(1670年)から造林を始めたと伝わります。嵩就は善政を敷いたことから領民にも慕われ、地元の新村神社に祀られています。
 明治となり版籍奉還で知行地はなくなりましたが、副島種臣などの尽力もあり、一部が旧領主と村に折半で返還されています。その後は江戸期から続く林業で潤っていたことから、旧佐賀藩上級家臣団で唯一今日まで、屋敷を拡大・維持できたようです。地域も豊かであったことから、陣屋周囲の景観が江戸期のまま残されたとも考えられます。
  尚、林業は鍋島林業(株)に継承され、「奥山水源の森」などを所有しています。水源の保全や持続可能な林業経営と「保残木施業」を考案し計画的に間伐していることから、県の展示林に指定されています。
神代中学校 跡碑.jpg
 佐賀城内に戻ります・・・母校の東側を通る多布施川水辺が整備されています。藩政時代、多布施川は城内へのライフラインであり、清流保全もあり、護岸は「みだれ積み」や「布積みの」技法の石垣で築かれています。また、母校西側の一角(休館した若楠会館の南側)でマンション建設計画が提示されましたが、市(佐賀市土地開発公社)が土地を買い取る(現在は空き地)事で景観保全が維持されています。現在城下の指定地域では建物の高さは基本10m、屋外広告の設置は禁止となるようです。
 母校の敷地は藩政時代、龍造寺四家の武雄及び諫早屋敷でした。また若楠会館から母校敷地周辺は、龍造寺隆信の居城であった村中城址と推定されています。
母校 校庭東 整備された多布施川.jpg
母校 校庭東 整備された多布施川より県庁.jpg
  ・・・佐賀駅から中央通りを経て、平成9年(1997年)に北濠に架橋(くすの栄橋)され、佐賀駅末次線が完成しました。この先は県道49号になり佐賀空港に至り、今では市営バスの空港線が運行しています。
佐賀駅.jpg
中央通り 八幡小路.jpg
くすの栄橋.jpg
くすの栄橋 県庁より.jpg
くすの栄橋 空港バス.jpg
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「中央大通り」は昭和39年(1964年)に開通しましたので、「くすの栄橋」の完成までは、通算33年の年月を要しました。元々の計画は昭和6年(1931年)に都市計画街路「佐賀駅中ノ館線」として策定されていますので、それからすると、実に66年もかかっています。
 
☆中央大通りは、戦後の昭和28年に駅前通りの佐銀本店前から貫通道路・郵便局前交差点までの1キロ強で街路新設及び改修工事が始まりましたが、旧城下町の中心部に幹線道路を通す事は、住民や商店街の利害が絡み合い大変時間がかかる事業となり、東京オリンピック直前の昭和39年8月に開通しました。開通式に参加もしくは沿道でパレードを見た同窓の方も多いのではないでしょうか。

 ・更地は商工会館跡地にて、NHK佐賀放送局が平成31年度に新築移転します。中央の緑地帯は旧市庁舎跡。左のビルは佐賀県警本部。
佐賀旧庁舎 跡.jpg
佐賀市庁舎跡碑.jpg
 ☆佐賀市庁舎は、昭和50年5月(1975年)に現在の栄町1丁目に移転しています。移転先近くにJR佐賀駅が高架となり北100m程移動したのが、昭和51年2月でした。
佐賀駅 ホーム.jpg
佐賀駅 ホームより 市庁舎.jpg

 ・北堀端、県警察本部から県会議事堂・母校への道・・現在県警本部建物のある場所は昭和初期「佐賀高等小学校」であり、現在の成章中学校敷地に新築移転した後は、佐賀警察署でした。昭和53年3月高木瀬の国道34号(北部バイパス)に移転新築の後、堀向いより県警本部が移転してきています。県警本部庁舎の左後方に「天山」が望めます。
 ☆県警本部より多布施川の西側は、文化年間の御城下絵図に依りますと「鍋島弥平左衛門」とあります。この時代、先述の神代鍋島家の当主は「弥平左衛門茂體(体)」ですので、ここは神代鍋島家の佐賀屋敷でした。
県警本部 後方「天山」.jpg
  ・・母校の旧正門手前には「佐賀城北の門」があり、現在県議会棟西側歩道に紹介する柱が立っています。
 城内への生活用水を担った多布施川は、北堀と西堀の間の北の御門から城内に引き込まれていました。
北の御門碑.jpg

 ・西堀端・・県議会棟前から西御門橋まで、回遊散策路が整備され、見ごたえのある大楠や城濠が楽しめます。
県庁展望階より、西堀端.jpg
西堀端,散策路入口.jpg
西堀端,大楠.jpg
 ・ホテルニューオータニ佐賀から、西濠と西の御門橋
佐賀オオタニ から西御門橋 西濠.jpg
 ・堀端西通りから
西堀端,堀端西通りより.jpg
 ・堀西通りの護岸工事(佐賀城西堀整備事業)が平成27年度から実施されています。崩落寸前の石積みを解体・修理し、石積み復元が進められています。佐賀城の堀は「四十間堀(約73m)」が基本のようですが、現在この幅は西堀だけのようです。全国の城郭・城址において、佐賀城の堀幅はトップクラスであり、平城防御の要でした。全国各地に城はありますが、佐賀城の魅力は、この保全された「濠」の風情にあります。
西堀端,堀端西通り石積み修復.jpg
 ・西御門橋より佐大前交差点までの「城内線」が平成21年度(2009年)に開通しています。城内線は水ケ江3丁目から佐大前までの市道改良工事として、昭和37年(1962年)に着工したと聞いていますので、ここも月日を要しています。
市道西御門橋線.jpg
 ・平成24年に1月に「佐賀城西御門と赤石護岸」の説明碑が設置されています。江戸期にあった橋と同じ構造で造られています。
西御門と赤石護岸・説明碑.jpg
西の御門橋と西堀.jpg
 ・南濠より西御門橋
南濠から西.jpg
 ・「楠の木おばさん」顕彰碑 昭和25年(1950年)旧佐賀城内の楠20数本が伐採されようとした時、身を挺して伐採阻止行動を起こした「福田よし」は、当時の鍋島直紹知事に楠の保存を訴え、県知事も後援したことから、昭和28年(1953年)県天然記念物に指定され永久保存となりました。
 昭和29年には「県花」昭和41年「県木」に指定されています。昭和55年(1980年)地元自治会が「福田よし」を顕彰して建立しています。
楠木おばさん、顕彰碑.jpg
西堀端、濠と楠.jpg
 
 ・佐賀城址  佐賀城下再生百年構想のもと、整備が進められています。赤松小学校が旧城南中学校跡に移転し、本丸御殿が平成16年(2004年)に県立佐賀城本丸歴史館として、開館しています。入場無料(寄付歓迎)
県庁より 佐賀城址.jpg
佐賀城本丸御殿.jpg
 ・鯱の門前は現在整地され、公園化が進められています。
鯱の門 前.jpg
 ・鯱の門及び続櫓一棟は昭和32年(1957年)6月に国の重要文化財に指定され、当時は県立佐賀商業高等学校の正門でもありました。
鯱の門 .jpg
門の前には、佐賀商業の記念碑があります。佐賀商業 跡碑.jpg 佐賀商業は、明治40年(1907年)に佐賀市立として創立、以前佐賀中学校があった赤松一番地で開校、大正11年(1922年)4月に県立となり、昭和35年(1960年)11月に高木瀬に移転している。昭和52年(1977年)10月、創立70周年を記念し同窓会が建立。平成6(1994年)年8月、第76回全国高校野球選手権大会全国制覇。同校野球部は県下最多の春夏21回甲子園出場!羨ましい限りです。昭和57年(1982年)夏の甲子園初戦で、新谷博投手は9回二死まで完全試合でしたが、27人目の代打に死球を与え、惜しくも夏の完全試合達成はならず、ノーヒットノーランは達成しています。
 


 ・鯱の門に残る、明治7年(1874年)佐賀の役弾痕跡。江戸末期の天保9年(1874年)に本丸再建時に正門として造られています。明治に入り、本丸御殿は藩庁(のち県庁)となり、2月16日明治政府に不満を募らせた士族が県庁を襲撃して、佐賀の役が始まりました。2月23日には江藤新平が西郷隆盛に、28日島義勇が島津久光に助力を得ようとそれぞれ鹿児島に脱出しましたが不首尾となり、短期間で政府軍に鎮圧されています。
鯱の門 弾痕跡.jpg
 ・城内からの鯱の門 屋根に鎮座する鯱の製作者は藩御用鋳物師で、幕末反射炉建設運営で活躍した谷口家であり、「治工谷口清左衛門」の刻銘が残っています。
鯱の門 城内より.jpg
鯱の門 鯱.jpg
 ・天守台 享保11年(1726年)の大火までは五層の天守閣がありました。(当時の城下絵図に明記されています。)この点、福岡城の天守閣は天守台は現存していますが、天守閣の全貌はよく判っていませんね。
 全国各地の城郭において天守台は造ったとしても、実際に天守閣は造られなかった例が多いと聞きます。唐津城も実際には天守がなく、観光目的の模擬天守閣が建っています。
 佐賀城は熊本城や福岡城とは違い、沖積平野の軟弱な地盤の上に縄張りがされています。城内は濠を掘った土の土塁で囲われましたが、本丸の天守台などは石垣で築かれました。築城後400数余年が経過していますが、当時の姿を留めています。
 周囲の発掘調査から、地番沈下を防ぐために、石垣の下にはぎっしり松材が敷かれているとみられています。
 戦後の学校などの新築工事で、未熟なくい打ちをして建物が傾いたり、使用不能になった例があったことからも、当時の石積みは佐賀の風土に適合した知恵が生かされたいます。
佐賀城 天守台.jpg
五層の天守閣 説明版.jpg
 ・天守台へ 天守台の入り口は本丸から直接は登れず、一旦本丸を出て二の丸に向けてあります。城郭マニアが訪れては不思議がっていますね。
天守台 へ.jpg
佐賀城 天守台石垣.jpg
 ・天守台からの眺め
天守台からの眺め 1.jpg
天守台からの眺め 鯱の門.jpg
天守台からの眺め 本丸御殿.jpg
 *協和館 今、天守台は更地になっていますが、平成16年(2004年)佐賀城本丸歴史館開館まで、「協和館」という集会施設がありました(解体・撤去)。元々は、明治19年(1886年)、現在の佐賀郵便局当たりに建てられた県の社交場で、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていました。明治27年(1894年)市が買い取り市役所庁舎となり戦後の昭和32年に、郵便局建設に伴い、天守台に移築されました。尚、遡ること明治20年には佐賀県立測候所が天守台に開設されていました。

☆佐賀城天守台発掘調査が平成平成23年から3ヶ年をかけて築城400記念事業として進められました。その結果、創建時の天守閣の概要が判明しています。
①礎石の配列規模から、天守1階は天守台一杯に建てられ(15×13.5間)である。
 天守1階の広さで比較しますと、熊本城(13×11間)、姫路城(13×10間)、小倉城(13×13間)、名古屋城(17×15間)ですので、江戸・大阪・名古屋城に次ぐ全国最大級の天守閣であったようです。あの姫路城大天守より大きかったとは!
姫路城 城郭全貌.jpg
②天守の内部構造は礎石の配列から「書院造」、多数の蝶番が出土したことで窓は「突上げ戸」でした。
③天守外観は、「寛永御城并小路町図」 では屋根に破風がない四重の層塔式天守、その少し前の慶長年間に書かれた「佐嘉小城内絵図」では五層となっています。支藩の小城初代藩主元茂の「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水より小倉城天守の図面提供より慶長14年(1609年)完成とあります。しかし、如水(官兵衛 孝高)は慶長9年3月(1604年4月)には亡くなっていますし、関ケ原後、筑前52万石に移封し、江戸期の小倉城は細川忠興により慶長7年(1602年)から7年間の歳月で築城したようですので、これが真実かどうかは不明とも言えます。只、小倉城同じ「唐造り」の天守であったと推測されていますので、小倉城天守に類似した天守閣だったようです。 ☆小倉城、昭和34年に鉄筋コンクリート構造で天守再建、観光面から史実にはない各種の破風が付加されています。細川忠興築城の天守は、最上階の入母屋破風以外に破風は一切ない造りでした
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 ☆小倉城庭園書院より天守を望む
小倉城庭園書院から.jpg

 佐賀城天守台発掘調査説明資料https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s36339_20131211105409.pdf 
 ・今は埋められていますが、本丸と三の丸(県立博物館&美術館がある)間にも内濠があり、痕跡が確認できます。
内堀 跡.jpg

 ・鍋島直正公銅像 再建! 平成29年(2017年)3月4日、生誕200年記念事業にて銅像再建除幕式がありました。 生誕100周年を記念して、大正2年(1913年)大隈重信候を委員長に、松原神社西側に建立されていましたが、残念なことに戦中時の金属回収令により供出となっています。
 目標の1億円を上回る1億4000万円の募金が集まり、鯱の門北側広場に再建されました。
 銅像は先代と同じ高さの4メートルで、直正公が建設を命じた「反射炉」をイメージした台座に立ち、西を向いています。
鍋島直正公 銅像と鯱の門.jpg
鍋島直正公 銅像と鯱の門 1.jpg
鍋島直正公 銅像 全体.jpg
鍋島直正公 銅像.jpg
  

・南濠 南濠の西側にはハスの群生が見られます。ハスの群生が平成になって一時消滅の危機があったと聞きました。佐賀大学などの調査の結果、最大の原因は外来種の「ミシシッピアカミミガメ」による食害と分かり、地元赤松小校区の住民協力もあり平成22年(2010年)5月から10月までカメの捕獲を展開した結果、今では昔の風景に戻っています。
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 ・8月にはハスの花が咲きます。
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 ・南濠 復元された「亀甲乱積石垣」と土塁。景観を損ねているNHKのテレビ塔も移転で無くなりますから、南堀端から眺める本丸の風景は数年で格段に良くなると思われます。
南濠 石垣 土塁.jpg

 ・佐賀レトロ館 NHK佐賀放送局の前にあるレストラン。明治20年(1887年)警察部庁舎として現在の県庁本館付近に建築され、昭和11年警察本部建替えに伴い、現在地に移設、様々な施設として活用されていましたが、平成21年(2009年)レストランになっています。佐賀城下再生百年構想「二の丸プロジェクト、にぎわい・もてなし」拠点です。
佐賀レトロ館.jpg

 ・佐賀城下再生百年構想イメージ図 
   http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00313187/3_13187_5_sagazyou.pdf
 ・東濠、一部を復元! 東堀は昭和初期に埋められています。これを平成22年(2010年)から復元工事が始まっています。NHK佐賀放送局と龍谷高校と間です。
東濠 .jpg
東濠 復元説明版.jpg

 ・好生館 跡 平成25年(2013年)嘉瀬町に移転した病院敷地は更地になっていましたが、平成28年9月(2016年)に4団体複合施設(健診センターなど)の起工式があり、建設が始まっています。敷地は県から佐賀市に約2万3000平方㍍が返還され、跡地北側に健診センター等の複合施設が平成30年1月、中央に市医師会の看護専門学校および南側に「市立休日夜間こども診療所」が平成30年4月に運営開始の予定です。
好生館 跡地.jpg

 ・佐賀県立佐賀工業学校跡碑 復元され東堀の南端に佐賀城内・裏御門がありました。この裏御門の濠を渡った場所に明治32年(1899年)3月、佐賀県工業学校(佐賀工業高校の前身)が新築移転して、昭和11年(1936年)12月に現在の田布施(現、緑小路1番1号)に移転するまでありました。
 現在、龍谷こども園入り口に、記念碑が昭和52年4月に建立されています。
県立 佐賀工業学校跡 碑.jpg

 ・万部島 NHK佐賀放送局より北に住宅地の路地を進むと「万部島」に出ます。江戸期ここは川に囲まれた島でした。佐賀藩歴代の藩主が建立した。法華経一万部読誦記念石塔群があります。初代・勝茂から11代直大までの11基で、国家安泰・万民安楽を祈願しています。
万部島 法華経一万部読誦記念石塔群.jpg
 ・二基の六地蔵 この地の六地蔵は造立名から室町時代の代表的な石仏です。
万部島 六地蔵.jpg
 ・佐賀の役招魂碑 明治7年佐賀戦争での戦没者を弔う碑で、明治18年に西の御門付近に建立、大正9年にこの地に移設されています。毎年4月13日(江藤新平・島義勇以下13名に死刑判決が下り、即日処刑された日)に慰霊祭が行われています。
万部島 佐賀の役 招魂碑.jpg
万部島 佐賀の役 招魂碑 2.jpg
 ・「亀趺(きふ)」の贔屓(ひいき)は北を向いています。大正8年に特赦令により、江藤・島ら首謀者が赦免され、格式高い招魂碑となっています。
万部島 佐賀の役 招魂碑 亀趺.jpg

 ・北濠 北堀端に貫通道路が通され、濠幅は小さくなっています。この濠は別名「筑前堀」と言われています。佐賀城普請時、黒田長政が支援してできた濠でした。返礼として鍋島直茂は福岡城普請時に「肥前堀」を支援しました。明治時代の福岡市内地図では「佐賀堀」となっています。
 福岡城三の丸(裁判所)の東堀から更に東に延び那珂川に通じる堀を作る際、西から「赤坂門」、「薬院門」、「数馬門」を設置し、薬院門(現在の旧大名小学校)までは「中堀」、薬院門から那珂川間を肥前堀(佐賀堀)と呼んでいました。この濠は幅30~35間(60㍍内外)の水堀で、明治43年に産業博覧会開催為に埋められています。
 埋め立てられた堀跡には、大名の飲食街、岩田屋本店・ソラリアプラザ・天神地下街、福岡市役所などがあり、九州を代表する繁華街となっています。
県庁より 北堀.jpg
北堀.jpg
 ・天神地下街には、「肥前堀」を意図した壁面があります。ご存じでいたか? 天神地下街の7番から8番街の壁面は石垣をイメージした作りになっています。またここの広場は「石積みの広場」と呼ばれています。
 ☆関ケ原後、西軍であった佐賀藩は苦しい立場となっていましたが、東軍の黒田如水の誘いを受け、如水の説得を拒否した柳川城攻めに参戦しています。北進してきた加藤清正も加わったことから立花宗茂は降伏・開城しています(所説あり)。この時、明け渡された城は、成富兵庫茂安が受け取っています。
 「肥前堀」を紹介するブログなどの一部に、「黒田如水(もしくは長政)の口添えで、佐賀藩は関ケ原後の改易を免れた」との記述のみで、「筑前濠」に言及していないのは残念ですね。
天神地下街 石垣.jpg

 ・佐嘉神社角交差点と天神西交差点 それぞれ城下の東北角に位置し、藩士の屋敷小路(桝形・クランク)の面影が残った交差点です。佐嘉神社角交差点は貫通道路ができる以前、天神西交差点と同じS字カーブでした。天神西交差点は今でもS字です。路面電車がここを通過するとき、つり革がぐるぐると回り、輪っかがガチャガチャと鳴く情景が思い出されます。今でも地下鉄で、このS字は体験できますね。
佐嘉神社角交差点.jpg
佐嘉神社角交差点1.jpg
天神西交差点.jpg

 ・東濠跡 北堀(筑前濠)の東角から南濠へ東堀が有りましたが、昭和初期に鍋島家から払い下げを受け、埋め立てられ、現在では駐車場になっています。駐車場出入り口西側の北堀端には、貸しボートの発着場がありました。先に紹介しました通り、東濠の南側は復元工事が進んでいます。
 現在の市村記念体育館の東側に残る土塁が分断されているところ、城内東の出入口である「東御門」がありました。
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東御門 跡.jpg

 ・宗龍寺 江戸期、東御門から土橋で東濠を渡った先には、鍋島山城(御親類筆頭、白石2万余石)の佐賀屋敷がありました。初代直弘は、初代藩主勝茂の四男にて、まず佐賀城下の治水・城下整備に貢献した成富兵庫茂安の養子となり、成富山城守と名乗っていました。茂安死去後、勝茂から改めて鍋島姓と白石に領地を与えられ、白石に館を構えました。
 隣接して、藩祖・鍋島直茂が龍造寺山城守隆信の冥福を祈る菩提寺の「宗龍寺(宗龍禅寺)」があり、宗龍寺の東向かいは鍋島山城抱地でした。
宗龍寺 山門.jpg
宗龍寺 本堂.jpg
宗龍寺本堂入り口では、龍造寺の家紋「十二日足紋」と「杏葉(ぎょうよう)紋」が目に留まります。大友氏の象徴であった杏葉紋は、大友軍を夜襲で撃破した今山の戦勝記念として用いるようになりました。この戦いで最大の功績を上げ、のちに龍造寺氏を継承した、鍋島氏の定紋ともなり、江戸後期には「鍋島杏葉」として変化し本家は「筋杏葉紋」、本家の女性や子供及び分家は「花杏葉紋」となっています。杏葉紋は馬具の装飾品から文様に転じた意匠でとのことです。
 
 ・佐賀市民会館 明治となり、佐賀の役で焼失した三の丸御館が山城守抱え地に移転しました。のちの鍋島11代直大の佐賀別邸「侯爵鍋島家内庫所」です。時代は下り、昭和40年ごろに建物は、武雄の御船山観光ホテル(鍋島越後・武雄領主鍋島茂義の別邸地、御船山楽園)に移築され、現在では「萩野尾園 別邸 内庫所」として宿泊出来ます。移築後、跡地に昭和41年(1966年)4月開館したので、佐賀市民会館でした。
 市民会館は、1031席の本格的な音響・舞台装置を備えた多目的ホールでしたので、母校をはじめ数多くの学校が定演や発表会を開催していました。残念ではありますが、老朽化による耐震強度不足及び改修が現実的ではないとの判断から、平成28年4月より休館となっています。平成元年(1989年)10月、高木瀬(日の出町)に開館の佐賀市文化会館がありますので、閉館も仕方のないことかもしれません。昭和38年(1963年)10月開館で、優良ホール100選の福岡市民会館は現役バリバリです。余談ですが、優良ホール100選には、佐賀県で「武雄市文化会館」が選定されています。
 市民会館は平成29年(2017年)7月から解体工事に着手の予定で、当面は駐車場にして跡地利用を、検討するとしています。
佐賀市民会館 全景.jpg
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 ☆市民会館跡地は城内→万部島→佐嘉神社→柳町への観光動線上に位置しますので、明治期・大正期の鍋島家関連で、侯爵鍋島家佐賀内庫所の復元とか、関東大震災で倒壊した永田町西洋館の再現なども、面白いと思うのですが!

 平成18年(2006年)制定の「日本100名城」に佐賀城があります。佐賀県では、名護屋城と吉野ケ里遺跡の三か所で、福岡県は福岡城と大野城の二か所です。これまでの佐賀城は地味な存在と思っていましたが、城内を巡ってみて歴史公園として整備・保存が推進され、新しい発見も多くありました。
 県庁展望ホールから雲仙岳が望めたことから神代鍋島の事を知り、北濠周辺では福岡との意外な縁を知りました。
 これからも、「歴史公園100選」及び「日本の都市公園100選」である城内の整備・充実が進められる事でしょうから、故郷での散策などの楽しみが増えますね。

 ☆「さが維新博」が平成29年(2018年)3月から翌30年1月の10ヶ月間開催されます。
 ホームページがアップされています。https://www.saga-hizen150.com/

☆佐賀城内散策!堀端 編 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 雲仙市国見神代小路歴史文化公園鍋島邸
 ⑦ 角川日本地名大辞典
 ⑧ 福岡市HP、佐賀県HP、佐賀市HP、長崎県HP、雲仙市HP 
 ⑨ 福岡県立図書館 郷土資料室 デジタルライブラリー
 ⑩ 鍋島直正公銅像再建委員会HP
 

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