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歴史と私 Ⅲ [会員コラム]

西高6回生 増岡 昭憲
 最近の柏原歴史会は、先生が病気で中断中である。歴史講座の方は「拓本」どり、勾玉」や「須恵器」作り体験をした。
拓本どり.jpg
「拓本」どりとは、発掘物を魚拓みたいに墨を塗って、読み解く方法である。天草の古刹の瓦の拓本を取り古代の寺の建立時代を読み解いて営みを想像してみた。「勾玉」つくりは柔らかい石を削り古代の王の象徴の雰囲気を体感した。
須恵器 作成.jpg
「須恵器」は古墳時代から平安時代に流通していた、弥生式土器よりちょっと進化した土器である。焼きあがるのは来年になる。
 
 10月には6回生の愚友と厳島神社と出雲大社を参拝してきた。通常神社参拝は2礼2拍手だが、出雲は2礼4拍手だった。歴史博物館を訪れ、出雲の荒神谷で発見された大量の銅剣と銅鐸が展示されているのを拝観した。銅鐸は使用目的が謎とのことだったが、ここでは舌(ぜつ)で音を奏でていたらしいとのこと。銅鐸には刺青が入ってる人間の顔が描かれていた。
 
 魏志倭人伝を読んでいると、いくつかの疑問を抱く。邪馬台国と大和朝廷の関係である。歴史学的には邪馬台国が日本の始まりであり、今の皇室のルーツであるとしてる。しかし、いまだにどこにあったかが不明である。「邪馬台国」や「卑弥呼」などは魏志倭人伝に出てくる魏側の呼び名であって、文字を持たない倭国の人々は何と呼んでいたか解らないし「ヤマト」で結びつけるのは無理があろう。私の推してる福岡県南部で古代の吉野ヶ里から遠目で見えたであろう山門郡が畿内に遷都して大和政権を作ったとする説も疑問が出てきた。そもそも邪馬台国は倭国の「クニグニ」の中の一つであり、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起こっていた。卑弥呼を女王に共立することによって混乱を鎮め、卑弥呼が 死去するとその後男の王が立てられるが再度内乱となる。そのため、13歳の少女「壹與」が王に立てられ国は治まったとある。しかし南にある狗奴国とは、不仲で紛争していたとのことである。壹與のあとは中国による倭国の記録が途絶えている。倭人は体や顔に刺青をしているとある。日本の歴史上施政者が刺青をしていたとは出てこない。おそらく邪馬台国や出雲のクニグニは縄文人の血を引く刺青の習慣があり、文字を持たない種族ではなかろうか。蝦夷すなわち日本に先住していた縄文人はアイヌ人の先祖ではないだろうか。アイヌは刺青の習慣があり文字文化がなかったとのことらしい。
 暫らくして日本に天皇や皇后の名前が登場しだす。しかも妊娠中に生み月を伸ばして三韓を征伐したとある。九州の多くの神社に残る神功皇后、応神天皇である。神功皇后の夫仲哀天皇は香椎宮で崩御している。日本書紀と古事記では死因は異なる。実際は狗奴国に滅ぼされ、その狗奴国が東征を行い、出雲なども滅ぼして近畿あたりにたどり着き、大和朝廷の礎を築いたのではなかろうかと思われる。  
 しかし歴代天皇で初代神武天皇から10代天皇までは実在していない。11代から26代天皇まではいただろうが、今伝えられてる名前とは違う権力者が入れ代わり立ち代わりいたのではないか。
38代天智天皇のころに今の世襲の天皇制の礎を築いたのではないと思われる。このころ記紀を編纂し、国つくりを含め過去からの流れを神話化して権威づけを図るのである。
 話は変わるが私の父が亡くなった時、檀家のお坊さんが、説法を七日ごとにされた。長生きを願い死ぬ事を恐れ不老不死の妙薬を求めた秦の始皇帝の話をされた。その坊さんのゆうには、「死は必ず来る、避けがたいものだ、いかに功徳を積み、浄土に行けるかを考えることが、死を恐れないこと」だそうだ。
 始皇帝は徐福を日本に遣わし不老不死の妙薬を探させたとのこと。坊さん曰く、佐賀県の三養基郡には徐福の痕跡がたくさんあるらしい。後で徐福の事を調べてみると、数千人の大船団で有明海から九州に上陸している。又徐福伝説は北日本まで広域にわたるが、特に佐賀県に集中している。吉野ヶ里遺跡から発掘された人骨が日本人古来の骨ではなく中国系の人の骨が混じっていたとのことで話題になった。徐福の軍団がかかわっていたかもしれない。始皇帝当時の倭国は縄文人の時代なので、文化、軍事力の差は歴然とし、縄文人を駆逐し、同化して徐々に「クニ」を形成していったのではないだろうか。そのクニが狗奴国ではないだろうかと推測される。
 集広舎の川端氏からいただいた本を読んだら、意外なことがわかった。その本はモンゴルが中国共産党から不当な迫害を受けているが、中国の歴史は今の中国だけじゃなく、北方民族が大部分を形成した。今の漢族の中国の歴史は、たかだか100年足らずである。その中国の不当な振る舞いを糾弾する内容である。当本中に秦の始皇帝のことが書かれている。chinは元々アラブ地域を指す言葉で、遊牧性のあったユダヤ人がいち早く中国へと移動していたらしい。バビロン捕囚時に忽然と消えたユダヤの10部族などと合流して秦国を建国したとのこと。歴史は下ってchinにaを追加してchinaになったとのこと。秦の不老不死の探索は裏では倭国の征服があったのではないか。それとも、徐福が不老不死の妙薬が見つからず帰るに帰れずそのまま居座ってクニを築いたのかは疑問が残る所ではある。 

 先日1週間ばかり娘に会いにハワイに行ってきた。娘は私に気を使ってハワイの出雲大社、金毘羅神社、ハワイ平等院等を連れまわした。
ハワイの平等院.jpg
だが所詮はフェイクであるよとゆうと、それならばとハワイの原住民のヒーリングスポットに連れて行ってくれた。これには大変気に入りました。山の上の森深い所の平地に石がミステリアスに積まれており、なんとなく「気」を感じました。現地の人が時折フラなどを踊り、祭典を行っているらしい。
ハワイ ヒーリングスポット.jpg
 その後娘は私にとんでもないものを見せてくれました。自分のDNAを鑑定したみたいで、それで娘のルーツのDNAが判明したとのこと、娘はカミさんのルーツは以前から何回も聞いて知っていたが、私のルーツは純粋な大和民族と思っていたらしく、そこに描かれている世 界地図は、アジアの全域インドそれにアラブの地区に丸がしてありました。アジアはわかるが、インドは仏教伝来でかなりの仏師が渡来し日本人と同化したとのこと。残るのはアラブ地区の丸これは何だろう?
 
 以上のことを連立方程式に紐解いていき、又少々ベクトル的に無理はあるだろう。結論としてユダヤ人の部族の一部がが中国に移動して秦を興し、その一派が有明海から佐賀に上陸し、先住民を凌駕同化していき、大和政権の基盤を築いたのであろう。輝ける大和民族の源泉は佐賀の三養基から吉野ヶ里地域にある。「二度と行きたくない県1位」と盛り上がっている若者よ佐賀をリスペクトしないと罰が当たるよ。日本は神々に守られている神々(こうごう)しい神ってる国だからね・・・・・


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伊丹安廣氏と「なんじゃもんじゃ」 [会員コラム]

 先月の第28回福岡栄城会では早稲田大学野球部前監督・岡村猛氏(西高9回生)による記念講演がありましたが、その中で佐中の大先輩である伊丹安廣氏の事も触れられていました。
 母校のグランドバックネット裏には、同氏を顕彰した「一球無二」の碑が昭和53年8月に建立され、周囲に「なんじゃもんじゃ」(和名 ヒトツバタゴ モクセイ科)が植えられています。
伊丹安廣氏顕彰碑.jpg

 伊丹安廣先輩は旧制佐賀中学校野球部で活躍、野球部ユニホーム「EIJO」の発案者です。
EIJOユニホーム 甲子園.jpg
           *昭和33年8月、佐高野球部 甲子園出場。
 その後早稲田大学に進み、野球部捕手として活躍し大正15年春季リーグでは首位打者になってます。卒業後は東京倶楽部で選手として都市対抗野球連覇に貢献、昭和15年から4年間、早稲田大学野球部・監督を務め、戦時下の学生野球存続に尽くされました。
 戦後、日本高等学校野球連盟と全日本大学野球連盟を傘下に置く、公益財団法人日本学生野球協会の前身である日本学生野球協会設立に深く関わり、また当時接収されていた神宮球場の返還に尽力、返還後は明治神宮外苑長として、明治神宮の環境整備やスポーツ施設の改修拡充を進め、また学生野球とプロ野球の共存共栄を推進されました。
 その後、日本鋼管や東芝の監督を歴任、昭和52年10月永眠、翌昭和53年に特別表彰で野球殿堂入りしています。
 *野球殿堂博物館  http://www.baseball-museum.or.jp/baseball_hallo/detail/detail_059.html
 
 伊丹安廣先輩 エピソード①
 早稲田大学野球部時代の昭和2年アメリカに遠征し、当時のペナントや交流戦を行った米国の地名が記された品など4点を収めた額が、現在母校に寄贈されている。
 *早稲田大学野球部は明治34年に創部。安部磯雄教授(福岡県出身)・初代部長のもと翌明治35年に戸塚球場(後の安部球場)を造営、創部4年目に対抗試合に全勝優勝し、当時の大隈重信総長に掛け合い、日露戦争・日本海海戦の年にアメリカ遠征を実現している。
 *安部磯雄氏は伊丹安廣先輩の恩師であり、昭和21年日本学生野球協会初代会長に就任。昭和24年2月永眠、葬儀委員長は片山哲。昭和34年特別表彰で野球殿堂入り、「学生野球の父」と呼ばれています。
 
 伊丹安廣先輩 エピソード②
 昭和7年秋から2年間、埼玉県立旧制川越中学校・飯田教諭からの要請を受け、監督に就任。現在埼玉県立川越高等学校には、飯田先生顕彰碑が建立され、「なんじゃもんじゃの木」が植えられおり、碑の裏には「伊丹安廣氏・寄贈」の高札がある。
 *埼玉県立川越高校野球部 http://kawagoeob.wixsite.com/baseball/iida 

 伊丹安廣先輩 エピソード③
 明治神宮外苑には「なんじゃもんじゃ(ヒトツバダゴ)」の木碑があります。伊丹先輩お気に入りの樹木花です。
 ところで、福岡県芦屋町内の岡湊神社は「なんじゃもんじゃの社」で話題になっています。
岡湊神社 1.jpg
岡湊神社 2.jpg

 ここにある「なんじゃもんじゃ」の主木は樹齢約50年で、現宮司が明治神宮を退職した記念に、当時の明治神宮外苑長であった伊丹先輩より贈られたものです。
岡湊神社 説明版.jpg

*芦屋町ホームページhttp://www.town.ashiya.lg.jp/view.rbz?cd=1017  
 岡湊神社は全国の神社・学校・公園に「なんじゃもんじゃ」の株分けをしており、母校の「なんじゃもんじゃ」が枯れた際、当神社から株分けされた木が現在育っているようです。
*佐賀新聞社 http://www.saga-s.co.jp/column/ariakesyou/178962

芦屋町 あしや砂像展2016.jpg

   *芦屋町では「あしや砂像展2016」が11月6日まで開催中。

*2016佐賀熱気球世界選手権が11月6日まで開催中。http://www.sibf.jp/
佐賀バルーンフェスタ.jpg
目標に向かうバルーン.JPG
バルーン 刈田に着地.JPG


*佐賀バルーンミュージアムが10月1日にオープン!!
   http://www.sagabai.com/balloon-museum/main/
佐賀バルーンミュージアム.jpg

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歴史と私 Ⅱ [会員コラム]

西高6回生 増岡 昭憲
 
増岡さんフォト.jpg 私が参加している柏原歴史勉強会は以前調査した、地元大平寺古墳の入り口に刻まれた大きな三本の矢穴についてと、柏原地区での合薬再生所跡の話であった。
 矢穴とは石を切り出すときに割りやすいように楔の穴を彫ることである。太平寺古墳の矢穴には、長政公が福岡城築城の際大量の石を必要とした時に、古墳の石も使ったらしい。しかしなぜ矢穴までほっといてそのまま放置したかが謎とのこと。え~私が推測するに、以前小説「沈まぬ太陽」で整備ミスの旅客機が事故を起こし、不時着事故を起こしたのを、機長の操縦技術で死傷者が少なかったと美化して発表し、会社の不備を隠蔽した担当者が出世をするところがある。あれと似てる。一つ残すことで、神仏に対し長政公が信心深いことを印象づけ たのではないかと思われる。ほかの古墳群の石はすべて抜き取られているのに。寺塚の古墳群も一つだけ残っている。
 火薬の製造に関しては、当時幕府の命令で長崎の防衛を佐賀藩と福岡藩で交代で行っている。その時に大砲の火薬がいるので、大量に作る必要があった。じゃ~なぜ柏原か?火薬の原料は木炭と硝酸と硫黄である。その中で硝酸が手に入らなかったらしい。そこで代替えとして人糞や床下の動物の汚物から硝酸を作っていたらしい。高校の時の化学授業を思い出せばわかるが、アンモニアを酸化させれば硝酸になる。増岡 先輩 資料 注意書き.jpg因みに園芸店で肥料の尿素を購入するときは爆弾の材料予防として警察へ免許書のコピーを求められる。だがその作業は当時かなりの悪臭を発するので田舎が適してると思われたのではないだろうか。そのこと聞いてみると、柏原は硝酸の状態で持ち込まれて合薬製作されていたのではとのこと。 考古学者はアンモニアと硝酸のにおいの差はあまり問題なさそうである。
 佐賀はどこで製造していたのだろうか? 佐賀鍋島藩は担当年の時に「フェートン号事件」を起こし、藩主は謹慎し、責任者は切腹の大失態を演じる。この時から大砲の研究など初めとして最先端の科学技術を研究し始める。これが幕末時の肥前の台頭となる。
 鍋島閑叟公は佐賀藩の志士の教育の為フルベッキを呼んでいる。
 佐賀のお膝元には佐賀西の前身である藩校の弘道館があるので長崎に致遠館を佐賀藩校として設立している。この致遠館の集合写真に賛否両論あるがとんでもない人物が写っているらしい。呉越同舟よろしく、幕府側と倒幕の志士が同じ場所で、なんといっても一番驚くのが若い明治天皇が写っているとしている。孝明天皇を暗殺した伊藤博文がその子の祐宮も暗殺し長州騎兵隊の大室寅之祐とすりかわらせたとの説。
フルベッキ群像写真.jpg
          ↑ フルベッキ群像写真(注1)
 実に面白く維新の理に適っている。でもま~歴史学者には認められるはずはないだろう。閑叟公は今も県民に勇気のDNAを与えている。 
 鍋島閑叟公は幕末に幕府側にも雄藩にも態度をはっきりしなかったことで、評価がいまいちだ。佐賀藩の志士達はほとんど博識で、薩摩や長州の無学の志士たちとはわけが違うので、雄藩の彼らには将来を憂いていたのであろう。日本が英仏の代理戦争の場となり清国みたいに植民地化されるのを恐れたのであないかと思われる。正室が将軍家から、また継室が御三家から来ているので、そのことも少なからず影響したのだろう。明治維新ではそれで一歩引いたのではないかな?維新時の科学技術は佐賀が国内随一だったらしい。倒幕に積極的に参加しなかったのは、薩長の志士が英国の傀儡であまりにも無学で、祖国愛が無かったのではないだろうか。英国の武器以上の性能と科学技術を日本の滅亡には使いたくなかったのでは?当時の雄藩は薩摩は下級武士で長州に至っては百姓、商人や町医者ばかりで明倫館等の知識階層はいないのである 。佐賀藩とは雲泥の差である。歴史学者達は参考文献がないとのことでそのことには否定的である。維新後は佐賀は警戒され、虐げられ続ける事になる。江藤新平抹殺もそれが一因だろう。
 福岡藩はペリーの浦賀沖の一件から、幕府からの命で合薬の製造所を増やしたようである。我が住処の柏原他に近くの花畑、那珂川安徳にも合薬製造所があったらしい、又福大の近くには火薬の保存所があったとのこと。福岡藩も佐賀藩みたいに大砲などの開発などをしていたら、維新で取り残されなかったのではないだろうか?歴史的地理的にも重要な場所にあるのに、九州での福岡の重要性を増すのはつい最近である。官公庁の九州の拠点はそれまで福岡にはなかったのである。
 幕末時英国の傀儡の薩長を除けば佐賀藩が一番突出していたのではないだろうか?しかし歴史は説明のつかない方向に進んでいくのである。ワァィ~ジャパニーズ? ロシアにまで勝ってしまうとは!

*フルベッキ群像写真(注1) 補足 HP運営委員会
 歴史愛好家の間で話題となっている写真です。
 佐賀藩が幕末の慶応元年(1865年)長崎の五島町にあった諫早藩(龍造寺)山本屋敷を改造して設立した英学校「致遠館」において、校長であったオランダ人宣教師フルベッキと、その学生たちの集合写真が基になっているとみられます。
 副島種臣・大隈重信が当初教頭格として指導に当たり、明治元年10月27日(1868年12月10日)に致遠館に留学した岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男と三男)を迎えて、明治元年から2年の間で、日本の写真スタジオの元祖と言われる上野彦馬のスタジオで撮影されたとの見方が定説になりつつあるようです。

*会員コラムへのコメント投稿を待ってます。同窓交流活性化の為、卒業回数(卒業年)・氏名の明記をお願いします。


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Carpe Diem 「カルペ・ディエム」「一日の花を摘め」「今という時を大切に使え」 [会員コラム]

吉村 尚(西高5回生)
吉村 先輩 プロフィール 1.jpg
 今思っていることを、少々述べさせて頂きたいと思います。
 今から遡ること ?十二年前建築学科を卒業し、ゼネコンに就職しました。建設現場の施工管理をする技術屋です。
 最初の赴任地久留米を皮切りに、佐賀・熊本・仙台・会津・いわき・山形・白河・郡山・福岡・沖縄・香川・大分と家族を持ってからも転々としました。ゼネコンの現場マンは単身赴任、また土曜日・祝日も出勤することが多く、会社の仲間も家族は母子家庭の環境の様な状況の人が多かったように思います。
 そういう環境の中で、“奥さんと子供の犠牲”ど建築が好ぎという思いがあったからこそ最後まで勤められたのだと思います。
 日々仕事に追われ仕事に没頭していた42歳の秋のある日、中学・高校が同窓の友人が東京から遊びに来ました。文系卒でメーカーの営業をしていた彼に「会社一途の、仕事だけのサラリーマン生活を送っている人は、会社を辞めた時に何も出来なくて惨めな生活を送っている。趣味を持った方がいいよ。」と言われ、それが生き方のターニングポイントとなりました。それ以降時間を見つけては趣味の文化教室に通ったりもしました。
 ところが、58歳の10月の人間ドックで血液の難病が見つかりました。1か月ほど検査入院をしたのですが、“死”を身近に考え始めると夜も眠れない日もありました。現在は、病状は悪いなりに安定していますが、それをきっかけに残り少ない人生だったら廻りの身近な人のために何かしたいと思うようになりました。会社の後輩、中学・高校・大学の友人、そして同じ病気に苦しむ人のためにと‥・。
 福岡栄城会への積極的な参加、血液疾患を考える患者・家族の会への参加もその一つですし、今、専門学校で建築施工を若い人に教えている事も、そういう考えからです。

吉村 先輩 記事資料 1.jpg

 そしてもう一つ思ったことは、気の合う仲間と好きなことをして過ごすと言うことです。ゴルフ・読書・美術館めぐり・素晴らしい建築を見て廻る…等、その時々でやれる事・やりたい事をやる。今は時間に縛られる事はありませんから‥・。
 今まさに人生の峠に向かっている人、今から登ろうとする人、といった若い人は、日々の仕事・生活に追われがちで、なかなか廻りを見る余裕も無いと思いますが、それだからこそその瞬間・瞬間の最高の生き方を大事にして頂きたいと思います。

『カルペ・ディエム』!!!
吉村 先輩 記事資料 カルペ・ディエム.jpg
*紀元前1世紀の古代ローマの詩人ホラティウスによる『歌集』(Carmina)の、第1巻第11歌にこの語句が現われる。(注)HP運営委員会

■略歴
昭和50年4月清水建設㈱入社
平成22年7月㈱ミルックス入社
平成27年4月麻生建築&デザイン専門学校非常勤講師

*会員コラムへのコメント投稿を待ってます。同窓交流活性化の為、卒業回数(卒業年)・氏名の明記をお願いします。

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名ばかり「会長」にならぬよう/幸せ通信:東京同窓会とハモンドオルガン [会員コラム]

平原先輩.jpg
西高5回生 平原美子(旧姓・迎)

 今年度より、いつの間にか5回生の会長(?)のポストをいただきました、平原です。あたふたしながらも、名ばかりにならぬよう、結束固い同級生に助けられ、皆さまの仲間入りをしました。「会長」という響きにこそばゆい想いを抱えながらも、定例会にはいそいそと参加させてもらっています!
 今回、前田さんに執筆のお誘いを受け、とてもとてもと思っていましたが「日記と思えばいいかな」と、最近のトピック「幸せ通信」を2つ。

(その1)
 今年5月28日に東京都内で「5回生同窓会総会」が開催され、私たち福岡女子4人も連れだって参加しました。関東の幹事さんが2日に渡って計画を練ってくれました。土曜は「銀座がんこ寿司」に全国から総勢60名が結集。日曜は「鈴本演芸場」でモーニング寄席を楽しみ、上野吉池食堂~東大散策〜西洋美術館と、青春が蘇り、口々に「楽しかったねえ!」と…。
 DVDのお土産付きでした^_^ 想い出が人生を作り、幸せな記憶は帰ってからの活力になりました。西高万歳!感謝です。
5回生 16年東京総会dvd.jpg

(その2)
 この春、願ってもない幸運が突然ふってきました。あまりに意外すぎるluck、チャンスの神様はいました。何と、憧れだった幻のハモンドオルガンが私の手元に。音楽好きなら、ご存知の方もいらっしゃると思います。
 昔、天神の新天町にブルーノートがあったころ、organistジミー・スミスの最後の演奏を聴きに行きました。あのオルガンの音に魅せられ、ずいぶん前ですが、大和郡山で開かれた「オルガンサミット」にも足を運びました。今はピアニストに転身された小曽根真さんとお父さんの小曽根実さんとの共演も♪
 富裕層でないととても手に入らないと言われているこのオルガン、庶民の私に、なんと「送料だけでいいから弾いてくれる人に」とお声がかかったのです!佐賀市の歯医者さんからでした。「楽器だらけで僕の居場所がなくなるよ」という家人(西高3回生)を一ヶ月かけて説得し、目の前を通り過ぎかけた幸運が、ついに我が家にやってきました!
 「レスリー」という大型アンプもついた、 巨大なヴィンテージオルガンです。まだまだ眺めてうっとりしているだけですが、好きなことに向き合う楽しみがまたひとつ。それも、かねてからの念願でした。いいこともあるんですね。
 昨年はちょっと辛いこともいろいろだったので、少しずつ挽回します^ ^
5回生 平原さん.jpg
↑手前が「レスリーアンプ」

略歴
出身地 佐賀市材木町
生年月日 昭和26年12月25日

昭和42年3月 佐賀市立城東中学校 卒業
昭和45年3月 佐賀県立佐賀西高校 卒業(5回生)
昭和47年3月 福岡県立社会保育短期大学卒業 (現、福岡県立大学)
昭和47年4月 大阪市民生局勤務
昭和49年4月 東京 江戸川めぐみ幼稚園勤務
平成 2年  日本福祉ビジネス専門学院保育士講座講師担当など経て音楽講師資格取得後、自宅にてレッスン 現在に至る

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後輩への願い  [会員コラム]

最所 顧問.jpg
福岡栄城会 元会長 最所憲治
 
 先日、私の長男から孫の動画がラインで送られてきました。その動画は、スノーアプリを使用したもので、動画ですが自動的に被写体の特定の部分(たとえば目や口の部分)を変化させたり、他の映像を付加することができ、実物とは全く異なる映像になっていました。このアプリを使えば、自分をスターウォーズの異星人のように変えることが可能です。孫も異星人になっていました。これが映画の世界であればまだしも、普通の人が誰でも映画の世界のような映像を簡単に作れるのです。
 この技術の進歩に驚くと共に、私がふと感じたことは、私達は自分の目で見える世界を当然のように現実と考えていますが、もしかすると、それは自分だけが見ている現実であり、他の人の目で見ればこの現実は違ったように見えているのかも知れないということです。あたかも、スノーアプリで作られる映像の世界のように。「他人の目で」と述べましたが、「違った視点で」この世界を見れば、違った現実が現れると言った方が分かりやすいかも知れません。
 このことは、同窓会という世界においても同じことが言えるのではないでしょうか。同窓会において、最も重要なことはその継続性にあることは言うまでもありません。しかし、その在り方までも継続する必要はないでしょう。「同窓会とはこういうものだ」という固定概念で同窓会を見るのではなく、違った視点から同窓会を見ると、そこにはそれまでにない同窓会が見えてくるはずです。
 私は、福岡栄城会の前身である西高福岡同窓会の会長時代から通算すれば、随分と長い期間、会長職を務めさせて戴きましたが、その間、違った視点から同窓会を見て、従来の殻を破った同窓会を作りたいという想いでした。しかし、最後まで違った視点からの同窓会を作り上げることはできませんでした。
 自分ができなかったことを後輩に求めるのは申し訳ない気もしますが、そこは佐賀西高出身の後輩の皆様です。優秀かつ感性豊かな人材が豊富におられるはずです。
 これから福岡栄城会を背負って戴く皆様には、是非とも福岡栄城会をそれまでとは違った視点から見て戴き、これまでにはない、かつ、他の同窓会にはない特色を持った同窓会へと進化させて戴けるものと信じています。
 一人でも多くのご参加と、「違った視点」からの活発なご意見を期待しています。       
以上
略歴
出身地    佐賀県三養基郡みやき町中津隈
生年月日   昭和23年1月21日

昭和38年3月 佐賀市立成章中学校 卒業
昭和41年3月 佐賀県立佐賀西高校 卒業(1回生)
昭和45年3月 九州大学      卒業
昭和53年4月 弁護士登録
昭和61年4月 最所法律事務所開設 現在に至る

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歴史と私 [会員コラム]

増岡さんフォト.jpg
西高六回卒 増岡 昭憲
 西高6回卒―何年卒業かはパッとは思い出せない。
 年金をもらいだし数年たつので、年齢で63~4ぐらいかな。早期退職して、現役の時経済レポートなどを書いていたので、しばらく株や先物を自己売買して給与分ぐらいは稼いでいたが、サブプライム問題、俗に言うリーマンショックでとんでもないことになり、また給与生活者に戻り地道に働いていました。アベノミクスなるものでまた株が活性化してきたので、リーマンの敵(カタキ)討ちで株に専念するため仕事をやめ毎日PCに向かい奮闘する。見事敵討ちはできたが、その後は膠着状態になり段々銘柄が絞れず、暇となる。

 地元で公民館で歴史講座が開催されていた。元々歴史に興味があったので、参加することにした。講座は2つあり一つは地元柏原の歴史を探訪するもの、もう一つは大学の考古学の先生とその研究室の学生との共同作業、最近は地元の古墳の近くを試掘したり、古刹跡の仏像などを拓本取りしたりした。
古墳紹介.jpg
 私が今住んでいる柏原は引っ越す前はとてつもない「ど田舎」で、道もろくになく、寂しいと言うより薄気味悪いところだった。家内に柏原に分譲地があるから見に行こうと誘われたが、猿やタヌキと生活する気はないと断っていたが、ドライブと称し連れていかれたが、一変していたのには驚いた。公団が開発していた。それでまあ当たらないだろうと、抽選に申し込んだ。なんと当選したのである。それから柏原の住人になった。当初はまだバスの便が悪く通勤に大変だった。バブルまっただ中の平成元年のことである。
 それから公団は開発を進めマンション群などを建設していく、その最中に広範囲に沢山の遺跡が出てきたそうだ。中でも前方後円墳などが出てきて、考古学研究者を驚かせたようだ。前方後円墳はかなり地位の高い人物が葬られているらしく、柏原に当時古代のクニの王者が住んでいたらしい。だが、黒田長政の福岡築城の際大量の石垣用の石の調達に古墳の石が抜き取られたらしい。有名な話では柏原から北に位置する寺塚の穴観音と称するお寺は元々古墳で、そこら辺一体の古墳を壊していた時に観音様が長政の夢枕に現れ、長政はそこの古墳を一基残して供養したとのこと。余談ですが熊本地震で壊れた熊本城の石垣から観音菩薩像の石垣がでてきたとの報道があっていたが、仏像までも石垣に用いていたことになる。
 また柏原にはそこから博多湾一帯まで収めていた政務所があり、「政所」とゆわれる地名として残っている。またそこの入り口だった「大木戸」とゆう地名も残っている。とにかく古墳時代から江戸末期までの歴史がびっしり詰まっているらしい。昔は柏原付近まで海が迫っていたから、地理的にも安定した地域ではなかったかなと思われます。因みに地名で島の付く地名のところは昔島だったらしい。田島、美野島は周りは海だったとのことで、天神、中州は当時海の中だったそうだ。住吉神社の古地図の看板にも書かれている。
 北部九州は大陸とも近いので古代からの影響もかなり受けているので、歴史的にも面白い。古代の大陸からのルートは博多湾ルートと佐賀の有明海ルートがあったらしい。吉野ヶ里遺跡から海まではそう遠くなかったようだ。また平清盛の権力の基盤は佐賀の「神埼の荘」だったらしい。大河ドラマでも丸々1回分割いていた。清盛が有明ルートから博多の那の津ルートに変更するとき、神崎の櫛田神社を博多に持って行ったのではと考えられるが、博多の櫛田神社は受け入れていないらしい。

 三角縁神獣鏡.jpg邪馬台国論争で考古学の先生とやりあったが、九州説の私と近畿説の先生だが現在の論点は遺跡発掘で証拠を発見することらしい。証拠主義では九州説は劣勢とのことらしい。吉野ヶ里遺跡は全く関係ないらしい。証拠は捏造もできるではないかと反論するも、けんもほろろである。近畿で発掘されてる邪馬台国説の有力な鏡が実在しない年号などがあるがそれは無視するらしい。吉野ヶ里では鏡が見つかっていない。私の父の話では子供のころ吉野ヶ里遺跡がミカン畑だったころ鏡の破片らしきものをクリークに投げて遊んでいたらしい。また吉野ヶ里は邪馬台国ではなく関係国で目で見える範囲にあったのではないかとのこと、邪馬台国は八女の山門地区ではないかとのこと。魏志倭人伝では、近畿説には説明がつかないと訴えるが、しかし先生はすべて否定された。今、魏志倭人伝を少し調べている。まあ考古学者ではないので、学会にも参加できないのでそこらの知識の欠如には何ともいかない。しかし説明のつかない歴史には興味津々である。                  
(了)

*柏原の歴史に興味のある方は、以下の「福岡市市政だより」もご覧ください。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/pdf/kouhou14.pdf

*会員コラムへのコメント投稿を待っています。同窓交流活性化の為、卒業回数(卒業年)・氏名の明記をお願いします。

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会長あいさつ [会員コラム]

鈴木会長 肖像写真.jpg
 福岡栄城会会長の鈴木(佐賀西高4回生)でございます。
 会員の皆様に於かれましては益々ご清祥のこととお慶び申し上げます。また、日頃は福岡栄城会の活動に対し多大なるご支援を賜り、心から厚く御礼申し上げます。
 
 この度、俣野会員を中心とする皆様のご尽力により、本ホームぺージが開設に至りましたことに対し心から謝意を表するものであります。今後は、福岡栄城会の発展に資するような運営が出来ればと思っています。
 
 さて、現在、来たる9月24日開催予定の総会に向けて、碇実行委員長を中心とする委員の方々のご努力が続けられているところであります。
 会員の皆様方のご協力により、出来るだけ多くの方にご参加頂き、楽しくて意義ある総会になりますよう願っております。
 今後ともよろしくお願いいたします。

経歴:
1975年4月 福岡銀行入行
2006年4月 同行常務取締役就任
2007年6月 熊本銀行へ転任
     9月 同行頭取就任
2010年3月 同行退職
     4月 ふくおか証券(株)会長就任
2016年3月 同社顧問就任
      現在に至る


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法律相談 Q&A [会員コラム]

弁護士 橋本 誠太郎(西高40回生)

離婚訴訟 Q&A

Q 夫(妻)との性格の不一致や価値観の違いを理由に離婚できますか。
イラスト 性格の不一致.jpg

A 日本では、協議離婚というものが認められていますので、夫婦がお互いに離婚に合意すれば、離婚することができます。しかし、夫婦の一方が離婚に応じない場合、どうしても離婚したいときには、調停や訴訟といった、裁判所を通した手続きに進めていくことになります。調停は、あくまで裁判所を通した話合いの場ですので、夫婦が合意しなければ離婚することはできません。そうすると、訴訟になります。
 
イラスト 離婚.jpg

訴訟では裁判所が、離婚するかどうかの結論を出しますが、裁判所が離婚を認めるための理由が法律上定められています(これを「法定離婚原因」といいます。)。
これは5つあって、
①不貞行為(簡単に言えば浮気です。)
②悪意の遺棄(生活費を渡さない、理由なく同居しない)
③3年以上の生死不明
④回復の見込みのない精神病
⑤その他婚姻を継続し難い重大な事由
です。
  性格の不一致や価値観の違いは、
⑤の中の一つの事由として挙げられますが、性格の不一致や価値観が完全に一致する人はいないため、これを直ちに離婚原因と認めるには足りません。そうすると、これらを理由として離婚できないのかというとそうではなく、長期間の別居がこれを補完する材料になります。
 最近では、裁判所は3年ほどの別居期間があれば離婚を認める傾向にあります(事案によって異なります。)。
 
イラスト 弁護士 離婚協議.jpg

 では、「別居もしてないし、3年間も離婚できないなんて耐えられないよ。」という人はどうしたらいいのでしょうか。そこは法律家である弁護士の出番となります。夫婦間では、離婚に向けた話合いが、うまくまとまらないことが多いです(感情論で言い合いになったり、条件面で折り合いがつかず協議が進まない、など。)。そうした場合に、弁護士が間に入り交渉し、冷静に裁判基準などを示し、交通整理をしていくことにより協議離婚で離婚に導くことができるという可能性があります。
 離婚したいけれども話合いが行き詰ってしまった場合や、悩まれた場合には、お気軽に弁護士に相談してみてください。

   ■橋本 誠太郎 経歴■
   西高卒業年:2005年
   弁護士登録:平成27年12月
   所属事務所:弁護士法人デイライト法律事務所 [電話]092-409-1068
   学歴:若楠小学校,附属中,佐賀西高校,早稲田大学法学部,明治大学法科大学院
   趣味:ドライブ(スポーツカーが好きです),バレーボール
   佐賀の好きなスポット:マッちゃん(三瀬)
 ひとこと:久々の九州を堪能しています。先輩方,これからよろしくお願い致します。

弁護士法人デイライト法律事務所のホームページ

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会員によるコラム執筆について [会員コラム]

 皆様の御理解とご協力のもと、平成28年3月に福岡栄城会のHPが開設されました。
 運営にあたるHP運営委員会(委員長 俣野一昭・8回生)では、このHPを単なる広報手段にとどめず、会員の交流の場にすることを目標にしており、そのために、広く会員にコラムを執筆頂く形でHPへの参加を求めることと致しました。
 手始めは多くの方に係わりのある分野を,ということで検討。その結果、社会生活を営む上で誰もが関わりを持つことになる分野―「法律」-。これに係わる仕事を日々行う当福岡栄城会の会員弁護士に、「皆が興味を持っているが、よくは分からない」というテーマにつき、わかりやすく解説してもらう企画を考えました。
 最初の執筆については、あらたに当福岡栄城会の会員に加わった、二名の弁護士(橋本誠太郎君・40回生、坂口裕亮君・43回生)に、皆様への紹介の意味も込め、お願いすることと致しました。 第一回目の担当は坂口裕亮君。坂口君の簡単なプロフィールを少し紹介させて頂きますと、同君は、平成20年に西高を卒業(43回生)。九州大学法学部、名古屋大学法科大学院を経て、平成27年12月に弁護士登録。平成28年1月に弁護士法人奔流に入所し、現在、同事務所にて執務する正義感あふれる期待の若手弁護士であります。
 坂口君執筆のコラムを、ぜひお楽しみ下さい。

なお、今後は、弁護士以外にも、様々な分野で活躍する会員に、積極的にコラムを書いて頂くことを企画しておりますので、ご協力のほど宜しくお願い申し上げます。

            福岡(舞鶴)城・お濠の桜
舞鶴お濠の桜.jpg

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