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佐賀の七賢人「島 義勇」の蹟を訪ねて (Ⅰ) [故郷(佐賀)を歩く]

 佐嘉神社への鳥居を進んだ右手に「佐賀の七賢人」の石碑があります。
佐賀の七賢人 石碑.jpg

 幕末から明治初期に活躍した10代藩主鍋島直正(閑叟)公、弘道館出身の大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇、副島種臣の七公を顕彰しています。その中で、衣冠束帯姿の写真は鍋島直正と島義勇ですが、奇しくもこの主従は北海道開拓において先駆け的貢献を果たしています。
七賢人 カット.jpg

 9代鍋島斉直の文化5年(1808年)におきたフェイトン号事件で長崎警護の失態を幕府から責められ、外国の脅威を実感した佐賀藩は次の10代直正になって藩の近代化を促進させました。8代治茂は井伊家より姫を娶ったことから、当時の鍋島家と井伊家の結びつきは良好で、更に鍋島正直と井伊直弼は同じ年だったこともあり交際を深め、日本を取り巻く外国勢への危惧を共有していたとも言われています。
 井伊直政が大老となった翌年の安政6年(1859年)、井伊直弼の推挙により鍋島直正は「中将」に任じられています。それまでの藩主の多くは従四位下侍従。8代治茂が従四位下 肥前守 左近衛権少将まで進んでいます。同年長崎海軍伝習所閉鎖でオランダより寄贈の蒸気練習艦「観光丸」が佐賀藩預りとなり、三重津で運用されています。桜田門外の変で直弼の死により頓挫しますが、直正はこの時期に天領の天草を佐賀藩預りにして、そこに軍港を作ることを陳情しています。
 
 時代を少し戻します。安政3年12月21日、これまで幾度となく交渉が続いた日露和親条約が締結。箱館、下田、長崎がロシアにも開港しました。長崎で対露交渉が続けられていたのを見聞していた直正は、開港した箱館に注目し、更に北方防衛にも危機感を持っていたようです。
 そこで直正は、安政3年(1856年)近習の島義勇に蝦夷地の探索を命じます。
 今回は、島義勇にスポットを当て、藩主直正や幕末・維新期に活躍した多くの藩士の蹟も併せて、巡っていきたいと思います。

 島義勇は文政5年(1822年)9月12日、佐賀藩士島市郎右衛門の子として、佐賀城下の精小路に生まれています。
 *佐賀清和体育館敷地が明治期、島義勇の屋敷地と伝わっています。
屋敷跡.jpg

 8歳で藩校弘道館に入学しています。併せて、従兄である枝吉神陽に皇漢学を学んでいます。
 神陽は、東の藤田東湖と並び称される国学の権威であり、「日本一君論」を提唱し、藩内の思想をリードしていました。
 弘化元年(1844年)23歳で弘道館を卒業して、家督を相続しています。その後、諸国遊学にて、熊本の林 桜園、昌平黌の儒官(総長)佐藤 一斎、水戸学の藤田 東湖などに学んだと伝わります。
 特に藤田東湖の水戸藩は蝦夷地探検家の間宮林蔵や松浦武四郎の後援者と目されていて、島義勇は藤田東湖との交流で、蝦夷地の概要を習得したとも言われています。
 弘化4年(1847年)26歳で帰藩して鍋島直正の外小姓、弘道館目付けとなります。
 嘉永3年(1850年)義祭同盟発会式に参加しています。枝吉神陽、実弟の枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加していいます。これ以降、毎年5月25日に行われて、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞(直正の兄で須古鍋島家を継ぎ、25年間本藩執政、弘道館学館頭人に就任し、藩校教育に力を入れた。)、鍋島直嵩(白石鍋島家・本藩家老 請役所総裁)らも加わっている。
 *龍造寺(佐賀)八幡宮境内の楠神社前に顕彰碑があります。
龍造寺八幡宮前.jpg
義祭同盟顕彰碑.jpg
楠神社 説明板.jpg

 鍋島直正から島義勇は安政3年(1856年)蝦夷地探索の直命を受けます。下命はロシアの南下策に対応するため、ロシアと接する蝦夷地の現状調査と箱館における佐賀藩交易の根回しであったようです。
 
 *前年の安政2年(1855年)7月25日、鍋島直正は長崎にてオランダ蒸気船ヘデー(ゲデー)号に乗船、佐賀藩精錬方では蒸気車や蒸気船の雛形の製造に着手、また多布施反射炉で鋳造した大砲を品川台場に据え付けています。長崎防衛、藩政改革が軌道に乗り佐賀藩の近代化を推し進めると同時に、正直は蝦夷地にも目を向けていました。直正はそれ以前にもオランダ船バレンバン号に乗船したことがあります。
 *弘道館教授で寛政の三博士である古賀精里の次男古賀侗庵とその子謹一郎(茶渓)は幕臣となっていました。昌平黌の儒者であった古賀謹一郎は国外への関心も強く、独学で漢訳蘭書で西洋事情を学んでいます。
嘉永6年(1853年)ロシアのプチャーチン使節来航時、川路聖謨らに同行し長崎での交渉に従事しています。佐賀藩人脈に幕府のロシアとの交渉官がいました。
 ■余談■
 古賀謹一郎の昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人に河井継之助(長岡藩家老・戦術家、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)など多彩。勝麟太郎とともに創案した洋学研究機関である蕃書調所が安政4年(1857年)開設。蕃書調所頭取(校長)として、教授に箕作 阮甫(ペリー来航時に米大統領国書を翻訳)をあて、教授見習の中には、村田蔵六(大村益次郎)、松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)など幕臣以外からも採用している。明治後、東大の前身となる大学校の教授に明治新政府から招聘されるも幕臣として節度から辞退し、静岡に移り住んでいます。
 
 安政3年(1856年)9月4日、島義勇は佐賀城下を出発し、萩・津和野・浜田・鳥取・京都を経て江戸に入り、11月7日に江戸を発っている。この期間を「安政三年日記」として記録しています。各地で多彩な人物と交流しています。

 ■余談■ 他の七賢人の当時の状況
1)佐野常民
 島と同年である常民は精煉方頭人として、安政2年(1855年)に日本初の蒸気機関車の模型を完成させ、長崎海軍伝習所で伝習(一期生)を受けている。
2)副島種臣(島の母方の従兄弟)
 嘉永5年(1852年)京都に遊学、尊王活動に従事。兄神陽の尊王思想を実行しようと「将軍廃止と天皇親政」の意見書を公家大原重徳に提出、久邇宮朝彦親王より藩兵の上洛を要請される。しかし藩主直正は動かず、種臣を藩内に留めるべく、弘道館の国語教授に命じています。
3)江藤新平
 安政3年(1856年)「図と 海策(かいさく)」なる長文の時事意見書を執筆。経済及び軍事の近代化を図るために積極的開国を主張しています。
4)大木喬任
 この時期詳細不明。藩内での勤王運動に参画。
5)大隈重信
 安政2年(1855年)に、弘道館での南北騒動をきっかけに退学、安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じています。旧態然の儒学学生と洋学志向の学生との弘道館内対立事件で、首謀者として退学もすぐに復学を許されています。

 島義勇はその後、仙台伊達藩など東北地方を廻り、安政4年3月頃に同僚の犬塚与七郎と箱館に入っています。

 ■ 現在の函館(箱館)160余年後の町並み。当時は箱館山の麓の港を中心に集落がありました。当時の箱館奉行所は現在の元町公園に置かれていました。
函館の夕日.jpg
函館山.jpg
 
 幕府旗本で函館奉行の堀利煕の蝦夷地視察(廻浦)に同行し134日にわたる視察に向かいました
。主に蝦夷地周囲を船と徒歩で廻っています。幕府公認ではなようですが、藩主直正は堀利煕とも親しく、島は堀の近習として参加したとも言われています。
 当時の資料によりますと、同年閏5月11日に箱館を出立し、ヤムククシナイ(現:八雲町山越)・ヲシヤマンベ(長万部)からスツツ(現:寿都町)・イワナイ(岩内)・ヲタルナイ(現:小樽)・ゼニハコ(銭箱)・イシカリ(石狩)・ハママシケ(現:石狩市浜益区)・ルルモツヘ(現:留萌)・トママイ(苫前)・テシホ(現:天塩)・ソウヤ(宗谷)から樺太南部を巡視し、モンベツ(紋別)・アバシリ(網走)・シヤリ(斜里)・シベツ(標津)・ノツケ(野付)・アツケシ(厚岸)・クスリ(現:釧路)・ヲホツナイ(現:十勝川河口 打内・大津)・ヒロオ(広尾)・襟裳岬・ニイカツプ(新冠)・ユウフツ(現:苫小牧・勇払)・チトセ(千歳)・シラヲイ(白老)・ノボリベツ(登別)・モロラン(室蘭)・ウス(有珠)・レフンケ(現:豊浦町字礼文華)から長万部と道内を一周し9月27日に函館に戻っています。
北海道 白地図.jpg

 *巡察時の記録として島義勇の「北入記」が今に伝わっています。全4冊(雲・行・雨・施)があったと言われていますが、「雲」の原本は伝わっていません。
 仙台藩士玉蟲(虫) 左太夫も参加していて、同名の「入北記」9冊を残し、こちらは原書が全て伝わっています。玉虫・北入記に「安政4年(1857年)閏5月26日午前10時に島団右衛門道同、松浦武四郎へ参る」とあります。
 *蝦夷地巡察で島義勇と交遊した人
1)函館奉行の堀利煕(1818年~1860年 享年43歳)
 幕臣・堀利堅(大塩平八郎の乱時・大坂西町奉行)の四男。安政5年(1858年)に新設の外国奉行、のち神奈川奉行も兼任し、横浜港開港に尽力し、通商条約での日本国全権の一人として署名。万延元年(1860年)プロイセンとの条約交渉において、不手際を老中安藤信正から指弾され、9月に神奈川奉行免職。11月6日、プロイセンとの条約締結直前に自刃しています。
 ■余談■
 箱館奉行は当時3名任命され、1名は江戸在府・竹内保徳、1名は箱館在勤・村垣範正(後に遣米使節の副使・外国奉行)、1名が迴補の堀利堅でした。迴補に随行した随員12名の中には、島・玉虫の他に榎本武陽もいました。

2)仙台藩士の玉蟲 左太夫(1823年~1868年 享年47歳)
 江戸の湯島聖堂に学び塾長となる。安政4年の蝦夷地巡察に同行、「入北記」を署す。万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の外国奉行随員として渡米、「航米日録」全7冊(8冊の内1冊は秘書となっています)を著す。遣米使節の記録の中でも、客観的で世界一周した各地の実情を詳細に記録しています。
 慶応4年(1868年)戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取、明治2年(1869年)敗戦に伴い捕縛され、獄中で切腹しています。
 *幕府は東北諸藩に蝦夷地警備を命じ、仙台藩では蝦夷地の白老(現白老町)に安政3年(1855年)仙台陣屋を置いて、襟裳岬を経て国後島・択捉島までを守備範囲としていました。陣屋跡地は昭和41年(1966年)国指定の史跡になり、近くに「仙台藩白老元陣屋資料館」が開館しています。
 ■余談■
 鍋島直正は江戸出府時、遣米使節派遣の計画を知り、国元に随行者の人選を命じています。結果、正使一行が乗船したポーハタン号に本島喜八郎(長崎海軍伝習生)、島内栄之助(長崎海軍伝習生、火術方)、小出千之助(長崎海軍伝習生、語学に堪能)、綾部新五郎(小城藩)、医師川崎道民(長崎海軍伝習生、写真技術を習得し佐賀の写真技術の祖)の5名、咸臨丸には秀島藤之助(精錬方・アームストロング砲製造に従事)、福谷啓吉(長崎海軍伝習生、精錬方・蒸気船建造に従事)の2名、計7名が派遣されています。*長崎海軍伝習所一期生において佐野常民以下佐賀藩藩士はオランダ教官から高評価で、修練も幕臣・他藩を凌駕していたようです。
 佐賀藩が幕臣以外で最も多い人数を派遣できたのは、藩主直正の幕閣との交流の賜物であり、操船技術を会得していた人材が豊富になっていた事だと考えられます。
 長崎でオランダ船に乗り込むほどの直正ですから、彼の心底では自分も随行したかったのではないでしょうか。随行する藩士に、事細かな視察目的を指示しています。

3)松浦武四郎(1818年~1888年 享年70歳)
 現在の三重県松坂市の郷士の出身。蝦夷地を六度に渡り調査し、当時蝦夷地に関しての第一人者であった。伊能忠敬や間宮林蔵によって、蝦夷地の地図は作られたが、あくまで白地図に過ぎませんでした。安政2年(1855年)、「蝦夷山川地理取調御用御雇」となり、道内や樺太をくまなく廻り、「東西蝦夷山川地理取調図」を箱館奉行所に上申し、道内の山や川の地理図にアイヌ語での地名を明記、道内各地域村落のアイヌ酋長・小使名を明らかにしています。当時のアイヌの風習や実情を調査し、和人による圧政を批判、佐賀藩などの大藩が地域開発に乗り出すのを歓迎しています。島義勇には、クスリ(現:釧路)場を推薦しています。
 明治2年(1869年)新政府より開拓判官となり、蝦夷地をアイヌ伝統に敬意を込めて「北加伊道」を選び、「北海道」と命名し、同じようにして各地の郡名等を選定しています。島義勇の先導役でありました。明治3年開拓使のアイヌ政策の怠慢に抗議して辞職、従五位の官位も返上しています。
 余生を東京で過ごし、自宅の片隅に作った一畳敷の書斎は、その後当時の趣味人を伝え渡り、「一畳敷書斎」として、最終的に現在の国際基督教大学内に移築され、学園祭に特別公開されています。

 *箱館迴補奉行の堀利煕は幕末開港での外交官僚として活躍するも、孤立して荒波にのまれました。蝦夷地巡察で幕閣から評価され遣米使節で世界一周した玉蟲 左太夫は、幕府への忠節に殉じて維新の激動にのまれました。島義勇も、人徳・人望があるが故に明治維新の揺り戻しにのみ込まれてしまいました。市井の人に戻った松浦武四郎だけが風流な余生を送ったことになります。

 島の「北入記」は経済的視線で記録され、多くの絵図もあり、当地での産業・交通・交易に注目しています。幕府の蝦夷地政策や支配役人の不正にも言及していますが、佐賀藩による箱館貿易での具体策も書き留めています。藩主直正の意向だったと思われます。
 一方の玉蟲の「北入記」は、松浦と同じく地理やアイヌ民族及び現地での支配体制を詳しく調査しています。仙台藩が白老陣屋を拠点に、蝦夷地防衛とアイヌ及び和人への民政をすすめる上での調査とも考えられます。二人共にそれぞれの藩を背負っていたことが判ります。
 島義勇と同行した犬塚与七郎は途中で報告のため帰藩し、10月には佐賀藩郡目付・高柳忠吉郎以下藩士が3名箱館を来訪しています。
 島は箱館に帰還後、築城し始めた「五稜郭」を見聞、また箱館台場築造の工法・工費など詳細を記録しています。
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 島義勇は安政4年(1857年)11月19日、江戸に帰府する堀奉行に同行して、箱館で新造された「箱館丸」に乗船し、試乗航海で12月19日江戸に戻ってきています。この時の詳細を「東洋記」として著しています。この日記には箱館丸の構造・備品などの絵図、宮古などの湾内鳥瞰図も書かれています。
 *箱館丸の説明


 島義勇は安政5年(1858年)帰藩し、その後に蔵方組頭に任じられています。

 幕末期が、佐賀藩は二重鎖国体制の元、藩士の藩外への往来は厳しく制限されていました。しかし一方で、藩主鍋島正直の積極的な富国強兵策の先兵として、多くの弘道館出身者が藩内外で活躍もしていました。
                            つづく 

☆参考資料
① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
④ 島義勇伝:(有)エアーダイブhttp://www.dybooks.jp/
⑤ 国立国会図書館デジタルコレクション - 東西蝦夷山川地理取調図

  
 
 
 

 
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さがさいこう⇒さがさ・いこう⇒さが・さいこう [故郷(佐賀)を歩く]

■ 佐賀さ行こう・佐賀最高 ■

*2017佐賀インターナショナルバルーンフェスタ
 今年も予定総数112機(18カ国・地域から)が参加し、11月1日(水)~5日(日)まで開催されます。
 10日間天気予報から、期間中は天候にも恵まれそうです。

*2017佐賀インターナショナルバルーンフェスタ公式HP
佐賀インターナショナルバルーンフェスタ[Hi-res/4K SAGA]
360°パノラマ動画「2015佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」

*360°パノラマ動画「2015佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」のHP

*バルーフェスタ以外にも「第24回 シチメンソウまつり」、「佐嘉城下 骨董市」が開催されます。
■「第24回 シチメンソウまつり」11月3日~5日 10:30 ~
 ライトアップ 18:00 ~20:00 10月28日~11月2日
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■「第29回佐賀城下秋の骨董市」11月3日~5日 10時 ~ 17時
 会場 : 松原神社境内
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■ 九年庵:秋の一般公開 平成29年11月15日(水)~11月23日(木・祝) 9日間
             午前8時30分~午後4時まで 
             美化協力金300円(中学生以下無料)
   九年庵[Hi-res/4K SAGA]

■佐賀市インバウンド観光向けのPR動画「Surf Slow SAGA, Japan 4K 」


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昭和の面影、昭和33年松竹映画「張り込み」ロケ地等を歩く。 [故郷(佐賀)を歩く]

 まずは松原町周辺を歩きます。中心部の交通混雑解消のために、郊外を迂回・周回するバイパス道の周囲は開発が進み、人の流れが郊外に拡大した結果、市内中心部は衰退し、時が止まった区域が点在しています。
 昭和の面影が残っている場所もあれば、平成に入り変貌してきた場所もありますね。
松原神社 周辺地図.jpg

 ・「松原マーケット」の今!
 戦後「徴古館」の土地および佐嘉神社境内地を引揚者の方々に貸し出してバラックが建ち並ぶ闇市が出来ました。その後「松原マーケット」と呼ばれる商店街に発展しました。
 昭和47年7月発行の「佐賀市白山町商店街診断報告書」では、競争相手の商店街として、松原マーケットは店舗数「77店」・買い回品「20店」・最寄品「24店」および飲食とサービス「33店」の規模で、食料品主体の街区で市内有数の飲食街である、と記されています。
 その後、近くにあった市役所が佐賀駅近くに移転、城内公園化構想から、地権者である鍋島報校会も廃業時に更新しない方針をとり、近年は廃業店舗の解体も進み空き地が広がっています。
 ・整備されつつある徴古館の周囲、北濠城内より。
徴古館 周囲全景.jpg
徴古館 前庭.jpg
 ・取り壊された店舗跡は駐車場になっています。
徴古館 駐車場.jpg
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 ・貫通道路からの入り口にある人気の饅頭屋さんは健在!閉めた店もあれば、頑張っている店もあります。
貫通道路 商店街の入り口.jpg
営業中の店もある.jpg

・昭和の家屋と平成のマンション(平成13年・2001年、完成、15階建て)
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 ・昭和の旅館と平成のマンション 旅館の手前は公園化されています。ここには戦後、親和銀行佐賀支店がありました。
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 ・広場の東側は「復興通り」
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 昭和30年代、松原2丁目界隈には映画館が立ち並び、東映・日活・東宝・松竹・洋画の有楽会館などがありました。佐賀大映だけは、貫通道路沿いの福岡商店ビル辺り(水ケ江)でした。東松原(新馬場)には「平和映劇」、市民会館前には「朝日映画」がありました。また、駅前西通りには「駅前東映(名画座)」、紡績通り角に「若草映劇」、唐人町に「昭和映劇(昭和東映)」がありました。
 福岡市内では中州に映画館が集中していましたね。国体道路と50m道路(昭和通り)との間に、昭和32年当時16館の映画館が林立していました。今は大洋映画劇場だけになっています。
 ・佐賀東映 映画館跡 今はマンションになっています。
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 ・閉館したセントラル会館は昭和30年代、有楽会館や有楽オスカーがありました。
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 ・佐賀松竹(松竹世界館)今は駐車場です。奥の「セントラルプラザ」には佐賀東宝がありました。セントラルプラザ・東隣の駐車場は当時「レストラン赤玉」でした。
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レストラン赤玉 跡.jpg
 ・「セントラルプラザ」!3階に中心部唯一の映画館「CIEMA」が頑張っています。
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 ・佐賀日活 今はセントラルパレスで飲食ビルになっています。
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セントラルパレス .jpg

☆さてここから本題です。映画つながりで! 
 昭和32年(1957年)、今から半世紀前の秋に佐賀市内で映画のロケがありました。松本清張の短編を映画化した「張り込み」です。
 松竹映画 監督:野村 芳太郎 脚本:橋本 忍 音楽:黛 敏郎 主な出演:大木 実、宮口 精二、高峰 秀子、田村高廣。
 上映は翌昭和33年1月でした。日本の映画館入場者数は昭和33年(1958年)に年間11億人に達し、入場者数がピークになった年です。昭和34年の皇太子殿下・美智子様のご成婚パレード実況中継でテレビが爆発的に売れ、プロレス・野球・相撲など映画では太刀打ちできないスポーツ実況生中継がテレビの存在価値を高めました。更に、テレビドラマでもVTR収録が始まり作品の品質が向上し始めたことなどから、以後映画館入場者数は減少の一途となります。
 「張り込み」では、 佐賀駅、護国神社周辺、県庁前、旧佐賀警察署、中の小路、松原通り、松原神社、呉服町、材木町などでロケがあり、60年前の風情が物語の背景に描かれています。
 特に尾行のシーンでは、母校の旧正門・図書館・講堂の一部が背景に確認できます。この当時、母校から貫通道路までの道など市内の主要な道は未舗装だったことがよく判ります。
 ストーリーの後半、尾行のシーンには、護国神社北の多布施沿いの小路、県庁前、母校前の通り、県知事公舎の角、日本勧業銀行佐賀支店がある中の小路交差点、松原川沿いの松原小路、松原町・呉服町界隈が登場します。
 ストーリーに準じて今の風景をご紹介します。
 *「張り込み」はDVD&Blu-rayが発売され、レンタルもあります。(店頭にないことが多く、ツタヤなど取り寄せ可能な店舗がお薦め)
■ストーリー :東京で発生した強盗殺人事件の容疑者(田村高広)の元恋人(高峰秀子)が後妻として佐賀に嫁いでいたことから、立ち寄る可能性が高く、刑事二人(大木実、宮口精二)が佐賀に出向き、嫁ぎ先向かいにある旅館の部屋で張り込みをする。単調な日常生活の連続で犯人が接触してくるのか、刑事二人に焦りがでるが、張り込み予定最終日に犯人が接触し、追跡の上、逮捕となる。

 ・冒頭、一昼夜かけて横浜から佐賀まで夜行急行列車でのロングシーンがあります。満員で真夏の風情をドキュメントタッチで描いています。電気機関車から山陽本線では蒸気機関車の雄姿に替わり、瀬戸内、広島駅・小郡駅・関門トンネル・博多駅の当時の風景が見られます。博多駅は先々代のホーム・改札が登場します。その後に懐かしい旧佐賀駅に到着、グリコの広告塔ロータリーがチラリと見えます。
 ・新山口駅(旧小郡駅)
新山口駅.jpg
 ・劇中の蒸気機関車と同じC591型、当時急行雲仙を牽引。
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 ・当時の板張り客車のイメージ
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 ・当時の関門トンネル専用電気機関車。山陽・鹿児島本線が未電化の昭和30年前半、関門鉄道トンネルは既に開通時の昭和17年から電化されていましたので、下関と門司で機関車の付替えがありました。
関門トンネル専用電気機関車.jpg

 ・旧佐賀駅前、現在の「駅前交番西交差点」
駅前交番西交差点 1.jpg
駅前交番西交差点.jpg
 ・翌日、佐賀署に挨拶に出向く。城内の空撮、県議会議事堂ドームと佐賀警察署が映るショットから警察内部での挨拶場面、その後警察前から、バス停のシーンとなります。警察署前の交差点(信号機など無し)、昭和バス・初代トヨタクラウンが通る中をすり抜けてバス停に向かいます。背景に北濠の貸しボート遊びが見られ、懐かしいです。今、佐賀警察署は移転し佐賀県警本部になっています。
県警本部前交差点.jpg
県庁前 バス停.jpg
 ・刑事二人は、元恋人が後妻に入った家がある場所へ向かいます。護国神社前から多布施川沿い(瓦葺店舗もあれば西進し、茅葺店舗も見られます)に西進し、三角橋を渡ります。近年、国道264号が妙安寺小路から紡績通りへ拡幅新設され、三角橋にも安全確保の欄干が付けられています。劇中では、多布施川の棚路で洗い物をする姿がバックに見られます。
護国神社 太鼓橋前.jpg
護国神社 多布施川沿い.jpg
平成の初め頃までは撮影当時の姿でした。多布施川沿いの道にもガードレールが設置され、棚路も埋め込まれています。
三角橋 多布施川 埋められて棚路.jpg
三角橋.jpg
三角橋 親柱.jpg
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三角橋 1.jpg
三角橋 多布施川 .jpg
 ・監視対象の家の前が旅館だったことから、二階の一室で張り込みに入ります。この後にやっと映画タイトル「張り込み」が映し出されます。当時映画を見た全国の方々は、これで如何に「佐賀が東京から遠い所にある街」か実感したのではないでしょうか。
      ↓イメージ写真(長崎街道・伊勢屋町)
肥前屋 イメージ.jpg
 ☆見張りの為に宿泊する旅館「肥前屋」でのシーンは松竹大船撮影所で撮られています。
 
 単調な生活の中、決まった時間に買い物に行くシーンでは、撮影当時「日峯さんの縁日」で興行していた矢野サーカステント前(東堀埋め立て広場)、東魚町・新道商店街(県病院北通り)?の商店街が背景に使われています。 ・東濠跡の駐車場(1時間100円、24時間)
東濠 埋立地.jpg
 ・東魚町
東魚町.jpg
 ・新道商店街(県病院北通り)一角、好生館跡地に「健康検診センター等の複合施設」が建設中。
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 原作にはありませんが、高峰秀子演じる後妻さんが、夫の代わりに焼香に出向くシーンとなります。当時の佐高・西校舎正門前から本願寺前、材木町の佐賀劇場前が「材木町市営バス停」として(フィクション)登場し、国道34号線・神崎手前の大町橋バス停を降りて、唐香原(からこうばる)に歩いて行くのを刑事二人が尾行します。
西高 旧正門前.jpg
 ・佐賀劇場(昭和41年に閉館)の跡には借家長屋などが建てられています。当時の橋は架け替えられ「劇場橋」と命名されています。劇中では、懐かしのボンネット市営バスが登場します。*佐賀市交通局のホームページに撮影当時のバス写真がありますよ。
佐賀劇場 跡.jpg
劇場橋.jpg
 ・「劇場橋」には佐賀劇場の面影が埋め込まれています。
劇場橋 近影.jpg
劇場橋 イメージ.jpg
 ・現実の「材木橋バス停」は、貫通道路の材木橋を挟んで、佐賀共栄銀行本店前など東西にあります。
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 ・神埼市本告牟田、国道34号線大町橋付近の今!西鉄久留米駅&信愛女学院行と、昭和バス三瀬車庫前行が運行しています。
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大町橋 バス停.jpg
 ☆原作者の松本清張は北九州小倉出身ですが、清張夫人の地元は神埼町・大町橋近くの農家で、戦時中疎開していました。出征していた清張もここに復員しています。芥川賞を受賞し東京に出て、社会派推理小説で活躍した松本清張ですが、意外にも、佐賀平野の地理や風情に精通していたようです。
 
 後妻さんが歩いたバス停から日の隈山へ延びる道は田んぼの中の一本道でしたが、現在では日の隈山まで、道の東側は桜並木が続きます。
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 ・唐香原の集落に歩き進みます。
唐香原 入口.jpg
唐香原集落 入口.jpg
唐香原集落 .jpg
 
 ☆唐香原集落を通る道は「平山 古代官道」であり、太宰府から吉野ケ里を通り肥前国府に通じていました(西海道)。 
 
 ・ 農家の庭先での葬儀に参列し、道端から刑事が覗くシーンとなります。
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 ☆現在の唐香原集落に、撮影当時の風景は見られませんが、大町橋から唐香原に向かう途中に「横武クリーク公園」があり、くど造り民家が保存公開されています。
横武公園.jpg
くど造り民家.jpg
横武公園 くど造り民家.jpg

 ・「張り込み」次のシーンは雨が降り出し、後妻さんが主人の勤務先へ傘を届ける場面となります。これは柳川で撮影がありました。 

 ・張り込みも予定の日数が過ぎ、刑事の二人も諦めかけた時、傘直しに変装した犯人が現れ、時間をずらして外出する後妻を刑事一人が尾行します。三角橋、県庁前、母校前・本願寺正門前、県知事公舎角、旧勧銀佐賀支店前交差点、松原川に沿って、松竹宇宙館、松原神社前の浮立面踊り、呉服町、国鉄佐賀駅、祐徳バスターミナルが映し出されます。 ・撮影当時の楠木?県庁前の大楠
県庁前の大楠.jpg
 ・元恋人に会う為か、日傘をくるくる回しながら門前を通っていくのが印象的。
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 ・裁判所前交差点、県知事公舎角の塀の丸みは今も同じ。
知事公舎 角.jpg
 ・今は佐賀玉屋南館が在りますが、旧勧銀佐賀支店前交差点が登場します。
 ☆勧銀佐賀支店は昭和41年(1966年)9月17日深夜、金庫室が破られ当時の金額で3200円が盗まれてました。犯人は捕まらず時効になっています。2年後に東京府中にて3億円事件が発生するまで国内現金盗難事件で最高額でした。
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 ・県庁通りから松原川沿いの道に入り松原町を進みます。シーンでは写真館の看板が目につきます。
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 ・松原川は市民が水に親しむ親水公園となって、遊歩道も整備されています。
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 ・中央通り開通後進出した日祐の跡はマルキョウが入っていましたが撤退、平成28年(2016年)10月、佐賀バルーンミュージアムとして、再スタートしています。
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松原川 バルーンミュージアム&裸婦像.jpg
松原川 佐賀バルーンミュージアム.jpg
 ・旧嬉野家の武家屋敷門(薬医門)が平成27年度に保存修理、嬉野家(当時は多久蔵人屋敷)の西隣には創設時の「弘道館」がありました。東隣はシーンに看板が見られた写真館。
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 ・佐賀県教育会館?らしき建物を通り抜けます。佐賀県教育会館は昭和53年(1977年)3月、高木瀬町に移転して、今では15階建てのマンションが建っています。
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 ☆マンションの前立つ河童の手に触れると、松原川に架かる河童橋が放水します!!
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松原川 河童橋 放水.jpg
 ☆松原川では鯉が放流されています。
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 ・松原川沿いに日峯さんで賑わう街が映し出されます。今では静かな通りです。
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松原川 松原通り 1.jpg
 ・松原神社前の通りで、「浮立」が群衆の中で舞われる中、刑事は群衆に阻まれて、後妻さんを見失います。今は平屋のフラワーショップになっていますが、シーンには「お肉屋さん」が映っています。ここの一角には後に「金ちゃんうどん」が在りましたね。
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松原神社 前1.jpg
 ☆昭和を通じて市内で最も人通りが多かった通りも、書店が移転し、呉服町のアーケードも撤去されたりして、様変わりしています。
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 ☆松原神社の大鳥居。「張り込み」で新人助監督だったのが「山田洋次」でした。彼の代表作である「寅さんシリーズ」の「42作・男はつらいよ ぼくの伯父さん」昭和64年12月公開で、佐賀・小城を地方の舞台とし、「張り込み」と同じ日峯さんの祭り風景と境内での浮立踊りを取り入れています。「張り込み」から30年後、今から約30年前の風景が見られます。
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 ☆「寅さん」でも「浮立」は登場し、この時は境内で舞われています。
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・後妻さんを見失った刑事は呉服町から佐賀駅に向かいます。喫茶晩翠、南里本店店頭が確認できます。晩翠・南里本店(道路左)・ミキヤ洋品店(道路右角)跡。
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呉服町 通り 1.jpg
 ・駅では見つからず、駅前の祐徳バスターミナルでの目撃情報から、多久にタクシーで追います。タクシーでの追跡シーンでは、佐賀平野の空撮が登場。原作では古湯(原文要約:川北温泉、S市を流れている川の上流)を連想しますが、ロケハンで不採用となり最終的に大分の宝泉寺温泉で撮影されています。

 ☆松本清張は、映画化された中で気に入った作品として「張り込み」・「黒い画集 あるサラリーマンの証言」・「砂の器」を上げています。
 ☆「張り込み」は昭和33年「キネマ旬報」第8位。
   第7位は小倉を舞台にした「無法松の一生」でヒロインはここも高峰秀子、第19回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。
 ☆原作:松本清張、監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍のトリオで、この後数々の作品が映画化され、集大成として昭和49年(1974年)10月公開「砂の器」が公開され、キネマ旬報年間第2位となっています。この時、脚本は橋本忍&山田洋次でした。
 
 ■松原などの街中散策に戻ります。更に水ケ江方面に歩きます。

 ・松原神社大鳥居前、昭和を代表する繁華街の一角でパチンコ店が連なっていましたが、今は更地です。
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「一休軒本店」は昭和30年から親しまれた老舗のラーメン店でしたが平成23年(2011年)8月14日閉店。向かいには対照的に親水公園が整備されています。左手の洋館風建物は公衆トイレ。
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洋館風公衆トイレ.jpg
 ・新馬場通り(松原神社参道)、大財通りからの参道入り口には、木製鳥居がありましたが、「シロアリ」により昭和43年頃撤去されています。参道入り口左手は「松川屋」。森鴎外「小倉日記」に登場し、鴎外が泊まっています。また昭和32年10月、映画「張り込み」の撮影時の宿舎にもなっています。
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 ・松原参道入口向かいには、明治27年(1897年)から昭和14年(1939年)9月まで、佐賀米穀取引所がありました。戦後タクシー会社本社が有りましたが、今では外食チェーンの店舗&駐車場になっています。
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・取引所跡地東に残る重厚な煉瓦塀
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 ・水ケ江交差点、昭和30年から40年代にかけて市内でも交通量の多い交差点でした。昭和46年(1971年)に箱型歩道橋が設置され、人と車の混雑解消が図られました。只、同時期に北部・南部バイパスが完成し、人と車の流れが分散したこともあり、障害者や高齢者に優しい街づくり・バリアフリーの観点から平成11年に歩道橋は撤去されています。
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 ・片田江交差点「椎小路・説明版」
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 ・閉鎖が決まった寿商店街 平成29年6月で60年の歴史に幕を下ろします。大財通りと貫通道路に出入り口があるL型ミニ商店街で隆盛期は20店舗ほど有りましたが5店舗に減少、店主の高齢化もあり商店会を解散するようです。
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寿通り商店街 通路.jpg
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 ・水ケ江・片田江商店街 シャッターを下ろした店舗も多い中、「大隈重信生誕地」商店街をアピールしています。
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片田江商店街 大隈記念館前 バス停.jpg
 ・バス停も「大隈記念館入口」になっています。以前は「県立病院東門」平成25年(2013年)4月変更。
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 ・大隈重信記念館:生誕125周年記念で昭和41年11月落成、昭和42年10月開館 平成27年2月館内リニューアル。
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 ・重信候生家(国史跡名勝天然記念物)
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 ・江戸時代の侍町割り説明版「片田江小路」
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 ・新道商店街 県立病院が移転し市民会館が閉館し、商店街のランドマークが無くなり静かな通りです。昭和の時代、此処も活気が有りましたね。商店街案内図を見ると、卒業写真の撮影をした写真館などが確認できます。
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 ・新道商店街から東に進むと市村記念体育館の裏手に出ます。昭和38年(1963年)、市村清氏寄贈により佐賀県体育館として開館、平成4年(1992年)に寄贈者を記念して「市村記念体育館」に名称が変更されています。
 昭和39年(1964年)9月15日、長崎県からの聖火は西有田村(当時)で佐賀県ランナーに引き継がれ、国道35号から34号線を進み、午後6時半前に市村体育館の2階ブリッジに到着しています。翌16日、県庁を出発し基山町で福岡県に引き渡しています。
 また昭和40年(1965年)2月、佐高最後の第16回卒業式もここで挙行されています。
 体育館前には円形の大噴水が有りましたが、今は撤去され芝生が張られています。
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 ・県庁展望室より、松原町・水ケ江町を望む。
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 □今回ご紹介しました映画「張り込み」は、レンタルなどで鑑賞されることを重ねてお勧めします。映像特典では20年弱前の佐賀市内の風景が見られます。三角橋はまだ欄干がなく、呉服元町アーケードも健在です。

☆ 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 佐賀県立図書館 ゼンリン住宅地図 昭和30年~40年代
 ⑦ 新潮社:松本清張傑作総集より「張り込み」
 ⑧ 松竹DVDコレクション「張り込み」本編116分 映像特典19分 
 ⑨ 北九州市立松本清張記念館「松本清張と映画」
 ⑩ 西村雄一郎のブログ:ドキュメント「張り込み」①~㉞
 ⑪ 佐賀新聞社 デジタルライブラリー
 ⑫ 九州鉄道記念館
 ⑬ 佐賀市営バスブログ
 ⑭ 佐賀市、神埼市HP
 ⑮ 松竹DVD 第42作 男はつらいよ ぼくの伯父さん
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」特集を企画したく、
投稿よろしくお願いいたします。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

タグ:張り込み
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春!徐福ロードの桜が満開です [故郷(佐賀)を歩く]

 国鉄佐賀線は、国鉄再建法の第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化の直前の昭和62年(1987年)3月27日で全線廃止となりました。佐賀線の廃線跡は、大財六丁目交差点から南佐賀東交差点までが市道になり、南佐賀東交差点より諸富鉄橋展望公園まで総延長約5キロの(名称:徐福サイクリングロード)歩行者・自転車専用道路になっています。
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 ・「みなみさが駅跡」
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 時間が止まった「運賃・時刻表」 今佐賀駅バスセンターから南佐賀バス停の運賃は260円です。
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 ・夏の「みなみさが駅跡」
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 ・桜のトンネル
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 ・国道208号と立体交差の「ふれあい橋」付近
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 ・諸富町、県道48号佐賀佐賀外環状線と交わる所にある県重要無形文化財「三重の獅子舞」のモニュメント(獅子の広場)
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 ・国鉄諸富(もろとみ)駅跡に建てられた佐賀市立諸富文化体育館(ハートフル)
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 ・筑後川昇開橋(正式名:旧筑後川橋梁) 平成15年5月 国指定文化財。
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 ・記念碑説明抜粋
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 ・筑後川を渡る「渡し舟」や佐賀馬鉄の説明碑もあります。
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・大川から
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 ・徐福伝説 秦の始皇帝に願い出て、不老不死の薬草を求めて渡来した徐福が上陸した地、との伝説があります。国鉄佐賀線跡のサイクリングロードの名称の由来ですね。全国に徐福伝説はあり、佐賀県内にも他に伊万里上陸説があります。徐福が生きた始皇帝の治世は紀元前三世紀ですから、日本では弥生中期にあたり、吉野ケ里が環濠集落への発展途上と推定される時代です。佐賀・久留米間の西鉄バス江見線が走る国道264号が当時の海岸線(沿線に貝塚が多い)ですから、実際の上陸地は千代田あたりでかも知れません。海岸線の南下に伴い伝承も南下してきたとも思われます。但し、歴史ロマンとしては分かりやすい土地ですね。
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 ☆国鉄佐賀線、佐賀市内の駅:佐賀駅、東佐賀駅、南佐賀駅、光法(みつのり)駅、諸富(もろとみ)駅の5駅がありました。佐賀線ではディーゼル急行「ちくご」が熊本⇔長崎が運行されていました。
 ☆国鉄佐賀線橋梁のレールの意匠がある市道「新曙橋」平成25年3月竣工。(29)蓮池・橋津と(28)今宿・道崎のバス路線が渡ります。
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 ☆同じく八田江川には「佐賀線偲橋」平成5年3月竣工。親柱が「佐賀線を走るSL」の意匠に拍手!!
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 ・(21)諸富・橋津のバス路線となっています。
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 ☆国鉄佐賀線は昭和10年5月25日に開通しました。それまでは佐賀と諸富の間に馬鉄が通っていました。佐賀馬車鉄道(株)が明治37年(1904年)から、水ケ江の明治橋諸富まで運行を始め、翌年には旧市役所・御幸橋経由で旧佐賀駅まで延伸しています。大正元年(1912年)川上軌道と合併し佐賀軌道(株)になりましたが、昭和3年(1928年)6月、路線は馬から乗り合いバスにて代りました。横小路バス停前に病院長が個人で記念碑を立てています。病院の敷地には、当時の佐賀軌道(株)の本社がありました。
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 ・諸富鉄橋展望公園にも説明碑が有ります。「昭和2年、馬鉄に代わり6人乗りのバスが走るようになりました。」とありますが、佐賀市史では昭和3年6月26日馬鉄休止とあります。
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 ・ ☆現在市内を走るバス
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 ☆廃線つながりで話題をもう一つ!佐賀市役所の南東にある市役所前公園に「D51」が鎮座しています。説明版によりますとD51がのるレールは旧佐賀駅時の長崎本線のものとの事。市役所がここに新築移転したのが昭和50年(1975年)5月で、佐賀駅が高架で北に100㍍移動したのは昭和51年2月でした。
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 ☆おまけ!「徐福」つながりでご紹介。金立にある徐福館に至る高速道路の手前に金立コスモス園があります。春は菜の花と桜で、隠れた人気スポットです。
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 廃線跡などどちらかと言えば侘しく荒廃した風景を想像してしまいますが、実際の国鉄佐賀線跡は市道やサイクリングロードに転換活用されています。
タグ:徐福
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春!佐賀城内の桜が満開です。 [故郷(佐賀)を歩く]

 多布施川は護国神社より東に向かい県県本部より北濠を越えて城内に流れます。
■北濠の桜
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■母校旧正門周囲の桜
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■西御門橋より南、西濠の桜
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■南濠の桜
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 ☆南濠の周囲には、(古賀忠雄 彫刻の森:平成6年3月開園)古賀氏の代表的な作品の野外展示が26体あります。桜並木と共に数点ご紹介します。
・「頬杖をつく」昭和49年(1974年)
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・「沼の幻想」昭和43年(1968年)
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・「想い」昭和43年(1968年)
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・「語らい」昭和42年(1967年)
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 ・「青雲」昭和38年(1963年)
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 南濠 楠に桜に蓮
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 ■枝吉神陽・副島種臣、兄弟の生誕地 南濠の遊歩道に沿った堀端南通りに佐賀県社会福祉会館があります。ここは、文化年間・佐賀御城下絵図には「枝吉 栄」と記され偉人の誕生地です。
 枝吉神陽は弘道館教授・枝吉南濠種彰の長男にて身長は180㎝の大男、のちに弘道館教授。父の勤王思想を受け継ぎ「義祭同盟」を主宰、政治体制は律令制が理想しその知識を伝授、実弟の副島種臣、従弟の島義勇、大木喬任、大隈重信、江藤新平などに多大な影響を与えています。23歳の時昌平黌に学び、昌平黌の舎長になるほどで、この時「一君論」を展開しています。水戸学の大家で徳川斉昭の側用人でもあった藤田東湖とも交流しています。また吉田松陰は長崎・平戸遊学の途中に佐賀で八歳年上の神陽と面談し「奇男子」と評しています。コレラに罹った妻の看病及び葬儀を出して罹患し、神陽が悲願とした大政奉還の5年前の文久2年(1862年)9月に41歳で亡くなっています。
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  ☆枝吉神陽・副島種臣の墓所は「高伝院」にあり、神陽の功績を伝える顕彰石碑があり、説明版もあります。
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 ■南濠の遊歩道には南濠の石垣が移築再現されています。
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 ・南濠より本丸御殿を望む
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 ・亀甲石垣より南濠の桜並木
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 ・南濠桜並木より赤松小学校正門
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 南濠の東端側より望む
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 ☆龍造寺隆信!生誕地 南濠の南、赤松小学校の東側は戦国期、水ケ江城がありました。水ケ江竜造寺氏の居城です。龍造寺隆信は享禄2年(1529年)水ケ江城東館天神屋敷で生まれています。7歳の時に宝琳院で出家しますが、天文15年(1546年)還俗して水ケ江家を継ぎ、天文17年には本家の村中龍造寺家も継ぎ、龍造寺家の当主となり、山城守隆信と称しました。天正年間には五州二島(壱岐・対馬)の太守と言われ龍造寺全盛を築きましたが、天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで戦死を遂げています。
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 ・龍造寺隆信胞衣塚(えなづか):胎盤を納めた塚で、誕生碑の左後方にあります。
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 ☆島原市にある龍造寺隆信供養塔
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 ☆墓所は、藩祖鍋島直茂公が隆信の菩提寺として佐賀城の鬼門に建立した宗龍寺に有りましたが、明治以降高伝寺に移されています。
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 ■城内・本丸の桜
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 ・鯱の門、石垣に桜
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 ・天守台入口の桜
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 ・天守台より本丸を望む
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 ・本丸より天守台を仰ぐ
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 ・旧赤松小学校跡に復元された石垣土塁
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 ・本丸歴史館西門横にある赤松小学校跡記念碑
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赤松小学校跡記念碑1.jpg 赤松小学校は明治41年4月創立、平成5年に佐賀城本丸歴史館建設により、旧城南中学校跡に移転しています。移転後発掘調査を実施、本丸西側に石垣土塁の遺構が確認され、当時の絵図も参考にして「西側土塁石垣」「南西隅櫓台(亀甲乱積石垣)」が復元されています。


・南西隅櫓台より天守台を望む 左手の緑窪地は堀跡
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 ・南濠より南西隅櫓台と土塁 ここには旧赤松小学校の校舎が有りました。
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 ・整備された二の丸広場
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 ■成美女学校跡の桜
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 ■佐賀高等女学校跡の桜
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 ■万部島の桜 多布施川に石橋が掛かり、静かな花見スポットです。 
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 大濠公園・福岡城址・西公園のにぎやかなお花見とは違い、佐賀城城内は静かなお花見スポットでした。

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春!川上・嘉瀬・多布施川の桜が満開です。 [故郷(佐賀)を歩く]

 ・佐賀県庁 お堀に桜と大楠
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 今年(平成29年)、佐賀の桜は平年より6日遅く、昨年より7日遅い3月30日(木)に開花となりました。満開となりました今週末の8日・9日は市内のお花見スポットは老若男女で賑わっていました。今年、天候にはあまり恵まれず見栄えの良し写真は撮れませんでしたが、懐かしの佐賀の桜スポット!川上・嘉瀬・多布施川の水辺をご案内いたします。
 ■川上峡周辺の桜
  川上川 水上をおよぐ鯉に桜
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 朱色の官人橋 昭和28年(1953年)3月に完成した鉄製トラスト橋。成富兵庫茂安により江戸初期に板橋が架けられ、土橋・コンクリート橋となり大正前までは「勧進橋」と表記されていました。昭和24年の水害で流されたため現在の橋が架けられています。平成21年(2009年)10月から化粧直しの塗装工事を実施、與止日女神社への参道橋でもあり、朱色を3度塗り重ねて新年を迎えています。
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 国道263号、官人橋手前の昭和バス「ユースピア入口」バス停近くに「川上軌道跡碑」あり、大正時代の勧進(官人)橋のパネル写真も埋め込まれています。
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官人橋よりの風景 右手は肥前の国一宮、與止日女神社(よどひめじんじゃ)、左奥に川上頭首工が見えます。昭和35年8月完成、平成19年3月全面補修、機能拡大しています。多布施川の主な取水施設でもあります。
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 與止日女神社西門 県重要文化財 室町後期に創建され、今川の戦いで一部焼失し、元亀4年(1573年)に修復再建、昭和48年に大修理が行われています。柱は楠材で創建時のものと伝わります。
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 川上川の風景2点
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 ■石井樋の桜
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 石井樋は現存する日本最古の取水施設です。よく知られていますように成富兵庫茂安より江戸初期の元和年間(1615~1623年)に造られています。昭和35年(1960年)8月、上流に川上頭首工が完成するまで、多布施川の取水口であり、流域の水害防止の役目がありました。その後は水も流れなくなり埋没、昭和38年の大洪水で大井手堰も壊れてしまいましたが、平成17年に石井樋地区歴史的水辺整備事業により復元されています。
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石井樋 取水口.jpg
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 忠実に復元し更に保護の為、石を積み増した「象の鼻」、手前は「天狗の鼻」。奥の水流は、流れはこれより「川上川」から「嘉瀬川」となります。
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 成富兵庫茂安の功績を讃える「水功之碑」 明治24年建立。碑面の題字は副島種臣の書、碑文は久米邦武(弘道館記念碑の撰者)の撰、書は武富誠修。
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 ■多布施川河畔公園 昭和49年に都市計画公園として決定され整備・維持が図られています。
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 桜に菜の花、レンゲ畑。 画面右奥に医学部
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 長瀬天満宮の桜 天満宮の四脚門は宝永2年1705年造立。社殿造営は永正10年(1513年)、のち鍋島勝茂公により補修との記録が残っています。社殿前の狛犬の形が面白いですよ。
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 ■神野公園 佐賀藩十代藩主鍋島直正公の別邸として弘化3年(1846年)に造られ、別名「神野のお茶屋」。大正12年(1923年)に鍋島家より佐賀市に寄贈され公園となりました。
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 隔林亭(かくりんてい) 別邸の茶室と建てられたましたが昭和35年(1960年)老朽化により解体、20数年後「隔林亭文書」の発見により、一枚の写真と古図を基に平成5年(1993年)に復元されました。見学無料
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隔林亭 桜.jpg
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 神野公園前の多布施川の桜並木 昭和30年代まで、ここは水泳場でした。神野公園より川向、東北側(西神野)には佐賀競馬場があり、多布施川通りなどの道端には、日常的に馬糞が落ちていました。昭和47年(1972年)鳥栖に移転。
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 ■多布施川の桜並木 佐賀工業高校の先まで並木は続きます。
 昭和橋(大正14年架橋)から多布施川橋梁まで
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 多布施川橋梁と多布施踏切
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 佐賀県立佐賀農業高等学校発祥の地・碑  大井手分水工近くにあります。多布施川と天祐川に分かれる「緑小路」に明治28年佐賀県簡易農学校として開校、県立佐賀農学校となり、大正10年白石に移転しています。創立百周年を記念して平成6年10月建立。
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多布施橋の桜
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 佐賀県立佐賀工業高等学校の東側を流れる多布施川及び多布施川通り
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佐賀工業高校の東を流れる多布施川 多布施川通り.jpg
 多布施川新橋と佐賀藩科学技術研究所(製煉方)跡碑 佐賀藩が嘉永5年(1852年)11月設けた理化学研究所。蒸気機関や電信機の研究にまで多岐にわたりました。記念碑は昭和60年建立
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 「さかえばし」と佐賀藩多布施公儀反射炉跡碑(昭和60年建立)
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佐賀藩多布施公儀反射炉跡碑 説明碑.jpg
佐賀藩多布施公儀反射炉跡碑 説明碑 と桜.jpg

 ☆多布施公儀石火矢鋳立所とも言います。石火矢は大砲の事です。嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀来航に危機感を持った江戸幕府が佐賀藩に鉄製大砲鋳造を依頼し、ここ多布施に反射炉が築かれました。大砲は江戸・品川に築かれた砲台に備えられました。レインボーブリッジ脚下にある「台場公園」などに遺構があります。
 ■護国神社前の多布施川 昭和57年から毎年7月中旬から8月中旬まで、この辺は遊水場となり子供たちの歓声で賑わいます。
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 神野公園や多布施川の土手を北上し川上まで遠足を経験された同窓も多いと思います。多布施川の川幅は改めてみますと、心なしか小さくなったように感じてしまいます。
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佐賀城内散策!堀端 編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 母校がある城内の周囲、県庁の展望ホールから見える佐賀城の堀端を中心に城内を巡ります。
 平成3年度に「佐賀城公園まち構想」が策定されました。①鯱の門周辺の整備(佐賀城本丸歴史館オープン・東濠の復元整備・NHK佐賀放送局等の移転)、②多布施川の整備、③北濠の堀越道路(平成9年)④西の御門橋の整備(平成21年)、⑤西城内マンション問題(平成13年)により景観ガイドラインを作成です。今日まで、歴史及び文化・水と緑・生活・文教・にぎわいのある街の創生に向けて城内の整備が図られています。
 ・佐賀県庁・・県庁舎は昭和24年2月(1949年)明治以来の庁舎が火災で焼失、昭和25年12月に(1950年)本館が落成。隣接する県警本部移転跡に新行政棟が1期・平成3年(1991年)、2期平成6年(1994年)に竣工しています。行政棟の最上階には展望ホールがあり、市内全域の景色が楽しめます。
(展望レストラン有)https://tabelog.com/saga/A4101/A410101/41000396/
 ■開館時間■ *西高ファイヤーストームが見下ろせます!!
 平日(開庁日)8:30~22:00 土曜(閉庁日)10:00~22:00
          日曜・祝日(閉庁日)10:00~21:00
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 ・県庁展望ホールより・・母校の後方には「雲仙普賢岳」が遠望できます。佐賀城内から有明海を挟んだ真南の位置、雲仙山麓に長崎県雲仙市国見町神代(こうじろ)があります。ここは佐賀藩の飛び地にて、藩祖鍋島直茂の諸兄・鍋島信房を初代とする神代鍋島家が6,263石で統治し、本藩大組頭「家老」の家格でした。
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 ☆・有明の海を飛んで、神代小路(こうじろこうじ)のご紹介
 寛文3年(1663年)神代・第4代鍋島嵩就(たかなり)が佐賀から居を移して、武家屋敷などを整備し、今日まで江戸期の街並みが保たれています。平成17年(2005年)7月、「国の重要伝統的建造物群保存地区」となっています。
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 ・・国見神代小路歴史文化公園鍋島邸 佐賀藩神代領の領主陣屋後に建てられた邸宅で、江戸中期(隠居棟)江戸末期(長屋門)・明治中期・大正期(御座所、書院)・昭和初期(玄関・主屋)の建物5棟は国指定重要文化財。平成の代まで子孫が生活されていましたが、東京在住の当主より平成16年(2004年)敷地は地元自治体に売却、建物を無償譲渡され、平成26年2月より邸内の有料見学(大人300円)ができるようになっています。長屋門は江戸末期の慶応元年(1865年)建築です。
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 正面玄関及び主屋 昭和5年(1930年)第16代当主鍋島佳次郎(外交官・駐ベルギー公使・貴族院議員)の晩年に建築。近代和風建築において九州を代表する秀作。
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 邸内にある境界石柱
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  神代の街並み
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 神代鍋島第4代嵩就の寛文10年(1670年)から造林を始めたと伝わります。嵩就は善政を敷いたことから領民にも慕われ、地元の新村神社に祀られています。
 明治となり版籍奉還で知行地はなくなりましたが、副島種臣などの尽力もあり、一部が旧領主と村に折半で返還されています。その後は江戸期から続く林業で潤っていたことから、旧佐賀藩上級家臣団で唯一今日まで、屋敷を拡大・維持できたようです。地域も豊かであったことから、陣屋周囲の景観が江戸期のまま残されたとも考えられます。
  尚、林業は鍋島林業(株)に継承され、「奥山水源の森」などを所有しています。水源の保全や持続可能な林業経営と「保残木施業」を考案し計画的に間伐していることから、県の展示林に指定されています。
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 佐賀城内に戻ります・・・母校の東側を通る多布施川水辺が整備されています。藩政時代、多布施川は城内へのライフラインであり、清流保全もあり、護岸は「みだれ積み」や「布積みの」技法の石垣で築かれています。また、母校西側の一角(休館した若楠会館の南側)でマンション建設計画が提示されましたが、市(佐賀市土地開発公社)が土地を買い取る(現在は空き地)事で景観保全が維持されています。現在城下の指定地域では建物の高さは基本10m、屋外広告の設置は禁止となるようです。
 母校の敷地は藩政時代、龍造寺四家の武雄及び諫早屋敷でした。また若楠会館から母校敷地周辺は、龍造寺隆信の居城であった村中城址と推定されています。
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母校 校庭東 整備された多布施川より県庁.jpg
  ・・・佐賀駅から中央通りを経て、平成9年(1997年)に北濠に架橋(くすの栄橋)され、佐賀駅末次線が完成しました。この先は県道49号になり佐賀空港に至り、今では市営バスの空港線が運行しています。
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「中央大通り」は昭和39年(1964年)に開通しましたので、「くすの栄橋」の完成までは、通算33年の年月を要しました。元々の計画は昭和6年(1931年)に都市計画街路「佐賀駅中ノ館線」として策定されていますので、それからすると、実に66年もかかっています。
 
☆中央大通りは、戦後の昭和28年に駅前通りの佐銀本店前から貫通道路・郵便局前交差点までの1キロ強で街路新設及び改修工事が始まりましたが、旧城下町の中心部に幹線道路を通す事は、住民や商店街の利害が絡み合い大変時間がかかる事業となり、東京オリンピック直前の昭和39年8月に開通しました。開通式に参加もしくは沿道でパレードを見た同窓の方も多いのではないでしょうか。

 ・更地は商工会館跡地にて、NHK佐賀放送局が平成31年度に新築移転します。中央の緑地帯は旧市庁舎跡。左のビルは佐賀県警本部。
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 ☆佐賀市庁舎は、昭和50年5月(1975年)に現在の栄町1丁目に移転しています。移転先近くにJR佐賀駅が高架となり北100m程移動したのが、昭和51年2月でした。
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佐賀駅 ホームより 市庁舎.jpg

 ・北堀端、県警察本部から県会議事堂・母校への道・・現在県警本部建物のある場所は昭和初期「佐賀高等小学校」であり、現在の成章中学校敷地に新築移転した後は、佐賀警察署でした。昭和53年3月高木瀬の国道34号(北部バイパス)に移転新築の後、堀向いより県警本部が移転してきています。県警本部庁舎の左後方に「天山」が望めます。
 ☆県警本部より多布施川の西側は、文化年間の御城下絵図に依りますと「鍋島弥平左衛門」とあります。この時代、先述の神代鍋島家の当主は「弥平左衛門茂體(体)」ですので、ここは神代鍋島家の佐賀屋敷でした。
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  ・・母校の旧正門手前には「佐賀城北の門」があり、現在県議会棟西側歩道に紹介する柱が立っています。
 城内への生活用水を担った多布施川は、北堀と西堀の間の北の御門から城内に引き込まれていました。
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 ・西堀端・・県議会棟前から西御門橋まで、回遊散策路が整備され、見ごたえのある大楠や城濠が楽しめます。
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 ・ホテルニューオータニ佐賀から、西濠と西の御門橋
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 ・堀端西通りから
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 ・堀西通りの護岸工事(佐賀城西堀整備事業)が平成27年度から実施されています。崩落寸前の石積みを解体・修理し、石積み復元が進められています。佐賀城の堀は「四十間堀(約73m)」が基本のようですが、現在この幅は西堀だけのようです。全国の城郭・城址において、佐賀城の堀幅はトップクラスであり、平城防御の要でした。全国各地に城はありますが、佐賀城の魅力は、この保全された「濠」の風情にあります。
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 ・西御門橋より佐大前交差点までの「城内線」が平成21年度(2009年)に開通しています。城内線は水ケ江3丁目から佐大前までの市道改良工事として、昭和37年(1962年)に着工したと聞いていますので、ここも月日を要しています。
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 ・平成24年に1月に「佐賀城西御門と赤石護岸」の説明碑が設置されています。江戸期にあった橋と同じ構造で造られています。
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 ・南濠より西御門橋
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 ・「楠の木おばさん」顕彰碑 昭和25年(1950年)旧佐賀城内の楠20数本が伐採されようとした時、身を挺して伐採阻止行動を起こした「福田よし」は、当時の鍋島直紹知事に楠の保存を訴え、県知事も後援したことから、昭和28年(1953年)県天然記念物に指定され永久保存となりました。
 昭和29年には「県花」昭和41年「県木」に指定されています。昭和55年(1980年)地元自治会が「福田よし」を顕彰して建立しています。
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 ・佐賀城址  佐賀城下再生百年構想のもと、整備が進められています。赤松小学校が旧城南中学校跡に移転し、本丸御殿が平成16年(2004年)に県立佐賀城本丸歴史館として、開館しています。入場無料(寄付歓迎)
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 ・鯱の門前は現在整地され、公園化が進められています。
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 ・鯱の門及び続櫓一棟は昭和32年(1957年)6月に国の重要文化財に指定され、当時は県立佐賀商業高等学校の正門でもありました。
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門の前には、佐賀商業の記念碑があります。佐賀商業 跡碑.jpg 佐賀商業は、明治40年(1907年)に佐賀市立として創立、以前佐賀中学校があった赤松一番地で開校、大正11年(1922年)4月に県立となり、昭和35年(1960年)11月に高木瀬に移転している。昭和52年(1977年)10月、創立70周年を記念し同窓会が建立。平成6(1994年)年8月、第76回全国高校野球選手権大会全国制覇。同校野球部は県下最多の春夏21回甲子園出場!羨ましい限りです。昭和57年(1982年)夏の甲子園初戦で、新谷博投手は9回二死まで完全試合でしたが、27人目の代打に死球を与え、惜しくも夏の完全試合達成はならず、ノーヒットノーランは達成しています。
 


 ・鯱の門に残る、明治7年(1874年)佐賀の役弾痕跡。江戸末期の天保9年(1874年)に本丸再建時に正門として造られています。明治に入り、本丸御殿は藩庁(のち県庁)となり、2月16日明治政府に不満を募らせた士族が県庁を襲撃して、佐賀の役が始まりました。2月23日には江藤新平が西郷隆盛に、28日島義勇が島津久光に助力を得ようとそれぞれ鹿児島に脱出しましたが不首尾となり、短期間で政府軍に鎮圧されています。
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 ・城内からの鯱の門 屋根に鎮座する鯱の製作者は藩御用鋳物師で、幕末反射炉建設運営で活躍した谷口家であり、「治工谷口清左衛門」の刻銘が残っています。
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鯱の門 鯱.jpg
 ・天守台 享保11年(1726年)の大火までは五層の天守閣がありました。(当時の城下絵図に明記されています。)この点、福岡城の天守閣は天守台は現存していますが、天守閣の全貌はよく判っていませんね。
 全国各地の城郭において天守台は造ったとしても、実際に天守閣は造られなかった例が多いと聞きます。唐津城も実際には天守がなく、観光目的の模擬天守閣が建っています。
 佐賀城は熊本城や福岡城とは違い、沖積平野の軟弱な地盤の上に縄張りがされています。城内は濠を掘った土の土塁で囲われましたが、本丸の天守台などは石垣で築かれました。築城後400数余年が経過していますが、当時の姿を留めています。
 周囲の発掘調査から、地番沈下を防ぐために、石垣の下にはぎっしり松材が敷かれているとみられています。
 戦後の学校などの新築工事で、未熟なくい打ちをして建物が傾いたり、使用不能になった例があったことからも、当時の石積みは佐賀の風土に適合した知恵が生かされたいます。
佐賀城 天守台.jpg
五層の天守閣 説明版.jpg
 ・天守台へ 天守台の入り口は本丸から直接は登れず、一旦本丸を出て二の丸に向けてあります。城郭マニアが訪れては不思議がっていますね。
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佐賀城 天守台石垣.jpg
 ・天守台からの眺め
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天守台からの眺め 鯱の門.jpg
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 *協和館 今、天守台は更地になっていますが、平成16年(2004年)佐賀城本丸歴史館開館まで、「協和館」という集会施設がありました(解体・撤去)。元々は、明治19年(1886年)、現在の佐賀郵便局当たりに建てられた県の社交場で、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていました。明治27年(1894年)市が買い取り市役所庁舎となり戦後の昭和32年に、郵便局建設に伴い、天守台に移築されました。尚、遡ること明治20年には佐賀県立測候所が天守台に開設されていました。

☆佐賀城天守台発掘調査が平成平成23年から3ヶ年をかけて築城400記念事業として進められました。その結果、創建時の天守閣の概要が判明しています。
①礎石の配列規模から、天守1階は天守台一杯に建てられ(15×13.5間)である。
 天守1階の広さで比較しますと、熊本城(13×11間)、姫路城(13×10間)、小倉城(13×13間)、名古屋城(17×15間)ですので、江戸・大阪・名古屋城に次ぐ全国最大級の天守閣であったようです。あの姫路城大天守より大きかったとは!
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②天守の内部構造は礎石の配列から「書院造」、多数の蝶番が出土したことで窓は「突上げ戸」でした。
③天守外観は、「寛永御城并小路町図」 では屋根に破風がない四重の層塔式天守、その少し前の慶長年間に書かれた「佐嘉小城内絵図」では五層となっています。支藩の小城初代藩主元茂の「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水より小倉城天守の図面提供より慶長14年(1609年)完成とあります。しかし、如水(官兵衛 孝高)は慶長9年3月(1604年4月)には亡くなっていますし、関ケ原後、筑前52万石に移封し、江戸期の小倉城は細川忠興により慶長7年(1602年)から7年間の歳月で築城したようですので、これが真実かどうかは不明とも言えます。只、小倉城同じ「唐造り」の天守であったと推測されていますので、小倉城天守に類似した天守閣だったようです。 ☆小倉城、昭和34年に鉄筋コンクリート構造で天守再建、観光面から史実にはない各種の破風が付加されています。細川忠興築城の天守は、最上階の入母屋破風以外に破風は一切ない造りでした
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 ☆小倉城庭園書院より天守を望む
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 佐賀城天守台発掘調査説明資料https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s36339_20131211105409.pdf 
 ・今は埋められていますが、本丸と三の丸(県立博物館&美術館がある)間にも内濠があり、痕跡が確認できます。
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 ・鍋島直正公銅像 再建! 平成29年(2017年)3月4日、生誕200年記念事業にて銅像再建除幕式がありました。 生誕100周年を記念して、大正2年(1913年)大隈重信候を委員長に、松原神社西側に建立されていましたが、残念なことに戦中時の金属回収令により供出となっています。
 目標の1億円を上回る1億4000万円の募金が集まり、鯱の門北側広場に再建されました。
 銅像は先代と同じ高さの4メートルで、直正公が建設を命じた「反射炉」をイメージした台座に立ち、西を向いています。
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・南濠 南濠の西側にはハスの群生が見られます。ハスの群生が平成になって一時消滅の危機があったと聞きました。佐賀大学などの調査の結果、最大の原因は外来種の「ミシシッピアカミミガメ」による食害と分かり、地元赤松小校区の住民協力もあり平成22年(2010年)5月から10月までカメの捕獲を展開した結果、今では昔の風景に戻っています。
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 ・8月にはハスの花が咲きます。
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 ・南濠 復元された「亀甲乱積石垣」と土塁。景観を損ねているNHKのテレビ塔も移転で無くなりますから、南堀端から眺める本丸の風景は数年で格段に良くなると思われます。
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 ・佐賀レトロ館 NHK佐賀放送局の前にあるレストラン。明治20年(1887年)警察部庁舎として現在の県庁本館付近に建築され、昭和11年警察本部建替えに伴い、現在地に移設、様々な施設として活用されていましたが、平成21年(2009年)レストランになっています。佐賀城下再生百年構想「二の丸プロジェクト、にぎわい・もてなし」拠点です。
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 ・佐賀城下再生百年構想イメージ図 
   http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00313187/3_13187_5_sagazyou.pdf
 ・東濠、一部を復元! 東堀は昭和初期に埋められています。これを平成22年(2010年)から復元工事が始まっています。NHK佐賀放送局と龍谷高校と間です。
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 ・好生館 跡 平成25年(2013年)嘉瀬町に移転した病院敷地は更地になっていましたが、平成28年9月(2016年)に4団体複合施設(健診センターなど)の起工式があり、建設が始まっています。敷地は県から佐賀市に約2万3000平方㍍が返還され、跡地北側に健診センター等の複合施設が平成30年1月、中央に市医師会の看護専門学校および南側に「市立休日夜間こども診療所」が平成30年4月に運営開始の予定です。
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 ・佐賀県立佐賀工業学校跡碑 復元され東堀の南端に佐賀城内・裏御門がありました。この裏御門の濠を渡った場所に明治32年(1899年)3月、佐賀県工業学校(佐賀工業高校の前身)が新築移転して、昭和11年(1936年)12月に現在の田布施(現、緑小路1番1号)に移転するまでありました。
 現在、龍谷こども園入り口に、記念碑が昭和52年4月に建立されています。
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 ・万部島 NHK佐賀放送局より北に住宅地の路地を進むと「万部島」に出ます。江戸期ここは川に囲まれた島でした。佐賀藩歴代の藩主が建立した。法華経一万部読誦記念石塔群があります。初代・勝茂から11代直大までの11基で、国家安泰・万民安楽を祈願しています。
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 ・二基の六地蔵 この地の六地蔵は造立名から室町時代の代表的な石仏です。
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 ・佐賀の役招魂碑 明治7年佐賀戦争での戦没者を弔う碑で、明治18年に西の御門付近に建立、大正9年にこの地に移設されています。毎年4月13日(江藤新平・島義勇以下13名に死刑判決が下り、即日処刑された日)に慰霊祭が行われています。
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 ・「亀趺(きふ)」の贔屓(ひいき)は北を向いています。大正8年に特赦令により、江藤・島ら首謀者が赦免され、格式高い招魂碑となっています。
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 ・北濠 北堀端に貫通道路が通され、濠幅は小さくなっています。この濠は別名「筑前堀」と言われています。佐賀城普請時、黒田長政が支援してできた濠でした。返礼として鍋島直茂は福岡城普請時に「肥前堀」を支援しました。明治時代の福岡市内地図では「佐賀堀」となっています。
 福岡城三の丸(裁判所)の東堀から更に東に延び那珂川に通じる堀を作る際、西から「赤坂門」、「薬院門」、「数馬門」を設置し、薬院門(現在の旧大名小学校)までは「中堀」、薬院門から那珂川間を肥前堀(佐賀堀)と呼んでいました。この濠は幅30~35間(60㍍内外)の水堀で、明治43年に産業博覧会開催為に埋められています。
 埋め立てられた堀跡には、大名の飲食街、岩田屋本店・ソラリアプラザ・天神地下街、福岡市役所などがあり、九州を代表する繁華街となっています。
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 ・天神地下街には、「肥前堀」を意図した壁面があります。ご存じでいたか? 天神地下街の7番から8番街の壁面は石垣をイメージした作りになっています。またここの広場は「石積みの広場」と呼ばれています。
 ☆関ケ原後、西軍であった佐賀藩は苦しい立場となっていましたが、東軍の黒田如水の誘いを受け、如水の説得を拒否した柳川城攻めに参戦しています。北進してきた加藤清正も加わったことから立花宗茂は降伏・開城しています(所説あり)。この時、明け渡された城は、成富兵庫茂安が受け取っています。
 「肥前堀」を紹介するブログなどの一部に、「黒田如水(もしくは長政)の口添えで、佐賀藩は関ケ原後の改易を免れた」との記述のみで、「筑前濠」に言及していないのは残念ですね。
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 ・佐嘉神社角交差点と天神西交差点 それぞれ城下の東北角に位置し、藩士の屋敷小路(桝形・クランク)の面影が残った交差点です。佐嘉神社角交差点は貫通道路ができる以前、天神西交差点と同じS字カーブでした。天神西交差点は今でもS字です。路面電車がここを通過するとき、つり革がぐるぐると回り、輪っかがガチャガチャと鳴く情景が思い出されます。今でも地下鉄で、このS字は体験できますね。
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 ・東濠跡 北堀(筑前濠)の東角から南濠へ東堀が有りましたが、昭和初期に鍋島家から払い下げを受け、埋め立てられ、現在では駐車場になっています。駐車場出入り口西側の北堀端には、貸しボートの発着場がありました。先に紹介しました通り、東濠の南側は復元工事が進んでいます。
 現在の市村記念体育館の東側に残る土塁が分断されているところ、城内東の出入口である「東御門」がありました。
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 ・宗龍寺 江戸期、東御門から土橋で東濠を渡った先には、鍋島山城(御親類筆頭、白石2万余石)の佐賀屋敷がありました。初代直弘は、初代藩主勝茂の四男にて、まず佐賀城下の治水・城下整備に貢献した成富兵庫茂安の養子となり、成富山城守と名乗っていました。茂安死去後、勝茂から改めて鍋島姓と白石に領地を与えられ、白石に館を構えました。
 隣接して、藩祖・鍋島直茂が龍造寺山城守隆信の冥福を祈る菩提寺の「宗龍寺(宗龍禅寺)」があり、宗龍寺の東向かいは鍋島山城抱地でした。
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宗龍寺本堂入り口では、龍造寺の家紋「十二日足紋」と「杏葉(ぎょうよう)紋」が目に留まります。大友氏の象徴であった杏葉紋は、大友軍を夜襲で撃破した今山の戦勝記念として用いるようになりました。この戦いで最大の功績を上げ、のちに龍造寺氏を継承した、鍋島氏の定紋ともなり、江戸後期には「鍋島杏葉」として変化し本家は「筋杏葉紋」、本家の女性や子供及び分家は「花杏葉紋」となっています。杏葉紋は馬具の装飾品から文様に転じた意匠でとのことです。
 
 ・佐賀市民会館 明治となり、佐賀の役で焼失した三の丸御館が山城守抱え地に移転しました。のちの鍋島11代直大の佐賀別邸「侯爵鍋島家内庫所」です。時代は下り、昭和40年ごろに建物は、武雄の御船山観光ホテル(鍋島越後・武雄領主鍋島茂義の別邸地、御船山楽園)に移築され、現在では「萩野尾園 別邸 内庫所」として宿泊出来ます。移築後、跡地に昭和41年(1966年)4月開館したので、佐賀市民会館でした。
 市民会館は、1031席の本格的な音響・舞台装置を備えた多目的ホールでしたので、母校をはじめ数多くの学校が定演や発表会を開催していました。残念ではありますが、老朽化による耐震強度不足及び改修が現実的ではないとの判断から、平成28年4月より休館となっています。平成元年(1989年)10月、高木瀬(日の出町)に開館の佐賀市文化会館がありますので、閉館も仕方のないことかもしれません。昭和38年(1963年)10月開館で、優良ホール100選の福岡市民会館は現役バリバリです。余談ですが、優良ホール100選には、佐賀県で「武雄市文化会館」が選定されています。
 市民会館は平成29年(2017年)7月から解体工事に着手の予定で、当面は駐車場にして跡地利用を、検討するとしています。
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 ☆市民会館跡地は城内→万部島→佐嘉神社→柳町への観光動線上に位置しますので、明治期・大正期の鍋島家関連で、侯爵鍋島家佐賀内庫所の復元とか、関東大震災で倒壊した永田町西洋館の再現なども、面白いと思うのですが!

 平成18年(2006年)制定の「日本100名城」に佐賀城があります。佐賀県では、名護屋城と吉野ケ里遺跡の三か所で、福岡県は福岡城と大野城の二か所です。これまでの佐賀城は地味な存在と思っていましたが、城内を巡ってみて歴史公園として整備・保存が推進され、新しい発見も多くありました。
 県庁展望ホールから雲仙岳が望めたことから神代鍋島の事を知り、北濠周辺では福岡との意外な縁を知りました。
 これからも、「歴史公園100選」及び「日本の都市公園100選」である城内の整備・充実が進められる事でしょうから、故郷での散策などの楽しみが増えますね。

 ☆「さが維新博」が平成29年(2018年)3月から翌30年1月の10ヶ月間開催されます。
 ホームページがアップされています。https://www.saga-hizen150.com/

☆佐賀城内散策!堀端 編 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 雲仙市国見神代小路歴史文化公園鍋島邸
 ⑦ 角川日本地名大辞典
 ⑧ 福岡市HP、佐賀県HP、佐賀市HP、長崎県HP、雲仙市HP 
 ⑨ 福岡県立図書館 郷土資料室 デジタルライブラリー
 ⑩ 鍋島直正公銅像再建委員会HP
 

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佐賀の与賀神社参道を歩く [故郷(佐賀)を歩く]

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 与賀神社から西に延びる参道は、直線で約1200mほどにて、与賀神社下宮に至り右に曲がるとすぐに昭栄中学校前交差点となり、貫通道路に出ます。参道は江戸期には与賀八丁馬場小路と呼ばれた武家地や、八丁馬場、道祖元町の町人町がありました。また参道筋は天祐寺川沿いに本庄町へと進んでいき,西与賀町の厘外津(りんげつ)に至り、ここから船で諫早に向かえたのですから、佐賀藩専用の「海の長崎街道」でもありました。
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 *与賀(與賀)神社・・神社の境内には樹齢千年以上の楠木があり、有明海に向けて拡大してきた土地開拓の守護神として鎮座しています。三の鳥居は慶長8年(1603年)建立、石橋は慶長11年(1606年)建立、楼門は室町後期の造立と伝わり、どれも国重要文化財となっています。
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 ☆本殿・幣殿・拝殿は(1758年)造立にて、平成25年6月国登録重要文化財に認定されています。
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 ☆樹齢1400年超と伝わる大楠(ご神木)と宝壽森稲荷神社。稲荷神社の石祠に「安永き庚子六月二六日」(1780年)の刻印がある。
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 ☆少弐神社・・與賀神社境内東側に鎮座しています。祭神は少弐政資公(しょうにまさすけ)で、太宰府長官であったが山口の大内氏との抗争に敗れ、佐賀に落ち伸び、先考(亡父)少弐教頼が築いた與賀城(現在の龍泰寺周辺)を文明14年(1482年)修復し居城とした。その時、城の鬼門に当たる当神社を鎮守社としたと伝わる。室町時代の肥前守護職で、竜造寺・鍋島氏は当時その被官でありました。昭和27年、楼門解体修理を記念して当神社の再興と郷土開発の守護神として祀られて現在に至っています。
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 *龍泰寺・・與賀神社の南南西、徒歩で500m程にあります。龍造寺隆信が少弐氏の館跡(與賀城址)に永禄6年(1563年)に菩提寺として建立。本堂は佐賀の乱で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」を大正初期に移築したものです。
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 *大隈重信墓所・・龍泰寺山門手前に東手にあります。東京都文京区の護国寺にもあります。大正11年(1922年)1月10日死去し1月17日に日比谷公園での国民葬には、30万人の会葬者が集まったようです。
 ☆大正10年東京都人口:383万人であったことから、大隈候の人気が分かります。また自宅から日比谷公園まの霊柩自動車で行進し、多くの市民が沿道で別れを惜しんだと言われています。
 その半月後、陸軍元帥・首相など明治政府の要職を歴任し、長州最後の巨頭と言われた山縣有朋公が2月1日死去、2月9日に同じ日比谷公園にて国葬が行われたが、民抜きの国葬と言われ、大隈候の葬儀との違いが新聞記事になったほどでした。同じ護国寺にお墓があります。
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 ☆大隈候の県民葬は、遺髪が届いた2月26日に県庁を中心に葬列が巡り市民1万人が別れを惜しんだようです。大正10年佐賀市人口34,744人。
 
 *江頭幾三郎先生之碑・・境内墓地の一角、江頭家墓の隣にあります。碑は昭和6年4月に佐賀成美高等女学校卒業生有志により建立されています。碑文によりますと、江頭幾三郎氏は昭和6年1月3日に病没、75歳。小城中学校・佐賀中学校を経て成美高等女学校校長を歴任、温厚な方で卒業生からの尊敬の表れとして、没後直ぐに顕彰碑が建てられています。
 ☆小城高校の同窓会誌「黄城」では、明治18年3月、小城郡立小城中学校が廃校になった時に江頭幾三郎氏が当時の在学生の為に「黄城義塾」を開設、のちには県立小城中学校設立に尽力されたと、紹介されています。
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 *辻の堂・・與賀神社から北に150m程で辻の堂交差点に出ます。交差点の角には、昭和12年(1937年)に建てられ、今では閉店していますが、木造入母屋造りの角に円筒を配置した個性的な二階家は交差点のシンボルとも言えます。
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 *与賀神社に戻り、参道を進みます。
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  *清和高校東交差点(現:与賀神社西入口)・・この地にあった女子高2校は、与賀町交差点よりの県道54号拡幅工事に伴い、それぞれ移転しました。佐賀女子高等学校は、平成25年4月に旧佐賀市営球場跡地に新築移転。清和高等学校も平成26年4月に兵庫北に新築移転しています。
 跡地には、郊外型スーパーと「TSUTAYA積文館書店佐大通り店」が平成27年11月にオープンしています。これに伴い「積文館書店佐賀南バイパス店」は閉店。積文館といえば、多くの同窓は今は無くなった松原の積文館が思い出されるかもしれませんね。
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 ☆県道54号・与賀町交差点から佐賀大学前交差点までの風景は、この数年で一変しています。
 ☆与賀町交差点
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 ☆貫通道路・与賀西バス停より。佐賀女子高等学校(旧:佐賀旭高等女学校)の校舎が見えてたのですが。
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 ☆県道は広い歩道を併設した2車線に拡幅されました。この先は、佐大前交差点で、佐大学舎が見えています。
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 ☆佐大前交差点も大きく変わっています。旧制佐高時代からの正門風景として、梅雨時期の道路冠水が思い出されますが、この点も改善されたのでしょう?
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 ☆佐賀大学美術館:旧佐賀大学と佐賀医科大学の統合10周年記念事業として、平成25年10月に開館。入館無料、月曜日休館。
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 *参道に戻り西に進むと直ぐに二の鳥居があります。慶長9年(1604年)建立。江戸期には鳥居右手に与嘉神社の下宮がありました。
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 ☆二の鳥居手前、左手の小路(泰長院門前南北小路)を南に一寸寄り道。
 *山口亮一 旧宅・・東京美術学校を卒業後帰郷し、久米佳一郎や岡田三郎助らと佐賀美術協会を創設、同協会会長及び佐賀師範学校教諭を務め、昭和42年(1967年)没。旧宅を平成5年(1993年)佐賀市に寄贈されたが老朽化し解体の危機がありました。その後有志による保存運動や寄付が集まり、修復の上平成18年(2006年)開館しています。佐賀平野でよく見られる伝統的な家屋構造「くど造り」、築250年の武家屋敷です。
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 *泰長院・・山口旧宅から右に進むとあります。天文5年(1536年)龍造寺胤久によって建立。第3代住職が鍋島直茂に従って朝鮮の役に従軍の上、通訳事務を担当したことなどから、当時の書状など県重要文化財12巻105通が伝えられています。
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 *古賀精理・屋敷跡・・屋敷跡の説明版が、山口旧宅の先、清町小路にあります。古賀精理は藩校・弘道館創設時の教授であり、学規と学則を定め、藩校の基礎確立に貢献しています。寛政8年(1796年)47歳の時に昌平黌の儒官となり、寛政の三博士の一人と讃えられています。
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 *水月寺・・慶長年間、鍋島直茂が坐禅堂として建立したお寺で、「葉隠」口述者・山本常朝の師である儒学者・石田一鼎の墓があります。
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 *島 義勇 屋敷跡・・水月寺先角を西方向に150m弱進んだところに、清和高校体育館前に屋敷跡碑があります。
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 ☆島義勇は佐賀の七賢人の一人。この人は北海道開拓史初期のキーマンです。明治2年(1869年)11月、開拓主席判官として開拓本府建設の為、石狩の地(札幌)へ。まずは北海道神宮(当時は神社)の御霊代(開拓の三神)を祭る社地を選定し、真冬に雄大な構想力(京都を模した碁盤目区画や道幅100mの大通りなど)をもって都市開発を始めました。しかし、開拓史物資補給船「昇平丸」の難破沈没もあり、食料・建設資材の不足を補うべく当初の資金6万両を使い果たし、更に初代長官・鍋島直正(実務前に体調不良で辞任)の後任・東久世 通禧と開拓予算等で衝突、わずか三か月で罷免されています。
 当時の事を「北海道紀行草稿」に記しています。主に36点の漢詩からなり、現在では貴重な開拓史資料となっています。
 とても短い日々(100日)でしたが、今では「開拓の父」と崇拝され、札幌市役所1階ロビーに侍姿の銅像、北海道神宮境内手水舎の奥にも銅像があり、境内の開拓神社には、鍋島直正公とともに祀られています。また円山公園には、大正期に「佐賀の役」後の名誉が完全回復したことから、高さ8m程の石碑「島判官紀功碑」が昭和4年11月に建立されています。篆額は鍋島直映(12代)によるものです。建立に当たり、3500名程が寄付に名を連ねています。
 円山公園は古くから桜の名所ですが、佐賀の役で斬罪梟首された島を悼んだ開拓判官時代の道案内人・福玉仙吉により、明治8年神社の参道に150本の桜の苗木を植えたのが始まりです。
 北海道神宮の茶屋「六花亭」には、ここでしか食べられない銘菓「判官さま」という「そば入り餅」が売られています。
 ☆島義勇は弘道館に学び、3年間の遊学後、弘道館に勤務、その後に鍋島直正の側近となり、安政3年(1856年)9月、直正の命にて佐賀を出発、萩・津和野などの城下を見聞し(安政三年日記・記述)、安政4年4月から9月にかけて、箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行し北海道・樺太を探検、「入北記(4冊(雲・行・雨・施)の内、雲以外は現存」を残しています。開拓使主席判官就任はこの時の経験を買われたとみられます。
 ☆七賢人での島の肖像は、不評で新たに北海道大学所蔵の衣冠束帯写真に変わりましたが、明治5年(1872年)3月秋田県の初代権令(知事)就任時、この衣冠束帯で出仕したと伝わります。同年7月には退官してしまいます。八郎潟開発(港及び干拓事業)の為16万両の借入を即政府に申し出、また医学教育の充実のため人材の派遣を当時の文部省に要請しています。しかし、恐らく要請がうまく進まず、明治政府中央と衝突し、今度は自ら退官したのでは!と思われます。秋田においても、「県の基礎を作った人」との評価があります。
 ☆「島義勇伝」:伝記漫画を札幌の(有)エアーダイブが出版しています。 

 二の鳥居に戻り、再び参道を西進します。
 *鶴屋・・二の鳥居の先左手に、寛永16年(1639年)創業にて藩御用御菓子司でもあった「鶴屋」があります。「丸房露」が有名ですね。因みに北島の丸ぼうろは「丸芳露」と表記しています。ポルトガル語の「ボーロ(bolo):焼菓子」に由来する南蛮菓子です。
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 *棚路(たなじ)・・田布施川水系の水路石垣護岸が整備されいます。生活用水を汲む階段施設です。
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 *肥前ビードロ・・嘉永5年(1852年)に設置された精煉方(理化学研究所)が明治に入り佐賀精煉合資会社に発展し、理化学用材から日用雑貨にいたるガラス製品を製造、そこに従事していた副島源一郎が独立創業、明治36年(1903年)道祖元町に工場を移転し、副島硝子工業株式会社として、伝統技法(ジャパン吹きガラス)を受け継いでいます。
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 *専修寺門前の風景・・この辺りは「道祖元町(さやのもとまち)」と言われた町人町でした。明治・大正にかけて、佐賀を代表する伊丹・深川一族の邸宅があり、専修寺の本堂は伊丹文右衛門が改築寄進したもので、伊丹一族の菩提寺でもあります。伊丹文右衛門が母屋を子息・伊丹弥太郎が庭園を完成させたのが、神崎にある伊丹家仁比山別邸「九年庵」です。特に伊丹弥太郎は「九州鉄道」・「九州電燈鉄道」・「東邦電力」の経営に深く関与、戦後それらの会社は、西日本鉄道(株)・九州電力(株)として今日に至っています。
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 *道祖神社・・与賀神社の末社で交通の神を祀っています。神社の説明碑には肥前ビードロで作られた説明ガラスが埋め込まれています。
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 *道祖元町歴史的建物群・・道祖元町は「海の長崎街道」の西の入り口栄えた街とも言え、久保田町から出た深川嘉一郎は海運業で大成し、明治26年にこの地に「地所株式会社(小作地管理・金融業)」を設立、明治期大いに繁栄しています。明治期の住宅である、山下邸・向かい合う二つの竹下邸(元深川邸)・延岡邸(伊丹分家)は歴史的建物群として、佐賀市景観賞を受賞しています。
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 ☆手打ちそば 二八が営業中
 *一の鳥居と与賀神社下宮(御旅所)・・参道の突き当りに、下宮があり、手前に一の鳥居「寛永17年(1640年)」があります。一の鳥居は昭和36年の道路工事前は300m程参道東に立っていました。下宮は大正期までは、二の鳥居近くにあったようです。
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 ☆例祭秋祭(おくんち) 10月第4日曜日
 御分霊が年に一度神殿を出られ、下宮まで氏子区域を台車2台に神輿を乗せて回ります。また、氏子青年団による厄払い獅子が、区域を舞います。
 ☆境内にある佐賀恵比寿神社での「十日恵比寿大祭」(平成29年1月9日・10日)において、佐高27会による特別祈願「エイ・エイ・エイ・オーの打込み」が佐賀新聞で紹介されていました。昭和47年1月に佐賀恵比寿会が発足し、年々盛んになってきているようです。博多区東公園内にある「十日恵比寿神社」の正月大祭では、長蛇の行列にもまれながら参拝する事を思えば、たまには佐賀でお参りも良いのかもしれませんね。
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☆与賀神社参道を歩く:参考文献等
  ① 佐賀市史・久保田町史  https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
  ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
  ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
  ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
  ⑤ 島義勇伝:(有)エアーダイブ
  ⑥ 札幌市役所
  ⑦ 與賀神社
  ⑧ 北海道神宮
  ⑨ 大潟村役場・大潟村百科事典
  ⑩ 佐賀十日恵比寿大祭   http://ebisukai.sagafan.jp/




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佐賀の長崎街道を歩く:「構口から柳町」編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 佐賀市内には、その昔長崎街道が通り、近年その道筋が整備されています。東の構口から西の高橋までの約6キロを、今回歩いてみました。高校生の時には気にも留めなかった「恵比寿像」が道々に点在し、案内板も設置してありますので、のんびりとした散策ができます。
 街道筋は構口から、江戸期の町名でいえば、牛島町・柳町・蓮池町・呉服町・元町・白山町・米町・中町・多布施町・伊勢屋町・伊勢屋本町・点合町・六座町・長瀬町・八戸町を経て、西の出入り口である高橋まで続きます。慶長年間に佐賀城下が整備された際に、城下の北縁に沿って街道を通したことから、20数か所の「曲(まがり)」があり、今日でもそれが確認できます。
 *長崎街道は東の入り口である「構口」から西の入り口である「高橋」まで、佐賀城下の縁を沿うように道を通した為、20数か所の曲がり角がありました。江戸時代の二重鎖国政策もあり旅人の従城下立ち入りを嫌った結果と言われています。また城下の街道筋には、城下を支える商工人が配され、町人町が街道の東西に連なりました。徒歩での往来で栄えた街道筋でしたが、近年の自動車の登場から、構口から高橋までの直線道路が昭和6年12月にまづ構口から工事が始まり、東と西で交互に工事が進められました。牛島橋と材木橋が昭和7年6月同時竣功であることは、最初の工区であった事が石柱からも読み取れます。
 *昭和11年に高橋までの道が完成しました。これが昭和世代が言うところの「貫通道路」です。開通当時は車も少なく、自転車で道路の真ん中を走りながら「貫通道路ツーツラツー」と口ずさんだと言われています。
 *佐賀バイパスができるまでの貫通道路は国道34号線でしたが、現在は辻の堂の先、平成にできた与賀町交差点まで国道264号(江見線)となっています。同国道はここから北に向かい、旧紡績通り・堀江通りを経て、国立病院前立体交差点で、国道34号線(佐賀バイパス)に接続しています。

 *牛島橋・・・「構口交差点」より「貫通道路」に架かる昭和7年6月竣功のレトロ橋
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*紺屋橋・・・「牛島橋」と同時に架けられた。
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 *紺屋橋の陸橋より見る「貫通道路」
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 *材木橋・・・これも昭和7年6月竣功となっています。
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  *牛島橋と材木橋との間には、旧国鉄佐賀線の高架鉄橋がありました。神崎方面から一直線に来た国道34号線は、この先でカーブし市内へと進んでいました。国鉄佐賀線高架はさながら、市内に入る大門の様な雰囲気がありました。高架跡は平成に入り更地にされ、道路(大財六丁目から南佐賀東)が平成25年5月に開通、跡地付近は田代二丁目交差点となっています
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 *バス停に駅名が引き継がれています。
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*構口から柳町のルート・・赤い☆印に恵比寿さんが鎮座
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 *構口交差点角、構口橋方向左手に鎮座
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1)構口橋・構口番所跡
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四角石柱に「ながさき 右」・「こくら 左」刻印。側溝にも駕籠かきの意匠が施されている。
 *道しるべ恵比寿・・構口番所跡に鎮座。先代は傷みが激しく2代目。
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 *街道は、旧JR佐賀線後の新市道を横切り、直進します。
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 *こととい(言問)恵比寿・・お顔が可愛いい。
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 *牛島町公民館・・・街道沿いに時間が止まった木造屋。校区の公民館は循誘公民観が表示されるので、今は役目を終えたのかもしれない。
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 *松亀恵比寿
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 *幸せ恵比寿
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*思案橋・・長崎街道の道筋はカラー舗装となってます。
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 *マンホールの蓋はムツゴロウ!
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 *野中烏犀圓本店 登録有形文化財
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 *説明版
 野中家は「野中烏犀圓」の製造販売を家業とする老舗で、初代源兵衛氏が寛永3年(1626年)に創業した。寛政8年(1796年)に生薬「烏犀圓」の製造販売を藩から許され、その際に建てられたのが現存する町家とされ、「冷善楼」と号される座敷では、藩の役人が薬の検査を行ったと伝えられる。
 広い漆喰壁、正面中央の大破風や看板を吊るす屋形が江戸時代の商家の風情を今に伝えている。佐賀県遺産会議

 *南里邸・・小路の右手。市内で最古の町家と言われ、平成25年佐賀市景観指定重要建造物に指定、修復工事を経て一般公開されています。南里呉服店発祥の地。
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 *南里邸角向い、柳町八丁目の道標。街道はここで左折しています。市内の長崎街道の道筋は城下を迂回する為、随所に道標があります。
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 ☆一寸!寄り道・・南里邸から、道標のある十字路を直進しますと、正保以前の長崎街道に至り、ここを右折して進むと、牛島天満宮です。境内に架かる太鼓橋は宝暦8年(1758年)造立です。
 ・牛島天満宮・・鍋島勝茂公が佐賀城築城に際し、城の鬼門として慶長年間に遷座されています。
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牛島天満宮 肥前鳥居.jpg
 ☆天満宮本殿
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☆境内の大楠
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牛島天満宮 大楠.jpg

 ☆牛島天満宮から更に北進、循誘小学校の横を通り、十間堀川に出ます。清心橋の先にある清心院は、城の東北に位置し、城の鬼門鎮護の道場として、西北の天祐寺とともに佐賀城の出城でもありました。江戸期の城下図を見ますと、天祐寺から清心院の先まで十間堀川が東西に流れていて、城の外堀だったことがよく分かります。
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十間堀川 清心橋.jpg
  

 ・清心院・・永正年間(1510年前後)に龍造寺胤家が居館とし、その子斎亮が僧となり、清心院と名乗り、居館を寺として今日に至っています。門前には六地蔵が鎮座しています。
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清心院 六地蔵.jpg

 
 長崎街道筋に戻ります。
 
 *さぶとん恵比寿・・台座がざぶとんの様に沈み込んでいる。
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 *たたみ恵比寿・・畳屋さんの角にある。案内柱には「半跏恵比須」とあるが、説明版には「安座恵比須」となっています。不思議!です。
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 *柳町の歴史的建物群のご紹介・・ここは長崎街道沿いに明治から大正にかけて、商業地として繁栄した街でした。佐賀市都市景観条例に基づき、平成11年から「長崎街道・柳町都市景観形成地区」に指定され、建物の修復整備が進められ、街並みが一新しています。
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 *旧久富家住宅・・大正10年、県下でも有数の履物商を営む久富亀一によって建てられています。古民家再生事業として建物外観を保存・リノベーションして、平成27年(2015年)に開館。1階はカフェ・フォトスタジオ、2階は複数のテナントが入居している。白漆喰壁が美しい。
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 *旧三省銀行・・明治15年に建築された蔵造商家で、明治の銀行創生期の遺構を残しています。
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 ・「佐賀城下ひな祭り」での柳町
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 ・三省銀行内部の雛飾り
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*旧牛島家住宅・・旧下今宿「佐賀市朝日町」にあった建物を、道路拡幅に伴い、解体移転。明治時代末期の姿に復元しています。
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*森永家住宅と長崎街道名産「富士の煙」製造所跡
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 *呉服恵比寿・・旧森永家住宅前に鎮座する。
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 *旧中村家住宅と八坂神社の大楠・・明治18年建築。古賀銀行開業時の社屋として活用後、明治39年に道向かいに古賀銀行が新築移転後、中村家の住宅となっています。
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 *八坂神社・・初代藩主・鍋島勝茂公により御城の鬼門除と国家太平を祈願して勧請された。
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 *旧古賀家・・平成3年に佐賀市所有、建設当時の姿に復元・・
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*旧古賀家住宅は改修工事の為平成29年8月(予定)まで休館中!但し「第17回佐賀城下ひなまつり」期間中は、有料開館(2017/02/11~03/31)
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 *古賀善橋・・・旧古賀家住宅と旧古賀銀行の裏手柳町高木町の境に、古賀銀行を興した古賀善兵衛の手によって架けられた橋がある。
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 *旧古賀銀行・・平成4年7月に佐賀市の所有となり、建築当初の外内装へ復元を図り大正モダン建築を今に伝えています。
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 *旧古賀銀行・・裏手からは和の風情(瓦葺)も見て取れます。
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 *旧古賀銀行 三景・・ 長崎街道・裏庭・裏手の堀は佐賀江川に通じてます。
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 *馬場家住宅・・鍋島藩の藩医宅で、開業していたと伝わります。18世紀末から19世紀初期の建築とみられ、表の腕木門も同時期と考られています。表構えは他の町家とあまり変わりませんが、家の間取りは武家屋敷に近い構造です。
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 ☆一寸道草!八坂神社と旧中村家住宅との間の小路を南に進みます。
 *成就院橋(明治33年12月竣工)・・八坂神社から肥前通仙亭に向かう小路に架かる。江戸期橋の西北に成就院と盲僧成就院の屋敷があったのが、橋名の由来です。
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 *肥前通仙亭・・佐賀市の地場産品(鍋島緞通、佐賀錦、肥前名尾和紙、肥前びーどろ、諸富家具)及び佐賀のお茶文化と高遊外売茶翁(煎茶道の祖)にまつわる資料を展示
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 *旧福田家住宅・・大正期の近代和風建築
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 *江戸時代の路地案内「通小路」・・
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 *柳町の歴史的建造物は「佐賀市歴史民俗館」が統括し、観光資産として、平成28年4月より、旧森永家と旧久富家が加わり、現在7館となっています。
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佐賀市歴史民俗館 HP http://sagarekimin.jimdo.com/

 *休館 月曜日 9:00 ~ 17:00 入館料 無料
 *無料駐車場あり。周辺は一方通行の為、標識を必ず確認ください。
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 *呉服元町交差点より柳町通りを見る。左手は観光バス駐車場となっています。
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☆故郷では地域再生策として、観光資源の構築・整備を図り、柳町の歴史的な建物群は10年来をかけて充実して来ています。帰省、同窓会参加の折にでも、久々に歩いてみては如何でしょう。
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佐賀の長崎街道を歩く:「呉服元町から白山」編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 柳町から来た道は大財通りの呉服元町交差点を横切り、呉服元町から白山へと進みます。明治・大正時代は江戸時代からの水運の影響も残っていたことから柳町周辺が特に栄えたようですが、昭和恐慌を経て、柳町が疲弊した後は街の中心が西に移動していきます。昭和8年、呉服元町に佐賀玉屋百貨店が開業しました。周囲には多くの銀行も進出し、近くの松原神社北側に各映画館も開館、中小の各種専門店も立ち並ぶ佐賀では一番の通りに成長していきます。
 その後、昭和30年後半には呉服元町から白山までの長崎街道沿線の商店街に約1キロのアーケードが設置されました。佐賀玉屋は昭和40年に新しくできた中央大通りに移転しましたが、昭和41年6月からは「さが銀天夜市」も始まり、佐賀市民が押し寄せる、本当ににぎやかな通りとなりました。この頃は、昭和39年に開業した日祐との効果もあり、商店街・佐賀玉屋・日祐・映画館・復興通り飲食街と回遊型商圏が出来上がっています。
 昭和47年には白山にダイエーが出店し昭和49年に南里本店が新築オープン、昭和54年には窓の梅・寿屋が開業し、これが街のピークであったようです。
 平成に入りモータリゼーションから商業地は郊外型に移って行きます。長崎街道の道幅そのままに発展してきたアーケード街は、自家用車では逆に不便となり、結果平成10年ダイエー佐賀店撤退、対応策としてエスプラッツが同年開業するも平成15年に一時閉鎖(平成19年再開)、平成11年は南里本店閉鎖・寿屋佐賀店撤退・佐賀銀行呉服町支店移転があり、平成17年にはスーパー窓の梅が閉店、日祐の後にできたマルキョーも平成25年に閉店しました。ここは平成28年10月「バルーンミュージアム」として公共施設で再生されました。
 長崎街道沿線の各商店街の振興組合や協同組合はメイン商業施設の閉鎖や空き店舗の増加に伴い機能不全となり、アーケードの維持が出来ず、七夕が毎年飾られた栄光のアーケードも平成22年迄に撤去されています。
 *呉服元町に進む・・・・昔は違う看板だった様な?
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 *晒橋・・・欄干にガス灯が復元されています。軽犯罪者を晒した橋とも言われてます。旧古賀銀行から晒橋までの街道筋は、昭和36年(1961年)まで蓮池町でした。
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 *佐賀藩本陣跡・・・長崎へ向かう大名・旗本・幕府の役人が宿泊。今はマンション!
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寛政末期、この地に住んでいた御用商人、野口恵助の自宅を借り受け、佐賀藩の本陣として使用していましたが、その後、藩は隣接屋敷の買収などを重ねて、ご書院・寝所・御次・家老屯など数多くの部屋を備えた呉服町本陣屋敷がこの地に整備されました。
 
 *開運さが恵比寿ステーション・・元美穂野文具店の空き店舗に平成26年2月オープン。800体以上ある街角恵比寿の情報発信基地。
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 *みちしるべ恵比寿・・ここから街道は北に進みます。
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 *欄干橋・・松原神社の東側に「欄干茶屋」があり、本陣と茶屋をつなぐ橋が架けられていました。道しるべ恵比寿から街道とは反対に南に下った所にあります。橋の先、左手には「モンブラン竹下」・「南里本店」があり、手前には「金ちゃん(うどん屋)」「積文館書店」がありました。写真右手前の深川製磁佐賀店は昭和の姿を留めています。当時、車止めの上にはアーケード入り口の大きな看板があり、アーケードが連なる風景が脳裏にある昭和40年から平成10年代の同窓には不思議な風景でしょう。現在左手前の一角は全て空き店舗で、危険な状態です。
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 *旧佐銀呉服町支店・・昭和9年竣功。当時は佐賀中央銀行、昭和30年7月に佐賀中央銀行と佐賀興業銀行が合併して佐賀銀行となり、その呉服町支店となった。以前はアーケードで全体が見渡せなかったが、今は堂々とした外観が見て取れます。
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 *南里本店跡・・銀行の斜め向かいの風景。一休軒が復活し、サガン鳥栖の公式スポーツバーが平成25年12月にオープンしています。
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 *むつごろう(656)広場・・平成22年6月新生オープン。アーケード撤去に伴い滑りにくい床など改修されています。ここには昭和30年後半まで、協和銀行(現りそな銀行の前身の一行)佐賀支店がありました。写真左手。右手には佐賀大学のまちづくりサテライト「ゆっつら~と館」が平成14年11月にオープンしています。
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 *二階屋に横丁の入り口が今だ健在。
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 *佐賀玉屋旧店舗・ミヤコ佐賀店跡・・今は駐車場。佐賀玉屋があった時、先隣は旧住友銀行佐賀支店がありました。
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 *窓の梅・寿屋跡・・・戦前は食料品が豊富な「窓の梅デパート」、戦後はスーパーとなり、最盛期に2階以上に寿屋が入居しましたが、平成に入り寿屋撤退の後、平成17年に閉店しています。平成25年1月、佐賀県国保会館が跡地に移転新築されました。
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 *この先で街道は西に向きを変えます。来た道を振り返ってみます。
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 *街道は元町に入ります。昭和の道筋にあった高柳楽器や桃太郎玩具店など、多くの商店が見当たりません。ここから街道は拡幅されています。この一角だけは、長崎街道の道幅より自動車での回遊が優先されて、現代風な街並みとなっています。
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 *上林茶店は今も健在。
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 *一寸寄り道、正保以前の古い長崎街道沿いにある願正寺・・山門と格式ある五本線の高塀
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 *参道に「種痘の先駆者 大石良英 墓所」と「振風教校跡・佐賀龍谷学園発祥地」の記念碑があります。
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 *時鐘・・・江戸中期より昭和初めのころまで、町民・市民に時の鐘を鳴らしていたそうです。
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 *願正寺本堂・・・明治16年8月、初の佐賀県議会が開かれ、その後通算7回議会が開催されました。
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 ☆意外と、アーケードのすぐ近くに大寺院がある事を知らなかった同窓も、いるのでは?

 *エスプラッツ白山から北に街道は進みます。
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 *一度頓挫した施設は公共機関が入居し再出発しています。
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 *香蘭社佐賀呉服町元店はモダンな店舗に建て替わっています。
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 *白山商店街にはアーケードが残っています。ここから、また西に向きを変えます。
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 *エスプラッツ白山の鬼門を守る恵比寿さん「長崎街道恵比寿」。
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 *白山商店街、ダイエー佐賀店跡には平成26年4月に「佐賀商工ビル」がオープンしました。
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 *白山商店街通りの南側には、中央大通りより「ハローワーク佐賀」・「佐賀商工ビル」・「エスプラッツ白山」が連なります。
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 *中央大通りの風景・・昭和40年8月に中央橋よりお堀まで開通した佐賀のメインストリート。昨年「中央大通り再生計画」が提示され、今後街並みが変わるとみられます。既に福銀佐賀支店は唐人町(正式は駅南本町)に今年移転しています。
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 *白山恵比寿神社・・・地域の活性化として、平成11年1月本殿遷座祭、2月に落成祭を斎行。商工ビルより右先の鈴蘭橋に向かう「すずらん通り」にあります。
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 *町のお風呂屋さん跡・・白山恵比寿神社から鈴蘭橋を渡った正面に残っています。左右の入口には、「女」・「男」の文字が微かに読めます。
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 *白山商店街出入口・・・・長崎街道はここから中央大通りを横切り、龍造寺八幡宮に進みます。
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 ☆白山商店街・中央大通り出入口の左手に「鍋島更紗の由来」説明版があります。
 説明文・・・・鍋島更紗は古く佐賀に伝わる優美な染織品。
 工房は佐賀銀行白山支店付近にあった。*佐銀白山支店は現在ATM店舗。
 慶長年中、朝鮮出兵から帰国の折り、鍋島直茂が連れ帰った高麗人九山道清が伝えたという。道清はのち九山左衛門と改名、藩の庇護を受け、諸大名や幕府への献上品をつくった。技法は木版ずりと型紙ずりを併用した独特なもので、色染めも精巧を極めた。文様は動植物を図案化したもの、有職文様風、インド更紗風など多様であり、鍋島藩窯の色鍋島や鍋島緞通の文様にも共通するものがある。
 更紗製造は世襲であったが、五代目で男子の血統が絶え、知人の江口半兵衛が継承、半兵衛更紗といわれた時代もあった。その後、漢方薬本舗でもあった江頭兵右衛門が受け継ぎ、明治を迎えたが、存続できず、工房は廃絶した。現在、古い更紗資料は県立博物館に一部コレクションされている。廃絶の鍋島更紗の復元に故鈴田照次氏(染織家)が努力されたことはよく知られている。
 
 *中央橋から中央大通りと白山商店街出入り口を見る。
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 *中央橋より唐人町を見る。・・唐人町では昭和34年に両サイドに佐賀で初めてのアーケードを設置されました。その後佐賀駅が高架となり駅前商店街の機能が希薄となったこともあり、地域再生として昭和60年アーケードを撤去の上、道路拡幅・電柱の地中化などの再生事業を進めましたが、昭和最盛期からの店舗は少なく、多くが入れ替わっています。
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 *市政100周年記念の観光地図モニュメント・・中央橋から北島本店に向かう歩道上にあります。制作年:平成元年11月15日。
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 ☆母校に在学中、同窓は各々、呉服元町から白山までの商店街を幾度となく行き来した事でしょう。書店・レコード・楽器店・電気店及びパーツ店・スポーツ用品店・玩具及びプラモデル店・うどん屋ラーメン屋餃子屋・ジャズ&クラシック喫茶店、洋装店などなど、当時通ったお店の大半は無くなっているように思われます。相変わらず空き店舗の市内中心部ですが、ここ数年で大きな変化も見られ、また今後も再生事業が進められるようです。
 既に佐賀市民ではなくなっていますが、思い出多い地区の再生に、大いに期待しています。
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