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昭和の面影、昭和33年松竹映画「張り込み」ロケ地等を歩く。 [故郷(佐賀)を歩く]

 まずは松原町周辺を歩きます。中心部の交通混雑解消のために、郊外を迂回・周回するバイパス道の周囲は開発が進み、人の流れが郊外に拡大した結果、市内中心部は衰退し、時が止まった区域が点在しています。
 昭和の面影が残っている場所もあれば、平成に入り変貌してきた場所もありますね。
松原神社 周辺地図.jpg

 ・「松原マーケット」の今!
 戦後「徴古館」の土地および佐嘉神社境内地を引揚者の方々に貸し出してバラックが建ち並ぶ闇市が出来ました。その後「松原マーケット」と呼ばれる商店街に発展しました。
 昭和47年7月発行の「佐賀市白山町商店街診断報告書」では、競争相手の商店街として、松原マーケットは店舗数「77店」・買い回品「20店」・最寄品「24店」および飲食とサービス「33店」の規模で、食料品主体の街区で市内有数の飲食街である、と記されています。
 その後、近くにあった市役所が佐賀駅近くに移転、城内公園化構想から、地権者である鍋島報校会も廃業時に更新しない方針をとり、近年は廃業店舗の解体も進み空き地が広がっています。
 ・整備されつつある徴古館の周囲、北濠城内より。
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 ・取り壊された店舗跡は駐車場になっています。
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 ・貫通道路からの入り口にある人気の饅頭屋さんは健在!閉めた店もあれば、頑張っている店もあります。
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営業中の店もある.jpg

・昭和の家屋と平成のマンション(平成13年・2001年、完成、15階建て)
松原マーケット 昭和の家屋と平成のマンション.jpg

 ・昭和の旅館と平成のマンション 旅館の手前は公園化されています。ここには戦後、親和銀行佐賀支店がありました。
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 ・広場の東側は「復興通り」
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 昭和30年代、松原2丁目界隈には映画館が立ち並び、東映・日活・東宝・松竹・洋画の有楽会館などがありました。佐賀大映だけは、貫通道路沿いの福岡商店ビル辺り(水ケ江)でした。東松原(新馬場)には「平和映劇」、市民会館前には「朝日映画」がありました。また、駅前西通りには「駅前東映(名画座)」、紡績通り角に「若草映劇」、唐人町に「昭和映劇(昭和東映)」がありました。
 福岡市内では中州に映画館が集中していましたね。国体道路と50m道路(昭和通り)との間に、昭和32年当時16館の映画館が林立していました。今は大洋映画劇場だけになっています。
 ・佐賀東映 映画館跡 今はマンションになっています。
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 ・閉館したセントラル会館は昭和30年代、有楽会館や有楽オスカーがありました。
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セントラル会館と松原川.jpg
 ・佐賀松竹(松竹世界館)今は駐車場です。奥の「セントラルプラザ」には佐賀東宝がありました。セントラルプラザ・東隣の駐車場は当時「レストラン赤玉」でした。
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レストラン赤玉 跡.jpg
 ・「セントラルプラザ」!3階に中心部唯一の映画館「CIEMA」が頑張っています。
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 ・佐賀日活 今はセントラルパレスで飲食ビルになっています。
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セントラルパレス .jpg

☆さてここから本題です。映画つながりで! 
 昭和32年(1957年)、今から半世紀前の秋に佐賀市内で映画のロケがありました。松本清張の短編を映画化した「張り込み」です。
 松竹映画 監督:野村 芳太郎 脚本:橋本 忍 音楽:黛 敏郎 主な出演:大木 実、宮口 精二、高峰 秀子、田村高廣。
 上映は翌昭和33年1月でした。日本の映画館入場者数は昭和33年(1958年)に年間11億人に達し、入場者数がピークになった年です。昭和34年の皇太子殿下・美智子様のご成婚パレード実況中継でテレビが爆発的に売れ、プロレス・野球・相撲など映画では太刀打ちできないスポーツ実況生中継がテレビの存在価値を高めました。更に、テレビドラマでもVTR収録が始まり作品の品質が向上し始めたことなどから、以後映画館入場者数は減少の一途となります。
 「張り込み」では、 佐賀駅、護国神社周辺、県庁前、旧佐賀警察署、中の小路、松原通り、松原神社、呉服町、材木町などでロケがあり、60年前の風情が物語の背景に描かれています。
 特に尾行のシーンでは、母校の旧正門・図書館・講堂の一部が背景に確認できます。この当時、母校から貫通道路までの道など市内の主要な道は未舗装だったことがよく判ります。
 ストーリーの後半、尾行のシーンには、護国神社北の多布施沿いの小路、県庁前、母校前の通り、県知事公舎の角、日本勧業銀行佐賀支店がある中の小路交差点、松原川沿いの松原小路、松原町・呉服町界隈が登場します。
 ストーリーに準じて今の風景をご紹介します。
 *「張り込み」はDVD&Blu-rayが発売され、レンタルもあります。(店頭にないことが多く、ツタヤなど取り寄せ可能な店舗がお薦め)
■ストーリー :東京で発生した強盗殺人事件の容疑者(田村高広)の元恋人(高峰秀子)が後妻として佐賀に嫁いでいたことから、立ち寄る可能性が高く、刑事二人(大木実、宮口精二)が佐賀に出向き、嫁ぎ先向かいにある旅館の部屋で張り込みをする。単調な日常生活の連続で犯人が接触してくるのか、刑事二人に焦りがでるが、張り込み予定最終日に犯人が接触し、追跡の上、逮捕となる。

 ・冒頭、一昼夜かけて横浜から佐賀まで夜行急行列車でのロングシーンがあります。満員で真夏の風情をドキュメントタッチで描いています。電気機関車から山陽本線では蒸気機関車の雄姿に替わり、瀬戸内、広島駅・小郡駅・関門トンネル・博多駅の当時の風景が見られます。博多駅は先々代のホーム・改札が登場します。その後に懐かしい旧佐賀駅に到着、グリコの広告塔ロータリーがチラリと見えます。
 ・新山口駅(旧小郡駅)
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 ・劇中の蒸気機関車と同じC591型、当時急行雲仙を牽引。
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 ・当時の板張り客車のイメージ
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 ・当時の関門トンネル専用電気機関車。山陽・鹿児島本線が未電化の昭和30年前半、関門鉄道トンネルは既に開通時の昭和17年から電化されていましたので、下関と門司で機関車の付替えがありました。
関門トンネル専用電気機関車.jpg

 ・旧佐賀駅前、現在の「駅前交番西交差点」
駅前交番西交差点 1.jpg
駅前交番西交差点.jpg
 ・翌日、佐賀署に挨拶に出向く。城内の空撮、県議会議事堂ドームと佐賀警察署が映るショットから警察内部での挨拶場面、その後警察前から、バス停のシーンとなります。警察署前の交差点(信号機など無し)、昭和バス・初代トヨタクラウンが通る中をすり抜けてバス停に向かいます。背景に北濠の貸しボート遊びが見られ、懐かしいです。今、佐賀警察署は移転し佐賀県警本部になっています。
県警本部前交差点.jpg
県庁前 バス停.jpg
 ・刑事二人は、元恋人が後妻に入った家がある場所へ向かいます。護国神社前から多布施川沿い(瓦葺店舗もあれば西進し、茅葺店舗も見られます)に西進し、三角橋を渡ります。近年、国道264号が妙安寺小路から紡績通りへ拡幅新設され、三角橋にも安全確保の欄干が付けられています。劇中では、多布施川の棚路で洗い物をする姿がバックに見られます。
護国神社 太鼓橋前.jpg
護国神社 多布施川沿い.jpg
平成の初め頃までは撮影当時の姿でした。多布施川沿いの道にもガードレールが設置され、棚路も埋め込まれています。
三角橋 多布施川 埋められて棚路.jpg
三角橋.jpg
三角橋 親柱.jpg
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三角橋 1.jpg
三角橋 多布施川 .jpg
 ・監視対象の家の前が旅館だったことから、二階の一室で張り込みに入ります。この後にやっと映画タイトル「張り込み」が映し出されます。当時映画を見た全国の方々は、これで如何に「佐賀が東京から遠い所にある街」か実感したのではないでしょうか。
      ↓イメージ写真(長崎街道・伊勢屋町)
肥前屋 イメージ.jpg
 ☆見張りの為に宿泊する旅館「肥前屋」でのシーンは松竹大船撮影所で撮られています。
 
 単調な生活の中、決まった時間に買い物に行くシーンでは、撮影当時「日峯さんの縁日」で興行していた矢野サーカステント前(東堀埋め立て広場)、東魚町・新道商店街(県病院北通り)?の商店街が背景に使われています。 ・東濠跡の駐車場(1時間100円、24時間)
東濠 埋立地.jpg
 ・東魚町
東魚町.jpg
 ・新道商店街(県病院北通り)一角、好生館跡地に「健康検診センター等の複合施設」が建設中。
水ケ江商店街 好生館跡.jpg
  
 原作にはありませんが、高峰秀子演じる後妻さんが、夫の代わりに焼香に出向くシーンとなります。当時の佐高・西校舎正門前から本願寺前、材木町の佐賀劇場前が「材木町市営バス停」として(フィクション)登場し、国道34号線・神崎手前の大町橋バス停を降りて、唐香原(からこうばる)に歩いて行くのを刑事二人が尾行します。
西高 旧正門前.jpg
 ・佐賀劇場(昭和41年に閉館)の跡には借家長屋などが建てられています。当時の橋は架け替えられ「劇場橋」と命名されています。劇中では、懐かしのボンネット市営バスが登場します。*佐賀市交通局のホームページに撮影当時のバス写真がありますよ。
佐賀劇場 跡.jpg
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 ・「劇場橋」には佐賀劇場の面影が埋め込まれています。
劇場橋 近影.jpg
劇場橋 イメージ.jpg
 ・現実の「材木橋バス停」は、貫通道路の材木橋を挟んで、佐賀共栄銀行本店前など東西にあります。
材木橋バス停.jpg
 ・神埼市本告牟田、国道34号線大町橋付近の今!西鉄久留米駅&信愛女学院行と、昭和バス三瀬車庫前行が運行しています。
大町橋バス停 西鉄バス.jpg
大町橋 バス停.jpg
 ☆原作者の松本清張は北九州小倉出身ですが、清張夫人の地元は神埼町・大町橋近くの農家で、戦時中疎開していました。出征していた清張もここに復員しています。芥川賞を受賞し東京に出て、社会派推理小説で活躍した松本清張ですが、意外にも、佐賀平野の地理や風情に精通していたようです。
 
 後妻さんが歩いたバス停から日の隈山へ延びる道は田んぼの中の一本道でしたが、現在では日の隈山まで、道の東側は桜並木が続きます。
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 ・唐香原の集落に歩き進みます。
唐香原 入口.jpg
唐香原集落 入口.jpg
唐香原集落 .jpg
 
 ☆唐香原集落を通る道は「平山 古代官道」であり、太宰府から吉野ケ里を通り肥前国府に通じていました(西海道)。 
 
 ・ 農家の庭先での葬儀に参列し、道端から刑事が覗くシーンとなります。
くど造り農家.jpg
 ☆現在の唐香原集落に、撮影当時の風景は見られませんが、大町橋から唐香原に向かう途中に「横武クリーク公園」があり、くど造り民家が保存公開されています。
横武公園.jpg
くど造り民家.jpg
横武公園 くど造り民家.jpg

 ・「張り込み」次のシーンは雨が降り出し、後妻さんが主人の勤務先へ傘を届ける場面となります。これは柳川で撮影がありました。 

 ・張り込みも予定の日数が過ぎ、刑事の二人も諦めかけた時、傘直しに変装した犯人が現れ、時間をずらして外出する後妻を刑事一人が尾行します。三角橋、県庁前、母校前・本願寺正門前、県知事公舎角、旧勧銀佐賀支店前交差点、松原川に沿って、松竹宇宙館、松原神社前の浮立面踊り、呉服町、国鉄佐賀駅、祐徳バスターミナルが映し出されます。 ・撮影当時の楠木?県庁前の大楠
県庁前の大楠.jpg
 ・元恋人に会う為か、日傘をくるくる回しながら門前を通っていくのが印象的。
本願寺佐賀教堂.jpg
 ・裁判所前交差点、県知事公舎角の塀の丸みは今も同じ。
知事公舎 角.jpg
 ・今は佐賀玉屋南館が在りますが、旧勧銀佐賀支店前交差点が登場します。
 ☆勧銀佐賀支店は昭和41年(1966年)9月17日深夜、金庫室が破られ当時の金額で3200円が盗まれてました。犯人は捕まらず時効になっています。2年後に東京府中にて3億円事件が発生するまで国内現金盗難事件で最高額でした。
佐賀玉屋別館 角.jpg
 ・県庁通りから松原川沿いの道に入り松原町を進みます。シーンでは写真館の看板が目につきます。
松原川 松原小路 角.jpg
 ・松原川は市民が水に親しむ親水公園となって、遊歩道も整備されています。
松原川 遊歩道.jpg
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 ・中央通り開通後進出した日祐の跡はマルキョウが入っていましたが撤退、平成28年(2016年)10月、佐賀バルーンミュージアムとして、再スタートしています。
松原川 松原二丁目交差点.jpg
松原川 バルーンミュージアム&裸婦像.jpg
松原川 佐賀バルーンミュージアム.jpg
 ・旧嬉野家の武家屋敷門(薬医門)が平成27年度に保存修理、嬉野家(当時は多久蔵人屋敷)の西隣には創設時の「弘道館」がありました。東隣はシーンに看板が見られた写真館。
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 ・佐賀県教育会館?らしき建物を通り抜けます。佐賀県教育会館は昭和53年(1977年)3月、高木瀬町に移転して、今では15階建てのマンションが建っています。
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 ☆マンションの前立つ河童の手に触れると、松原川に架かる河童橋が放水します!!
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 ☆松原川では鯉が放流されています。
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 ・松原川沿いに日峯さんで賑わう街が映し出されます。今では静かな通りです。
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松原川 松原通り 1.jpg
 ・松原神社前の通りで、「浮立」が群衆の中で舞われる中、刑事は群衆に阻まれて、後妻さんを見失います。今は平屋のフラワーショップになっていますが、シーンには「お肉屋さん」が映っています。ここの一角には後に「金ちゃんうどん」が在りましたね。
松原神社 前.jpg
松原神社 前1.jpg
 ☆昭和を通じて市内で最も人通りが多かった通りも、書店が移転し、呉服町のアーケードも撤去されたりして、様変わりしています。
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 ☆松原神社の大鳥居。「張り込み」で新人助監督だったのが「山田洋次」でした。彼の代表作である「寅さんシリーズ」の「42作・男はつらいよ ぼくの伯父さん」昭和64年12月公開で、佐賀・小城を地方の舞台とし、「張り込み」と同じ日峯さんの祭り風景と境内での浮立踊りを取り入れています。「張り込み」から30年後、今から約30年前の風景が見られます。
松原神社 大鳥居.jpg
松原神社 太鼓橋.jpg
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 ☆「寅さん」でも「浮立」は登場し、この時は境内で舞われています。
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・後妻さんを見失った刑事は呉服町から佐賀駅に向かいます。喫茶晩翠、南里本店店頭が確認できます。晩翠・南里本店(道路左)・ミキヤ洋品店(道路右角)跡。
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呉服町 通り 1.jpg
 ・駅では見つからず、駅前の祐徳バスターミナルでの目撃情報から、多久にタクシーで追います。タクシーでの追跡シーンでは、佐賀平野の空撮が登場。原作では古湯(原文要約:川北温泉、S市を流れている川の上流)を連想しますが、ロケハンで不採用となり最終的に大分の宝泉寺温泉で撮影されています。

 ☆松本清張は、映画化された中で気に入った作品として「張り込み」・「黒い画集 あるサラリーマンの証言」・「砂の器」を上げています。
 ☆「張り込み」は昭和33年「キネマ旬報」第8位。
   第7位は小倉を舞台にした「無法松の一生」でヒロインはここも高峰秀子、第19回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。
 ☆原作:松本清張、監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍のトリオで、この後数々の作品が映画化され、集大成として昭和49年(1974年)10月公開「砂の器」が公開され、キネマ旬報年間第2位となっています。この時、脚本は橋本忍&山田洋次でした。
 
 ■松原などの街中散策に戻ります。更に水ケ江方面に歩きます。

 ・松原神社大鳥居前、昭和を代表する繁華街の一角でパチンコ店が連なっていましたが、今は更地です。
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「一休軒本店」は昭和30年から親しまれた老舗のラーメン店でしたが平成23年(2011年)8月14日閉店。向かいには対照的に親水公園が整備されています。左手の洋館風建物は公衆トイレ。
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洋館風公衆トイレ.jpg
 ・新馬場通り(松原神社参道)、大財通りからの参道入り口には、木製鳥居がありましたが、「シロアリ」により昭和43年頃撤去されています。参道入り口左手は「松川屋」。森鴎外「小倉日記」に登場し、鴎外が泊まっています。また昭和32年10月、映画「張り込み」の撮影時の宿舎にもなっています。
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 ・松原参道入口向かいには、明治27年(1897年)から昭和14年(1939年)9月まで、佐賀米穀取引所がありました。戦後タクシー会社本社が有りましたが、今では外食チェーンの店舗&駐車場になっています。
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・取引所跡地東に残る重厚な煉瓦塀
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 ・水ケ江交差点、昭和30年から40年代にかけて市内でも交通量の多い交差点でした。昭和46年(1971年)に箱型歩道橋が設置され、人と車の混雑解消が図られました。只、同時期に北部・南部バイパスが完成し、人と車の流れが分散したこともあり、障害者や高齢者に優しい街づくり・バリアフリーの観点から平成11年に歩道橋は撤去されています。
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 ・片田江交差点「椎小路・説明版」
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 ・閉鎖が決まった寿商店街 平成29年6月で60年の歴史に幕を下ろします。大財通りと貫通道路に出入り口があるL型ミニ商店街で隆盛期は20店舗ほど有りましたが5店舗に減少、店主の高齢化もあり商店会を解散するようです。
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寿通り商店街 通路.jpg
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 ・水ケ江・片田江商店街 シャッターを下ろした店舗も多い中、「大隈重信生誕地」商店街をアピールしています。
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片田江商店街 大隈記念館前 バス停.jpg
 ・バス停も「大隈記念館入口」になっています。以前は「県立病院東門」平成25年(2013年)4月変更。
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 ・大隈重信記念館:生誕125周年記念で昭和41年11月落成、昭和42年10月開館 平成27年2月館内リニューアル。
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 ・重信候生家(国史跡名勝天然記念物)
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 ・江戸時代の侍町割り説明版「片田江小路」
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 ・新道商店街 県立病院が移転し市民会館が閉館し、商店街のランドマークが無くなり静かな通りです。昭和の時代、此処も活気が有りましたね。商店街案内図を見ると、卒業写真の撮影をした写真館などが確認できます。
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 ・新道商店街から東に進むと市村記念体育館の裏手に出ます。昭和38年(1963年)、市村清氏寄贈により佐賀県体育館として開館、平成4年(1992年)に寄贈者を記念して「市村記念体育館」に名称が変更されています。
 昭和39年(1964年)9月15日、長崎県からの聖火は西有田村(当時)で佐賀県ランナーに引き継がれ、国道35号から34号線を進み、午後6時半前に市村体育館の2階ブリッジに到着しています。翌16日、県庁を出発し基山町で福岡県に引き渡しています。
 また昭和40年(1965年)2月、佐高最後の第16回卒業式もここで挙行されています。
 体育館前には円形の大噴水が有りましたが、今は撤去され芝生が張られています。
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 ・県庁展望室より、松原町・水ケ江町を望む。
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 □今回ご紹介しました映画「張り込み」は、レンタルなどで鑑賞されることを重ねてお勧めします。映像特典では20年弱前の佐賀市内の風景が見られます。三角橋はまだ欄干がなく、呉服元町アーケードも健在です。

☆ 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 佐賀県立図書館 ゼンリン住宅地図 昭和30年~40年代
 ⑦ 新潮社:松本清張傑作総集より「張り込み」
 ⑧ 松竹DVDコレクション「張り込み」本編116分 映像特典19分 
 ⑨ 北九州市立松本清張記念館「松本清張と映画」
 ⑩ 西村雄一郎のブログ:ドキュメント「張り込み」①~㉞
 ⑪ 佐賀新聞社 デジタルライブラリー
 ⑫ 九州鉄道記念館
 ⑬ 佐賀市営バスブログ
 ⑭ 佐賀市、神埼市HP
 ⑮ 松竹DVD 第42作 男はつらいよ ぼくの伯父さん
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」特集を企画したく、
投稿よろしくお願いいたします。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

タグ:張り込み
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春!徐福ロードの桜が満開です [故郷(佐賀)を歩く]

 国鉄佐賀線は、国鉄再建法の第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化の直前の昭和62年(1987年)3月27日で全線廃止となりました。佐賀線の廃線跡は、大財六丁目交差点から南佐賀東交差点までが市道になり、南佐賀東交差点より諸富鉄橋展望公園まで総延長約5キロの(名称:徐福サイクリングロード)歩行者・自転車専用道路になっています。
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 ・「みなみさが駅跡」
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 時間が止まった「運賃・時刻表」 今佐賀駅バスセンターから南佐賀バス停の運賃は260円です。
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 ・夏の「みなみさが駅跡」
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 ・桜のトンネル
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 ・国道208号と立体交差の「ふれあい橋」付近
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 ・諸富町、県道48号佐賀佐賀外環状線と交わる所にある県重要無形文化財「三重の獅子舞」のモニュメント(獅子の広場)
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 ・国鉄諸富(もろとみ)駅跡に建てられた佐賀市立諸富文化体育館(ハートフル)
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 ・筑後川昇開橋(正式名:旧筑後川橋梁) 平成15年5月 国指定文化財。
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 ・記念碑説明抜粋
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 ・筑後川を渡る「渡し舟」や佐賀馬鉄の説明碑もあります。
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・大川から
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 ・徐福伝説 秦の始皇帝に願い出て、不老不死の薬草を求めて渡来した徐福が上陸した地、との伝説があります。国鉄佐賀線跡のサイクリングロードの名称の由来ですね。全国に徐福伝説はあり、佐賀県内にも他に伊万里上陸説があります。徐福が生きた始皇帝の治世は紀元前三世紀ですから、日本では弥生中期にあたり、吉野ケ里が環濠集落への発展途上と推定される時代です。佐賀・久留米間の西鉄バス江見線が走る国道264号が当時の海岸線(沿線に貝塚が多い)ですから、実際の上陸地は千代田あたりでかも知れません。海岸線の南下に伴い伝承も南下してきたとも思われます。但し、歴史ロマンとしては分かりやすい土地ですね。
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 ☆国鉄佐賀線、佐賀市内の駅:佐賀駅、東佐賀駅、南佐賀駅、光法(みつのり)駅、諸富(もろとみ)駅の5駅がありました。佐賀線ではディーゼル急行「ちくご」が熊本⇔長崎が運行されていました。
 ☆国鉄佐賀線橋梁のレールの意匠がある市道「新曙橋」平成25年3月竣工。(29)蓮池・橋津と(28)今宿・道崎のバス路線が渡ります。
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 ☆同じく八田江川には「佐賀線偲橋」平成5年3月竣工。親柱が「佐賀線を走るSL」の意匠に拍手!!
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 ・(21)諸富・橋津のバス路線となっています。
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 ☆国鉄佐賀線は昭和10年5月25日に開通しました。それまでは佐賀と諸富の間に馬鉄が通っていました。佐賀馬車鉄道(株)が明治37年(1904年)から、水ケ江の明治橋諸富まで運行を始め、翌年には旧市役所・御幸橋経由で旧佐賀駅まで延伸しています。大正元年(1912年)川上軌道と合併し佐賀軌道(株)になりましたが、昭和3年(1928年)6月、路線は馬から乗り合いバスにて代りました。横小路バス停前に病院長が個人で記念碑を立てています。病院の敷地には、当時の佐賀軌道(株)の本社がありました。
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 ・諸富鉄橋展望公園にも説明碑が有ります。「昭和2年、馬鉄に代わり6人乗りのバスが走るようになりました。」とありますが、佐賀市史では昭和3年6月26日馬鉄休止とあります。
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 ・ ☆現在市内を走るバス
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 ☆廃線つながりで話題をもう一つ!佐賀市役所の南東にある市役所前公園に「D51」が鎮座しています。説明版によりますとD51がのるレールは旧佐賀駅時の長崎本線のものとの事。市役所がここに新築移転したのが昭和50年(1975年)5月で、佐賀駅が高架で北に100㍍移動したのは昭和51年2月でした。
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 ☆おまけ!「徐福」つながりでご紹介。金立にある徐福館に至る高速道路の手前に金立コスモス園があります。春は菜の花と桜で、隠れた人気スポットです。
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 廃線跡などどちらかと言えば侘しく荒廃した風景を想像してしまいますが、実際の国鉄佐賀線跡は市道やサイクリングロードに転換活用されています。
タグ:徐福
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春!佐賀城内の桜が満開です。 [故郷(佐賀)を歩く]

 多布施川は護国神社より東に向かい県県本部より北濠を越えて城内に流れます。
■北濠の桜
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■母校旧正門周囲の桜
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■西御門橋より南、西濠の桜
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■南濠の桜
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 ☆南濠の周囲には、(古賀忠雄 彫刻の森:平成6年3月開園)古賀氏の代表的な作品の野外展示が26体あります。桜並木と共に数点ご紹介します。
・「頬杖をつく」昭和49年(1974年)
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・「沼の幻想」昭和43年(1968年)
南濠の桜 ブロンズ 沼の幻想.jpg
・「想い」昭和43年(1968年)
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・「語らい」昭和42年(1967年)
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 ・「青雲」昭和38年(1963年)
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 南濠 楠に桜に蓮
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 ■枝吉神陽・副島種臣、兄弟の生誕地 南濠の遊歩道に沿った堀端南通りに佐賀県社会福祉会館があります。ここは、文化年間・佐賀御城下絵図には「枝吉 栄」と記され偉人の誕生地です。
 枝吉神陽は弘道館教授・枝吉南濠種彰の長男にて身長は180㎝の大男、のちに弘道館教授。父の勤王思想を受け継ぎ「義祭同盟」を主宰、政治体制は律令制が理想しその知識を伝授、実弟の副島種臣、従弟の島義勇、大木喬任、大隈重信、江藤新平などに多大な影響を与えています。23歳の時昌平黌に学び、昌平黌の舎長になるほどで、この時「一君論」を展開しています。水戸学の大家で徳川斉昭の側用人でもあった藤田東湖とも交流しています。また吉田松陰は長崎・平戸遊学の途中に佐賀で八歳年上の神陽と面談し「奇男子」と評しています。コレラに罹った妻の看病及び葬儀を出して罹患し、神陽が悲願とした大政奉還の5年前の文久2年(1862年)9月に41歳で亡くなっています。
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  ☆枝吉神陽・副島種臣の墓所は「高伝院」にあり、神陽の功績を伝える顕彰石碑があり、説明版もあります。
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 ■南濠の遊歩道には南濠の石垣が移築再現されています。
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 ・南濠より本丸御殿を望む
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 ・亀甲石垣より南濠の桜並木
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 ・南濠桜並木より赤松小学校正門
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 南濠の東端側より望む
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 ☆龍造寺隆信!生誕地 南濠の南、赤松小学校の東側は戦国期、水ケ江城がありました。水ケ江竜造寺氏の居城です。龍造寺隆信は享禄2年(1529年)水ケ江城東館天神屋敷で生まれています。7歳の時に宝琳院で出家しますが、天文15年(1546年)還俗して水ケ江家を継ぎ、天文17年には本家の村中龍造寺家も継ぎ、龍造寺家の当主となり、山城守隆信と称しました。天正年間には五州二島(壱岐・対馬)の太守と言われ龍造寺全盛を築きましたが、天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで戦死を遂げています。
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 ・龍造寺隆信胞衣塚(えなづか):胎盤を納めた塚で、誕生碑の左後方にあります。
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 ☆島原市にある龍造寺隆信供養塔
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島原市にある龍造寺隆信供養塔1.jpg
島原市にある龍造寺隆信供養塔 説明版.jpg
 ☆墓所は、藩祖鍋島直茂公が隆信の菩提寺として佐賀城の鬼門に建立した宗龍寺に有りましたが、明治以降高伝寺に移されています。
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 ■城内・本丸の桜
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 ・鯱の門、石垣に桜
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 ・天守台入口の桜
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 ・天守台より本丸を望む
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 ・本丸より天守台を仰ぐ
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 ・旧赤松小学校跡に復元された石垣土塁
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 ・本丸歴史館西門横にある赤松小学校跡記念碑
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赤松小学校跡記念碑1.jpg 赤松小学校は明治41年4月創立、平成5年に佐賀城本丸歴史館建設により、旧城南中学校跡に移転しています。移転後発掘調査を実施、本丸西側に石垣土塁の遺構が確認され、当時の絵図も参考にして「西側土塁石垣」「南西隅櫓台(亀甲乱積石垣)」が復元されています。


・南西隅櫓台より天守台を望む 左手の緑窪地は堀跡
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 ・南濠より南西隅櫓台と土塁 ここには旧赤松小学校の校舎が有りました。
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 ・整備された二の丸広場
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 ■成美女学校跡の桜
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 ■佐賀高等女学校跡の桜
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 ■万部島の桜 多布施川に石橋が掛かり、静かな花見スポットです。 
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 大濠公園・福岡城址・西公園のにぎやかなお花見とは違い、佐賀城城内は静かなお花見スポットでした。

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春!川上・嘉瀬・多布施川の桜が満開です。 [故郷(佐賀)を歩く]

 ・佐賀県庁 お堀に桜と大楠
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 今年(平成29年)、佐賀の桜は平年より6日遅く、昨年より7日遅い3月30日(木)に開花となりました。満開となりました今週末の8日・9日は市内のお花見スポットは老若男女で賑わっていました。今年、天候にはあまり恵まれず見栄えの良し写真は撮れませんでしたが、懐かしの佐賀の桜スポット!川上・嘉瀬・多布施川の水辺をご案内いたします。
 ■川上峡周辺の桜
  川上川 水上をおよぐ鯉に桜
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 朱色の官人橋 昭和28年(1953年)3月に完成した鉄製トラスト橋。成富兵庫茂安により江戸初期に板橋が架けられ、土橋・コンクリート橋となり大正前までは「勧進橋」と表記されていました。昭和24年の水害で流されたため現在の橋が架けられています。平成21年(2009年)10月から化粧直しの塗装工事を実施、與止日女神社への参道橋でもあり、朱色を3度塗り重ねて新年を迎えています。
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 国道263号、官人橋手前の昭和バス「ユースピア入口」バス停近くに「川上軌道跡碑」あり、大正時代の勧進(官人)橋のパネル写真も埋め込まれています。
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官人橋よりの風景 右手は肥前の国一宮、與止日女神社(よどひめじんじゃ)、左奥に川上頭首工が見えます。昭和35年8月完成、平成19年3月全面補修、機能拡大しています。多布施川の主な取水施設でもあります。
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川上頭首工 1.jpg
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 與止日女神社西門 県重要文化財 室町後期に創建され、今川の戦いで一部焼失し、元亀4年(1573年)に修復再建、昭和48年に大修理が行われています。柱は楠材で創建時のものと伝わります。
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 川上川の風景2点
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 ■石井樋の桜
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 石井樋は現存する日本最古の取水施設です。よく知られていますように成富兵庫茂安より江戸初期の元和年間(1615~1623年)に造られています。昭和35年(1960年)8月、上流に川上頭首工が完成するまで、多布施川の取水口であり、流域の水害防止の役目がありました。その後は水も流れなくなり埋没、昭和38年の大洪水で大井手堰も壊れてしまいましたが、平成17年に石井樋地区歴史的水辺整備事業により復元されています。
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 忠実に復元し更に保護の為、石を積み増した「象の鼻」、手前は「天狗の鼻」。奥の水流は、流れはこれより「川上川」から「嘉瀬川」となります。
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 成富兵庫茂安の功績を讃える「水功之碑」 明治24年建立。碑面の題字は副島種臣の書、碑文は久米邦武(弘道館記念碑の撰者)の撰、書は武富誠修。
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 ■多布施川河畔公園 昭和49年に都市計画公園として決定され整備・維持が図られています。
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 桜に菜の花、レンゲ畑。 画面右奥に医学部
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 長瀬天満宮の桜 天満宮の四脚門は宝永2年1705年造立。社殿造営は永正10年(1513年)、のち鍋島勝茂公により補修との記録が残っています。社殿前の狛犬の形が面白いですよ。
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 ■神野公園 佐賀藩十代藩主鍋島直正公の別邸として弘化3年(1846年)に造られ、別名「神野のお茶屋」。大正12年(1923年)に鍋島家より佐賀市に寄贈され公園となりました。
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 隔林亭(かくりんてい) 別邸の茶室と建てられたましたが昭和35年(1960年)老朽化により解体、20数年後「隔林亭文書」の発見により、一枚の写真と古図を基に平成5年(1993年)に復元されました。見学無料
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 神野公園前の多布施川の桜並木 昭和30年代まで、ここは水泳場でした。神野公園より川向、東北側(西神野)には佐賀競馬場があり、多布施川通りなどの道端には、日常的に馬糞が落ちていました。昭和47年(1972年)鳥栖に移転。
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 ■多布施川の桜並木 佐賀工業高校の先まで並木は続きます。
 昭和橋(大正14年架橋)から多布施川橋梁まで
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 多布施川橋梁と多布施踏切
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 佐賀県立佐賀農業高等学校発祥の地・碑  大井手分水工近くにあります。多布施川と天祐川に分かれる「緑小路」に明治28年佐賀県簡易農学校として開校、県立佐賀農学校となり、大正10年白石に移転しています。創立百周年を記念して平成6年10月建立。
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多布施橋の桜
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 佐賀県立佐賀工業高等学校の東側を流れる多布施川及び多布施川通り
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佐賀工業高校の東を流れる多布施川 多布施川通り.jpg
 多布施川新橋と佐賀藩科学技術研究所(製煉方)跡碑 佐賀藩が嘉永5年(1852年)11月設けた理化学研究所。蒸気機関や電信機の研究にまで多岐にわたりました。記念碑は昭和60年建立
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 「さかえばし」と佐賀藩多布施公儀反射炉跡碑(昭和60年建立)
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 ☆多布施公儀石火矢鋳立所とも言います。石火矢は大砲の事です。嘉永6年(1853年)ペリーの浦賀来航に危機感を持った江戸幕府が佐賀藩に鉄製大砲鋳造を依頼し、ここ多布施に反射炉が築かれました。大砲は江戸・品川に築かれた砲台に備えられました。レインボーブリッジ脚下にある「台場公園」などに遺構があります。
 ■護国神社前の多布施川 昭和57年から毎年7月中旬から8月中旬まで、この辺は遊水場となり子供たちの歓声で賑わいます。
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 神野公園や多布施川の土手を北上し川上まで遠足を経験された同窓も多いと思います。多布施川の川幅は改めてみますと、心なしか小さくなったように感じてしまいます。
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佐賀城内散策!堀端 編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 母校がある城内の周囲、県庁の展望ホールから見える佐賀城の堀端を中心に城内を巡ります。
 平成3年度に「佐賀城公園まち構想」が策定されました。①鯱の門周辺の整備(佐賀城本丸歴史館オープン・東濠の復元整備・NHK佐賀放送局等の移転)、②多布施川の整備、③北濠の堀越道路(平成9年)④西の御門橋の整備(平成21年)、⑤西城内マンション問題(平成13年)により景観ガイドラインを作成です。今日まで、歴史及び文化・水と緑・生活・文教・にぎわいのある街の創生に向けて城内の整備が図られています。
 ・佐賀県庁・・県庁舎は昭和24年2月(1949年)明治以来の庁舎が火災で焼失、昭和25年12月に(1950年)本館が落成。隣接する県警本部移転跡に新行政棟が1期・平成3年(1991年)、2期平成6年(1994年)に竣工しています。行政棟の最上階には展望ホールがあり、市内全域の景色が楽しめます。
(展望レストラン有)https://tabelog.com/saga/A4101/A410101/41000396/
 ■開館時間■ *西高ファイヤーストームが見下ろせます!!
 平日(開庁日)8:30~22:00 土曜(閉庁日)10:00~22:00
          日曜・祝日(閉庁日)10:00~21:00
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 ・県庁展望ホールより・・母校の後方には「雲仙普賢岳」が遠望できます。佐賀城内から有明海を挟んだ真南の位置、雲仙山麓に長崎県雲仙市国見町神代(こうじろ)があります。ここは佐賀藩の飛び地にて、藩祖鍋島直茂の諸兄・鍋島信房を初代とする神代鍋島家が6,263石で統治し、本藩大組頭「家老」の家格でした。
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 ☆・有明の海を飛んで、神代小路(こうじろこうじ)のご紹介
 寛文3年(1663年)神代・第4代鍋島嵩就(たかなり)が佐賀から居を移して、武家屋敷などを整備し、今日まで江戸期の街並みが保たれています。平成17年(2005年)7月、「国の重要伝統的建造物群保存地区」となっています。
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 ・・国見神代小路歴史文化公園鍋島邸 佐賀藩神代領の領主陣屋後に建てられた邸宅で、江戸中期(隠居棟)江戸末期(長屋門)・明治中期・大正期(御座所、書院)・昭和初期(玄関・主屋)の建物5棟は国指定重要文化財。平成の代まで子孫が生活されていましたが、東京在住の当主より平成16年(2004年)敷地は地元自治体に売却、建物を無償譲渡され、平成26年2月より邸内の有料見学(大人300円)ができるようになっています。長屋門は江戸末期の慶応元年(1865年)建築です。
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 正面玄関及び主屋 昭和5年(1930年)第16代当主鍋島佳次郎(外交官・駐ベルギー公使・貴族院議員)の晩年に建築。近代和風建築において九州を代表する秀作。
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 邸内にある境界石柱
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  神代の街並み
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 神代鍋島第4代嵩就の寛文10年(1670年)から造林を始めたと伝わります。嵩就は善政を敷いたことから領民にも慕われ、地元の新村神社に祀られています。
 明治となり版籍奉還で知行地はなくなりましたが、副島種臣などの尽力もあり、一部が旧領主と村に折半で返還されています。その後は江戸期から続く林業で潤っていたことから、旧佐賀藩上級家臣団で唯一今日まで、屋敷を拡大・維持できたようです。地域も豊かであったことから、陣屋周囲の景観が江戸期のまま残されたとも考えられます。
  尚、林業は鍋島林業(株)に継承され、「奥山水源の森」などを所有しています。水源の保全や持続可能な林業経営と「保残木施業」を考案し計画的に間伐していることから、県の展示林に指定されています。
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 佐賀城内に戻ります・・・母校の東側を通る多布施川水辺が整備されています。藩政時代、多布施川は城内へのライフラインであり、清流保全もあり、護岸は「みだれ積み」や「布積みの」技法の石垣で築かれています。また、母校西側の一角(休館した若楠会館の南側)でマンション建設計画が提示されましたが、市(佐賀市土地開発公社)が土地を買い取る(現在は空き地)事で景観保全が維持されています。現在城下の指定地域では建物の高さは基本10m、屋外広告の設置は禁止となるようです。
 母校の敷地は藩政時代、龍造寺四家の武雄及び諫早屋敷でした。また若楠会館から母校敷地周辺は、龍造寺隆信の居城であった村中城址と推定されています。
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母校 校庭東 整備された多布施川より県庁.jpg
  ・・・佐賀駅から中央通りを経て、平成9年(1997年)に北濠に架橋(くすの栄橋)され、佐賀駅末次線が完成しました。この先は県道49号になり佐賀空港に至り、今では市営バスの空港線が運行しています。
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「中央大通り」は昭和39年(1964年)に開通しましたので、「くすの栄橋」の完成までは、通算33年の年月を要しました。元々の計画は昭和6年(1931年)に都市計画街路「佐賀駅中ノ館線」として策定されていますので、それからすると、実に66年もかかっています。
 
☆中央大通りは、戦後の昭和28年に駅前通りの佐銀本店前から貫通道路・郵便局前交差点までの1キロ強で街路新設及び改修工事が始まりましたが、旧城下町の中心部に幹線道路を通す事は、住民や商店街の利害が絡み合い大変時間がかかる事業となり、東京オリンピック直前の昭和39年8月に開通しました。開通式に参加もしくは沿道でパレードを見た同窓の方も多いのではないでしょうか。

 ・更地は商工会館跡地にて、NHK佐賀放送局が平成31年度に新築移転します。中央の緑地帯は旧市庁舎跡。左のビルは佐賀県警本部。
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 ☆佐賀市庁舎は、昭和50年5月(1975年)に現在の栄町1丁目に移転しています。移転先近くにJR佐賀駅が高架となり北100m程移動したのが、昭和51年2月でした。
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 ・北堀端、県警察本部から県会議事堂・母校への道・・現在県警本部建物のある場所は昭和初期「佐賀高等小学校」であり、現在の成章中学校敷地に新築移転した後は、佐賀警察署でした。昭和53年3月高木瀬の国道34号(北部バイパス)に移転新築の後、堀向いより県警本部が移転してきています。県警本部庁舎の左後方に「天山」が望めます。
 ☆県警本部より多布施川の西側は、文化年間の御城下絵図に依りますと「鍋島弥平左衛門」とあります。この時代、先述の神代鍋島家の当主は「弥平左衛門茂體(体)」ですので、ここは神代鍋島家の佐賀屋敷でした。
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  ・・母校の旧正門手前には「佐賀城北の門」があり、現在県議会棟西側歩道に紹介する柱が立っています。
 城内への生活用水を担った多布施川は、北堀と西堀の間の北の御門から城内に引き込まれていました。
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 ・西堀端・・県議会棟前から西御門橋まで、回遊散策路が整備され、見ごたえのある大楠や城濠が楽しめます。
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 ・ホテルニューオータニ佐賀から、西濠と西の御門橋
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 ・堀端西通りから
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 ・堀西通りの護岸工事(佐賀城西堀整備事業)が平成27年度から実施されています。崩落寸前の石積みを解体・修理し、石積み復元が進められています。佐賀城の堀は「四十間堀(約73m)」が基本のようですが、現在この幅は西堀だけのようです。全国の城郭・城址において、佐賀城の堀幅はトップクラスであり、平城防御の要でした。全国各地に城はありますが、佐賀城の魅力は、この保全された「濠」の風情にあります。
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 ・西御門橋より佐大前交差点までの「城内線」が平成21年度(2009年)に開通しています。城内線は水ケ江3丁目から佐大前までの市道改良工事として、昭和37年(1962年)に着工したと聞いていますので、ここも月日を要しています。
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 ・平成24年に1月に「佐賀城西御門と赤石護岸」の説明碑が設置されています。江戸期にあった橋と同じ構造で造られています。
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 ・南濠より西御門橋
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 ・「楠の木おばさん」顕彰碑 昭和25年(1950年)旧佐賀城内の楠20数本が伐採されようとした時、身を挺して伐採阻止行動を起こした「福田よし」は、当時の鍋島直紹知事に楠の保存を訴え、県知事も後援したことから、昭和28年(1953年)県天然記念物に指定され永久保存となりました。
 昭和29年には「県花」昭和41年「県木」に指定されています。昭和55年(1980年)地元自治会が「福田よし」を顕彰して建立しています。
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 ・佐賀城址  佐賀城下再生百年構想のもと、整備が進められています。赤松小学校が旧城南中学校跡に移転し、本丸御殿が平成16年(2004年)に県立佐賀城本丸歴史館として、開館しています。入場無料(寄付歓迎)
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 ・鯱の門前は現在整地され、公園化が進められています。
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 ・鯱の門及び続櫓一棟は昭和32年(1957年)6月に国の重要文化財に指定され、当時は県立佐賀商業高等学校の正門でもありました。
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門の前には、佐賀商業の記念碑があります。佐賀商業 跡碑.jpg 佐賀商業は、明治40年(1907年)に佐賀市立として創立、以前佐賀中学校があった赤松一番地で開校、大正11年(1922年)4月に県立となり、昭和35年(1960年)11月に高木瀬に移転している。昭和52年(1977年)10月、創立70周年を記念し同窓会が建立。平成6(1994年)年8月、第76回全国高校野球選手権大会全国制覇。同校野球部は県下最多の春夏21回甲子園出場!羨ましい限りです。昭和57年(1982年)夏の甲子園初戦で、新谷博投手は9回二死まで完全試合でしたが、27人目の代打に死球を与え、惜しくも夏の完全試合達成はならず、ノーヒットノーランは達成しています。
 


 ・鯱の門に残る、明治7年(1874年)佐賀の役弾痕跡。江戸末期の天保9年(1874年)に本丸再建時に正門として造られています。明治に入り、本丸御殿は藩庁(のち県庁)となり、2月16日明治政府に不満を募らせた士族が県庁を襲撃して、佐賀の役が始まりました。2月23日には江藤新平が西郷隆盛に、28日島義勇が島津久光に助力を得ようとそれぞれ鹿児島に脱出しましたが不首尾となり、短期間で政府軍に鎮圧されています。
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 ・城内からの鯱の門 屋根に鎮座する鯱の製作者は藩御用鋳物師で、幕末反射炉建設運営で活躍した谷口家であり、「治工谷口清左衛門」の刻銘が残っています。
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 ・天守台 享保11年(1726年)の大火までは五層の天守閣がありました。(当時の城下絵図に明記されています。)この点、福岡城の天守閣は天守台は現存していますが、天守閣の全貌はよく判っていませんね。
 全国各地の城郭において天守台は造ったとしても、実際に天守閣は造られなかった例が多いと聞きます。唐津城も実際には天守がなく、観光目的の模擬天守閣が建っています。
 佐賀城は熊本城や福岡城とは違い、沖積平野の軟弱な地盤の上に縄張りがされています。城内は濠を掘った土の土塁で囲われましたが、本丸の天守台などは石垣で築かれました。築城後400数余年が経過していますが、当時の姿を留めています。
 周囲の発掘調査から、地番沈下を防ぐために、石垣の下にはぎっしり松材が敷かれているとみられています。
 戦後の学校などの新築工事で、未熟なくい打ちをして建物が傾いたり、使用不能になった例があったことからも、当時の石積みは佐賀の風土に適合した知恵が生かされたいます。
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 ・天守台へ 天守台の入り口は本丸から直接は登れず、一旦本丸を出て二の丸に向けてあります。城郭マニアが訪れては不思議がっていますね。
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 ・天守台からの眺め
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天守台からの眺め 鯱の門.jpg
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 *協和館 今、天守台は更地になっていますが、平成16年(2004年)佐賀城本丸歴史館開館まで、「協和館」という集会施設がありました(解体・撤去)。元々は、明治19年(1886年)、現在の佐賀郵便局当たりに建てられた県の社交場で、佐賀の鹿鳴館と呼ばれていました。明治27年(1894年)市が買い取り市役所庁舎となり戦後の昭和32年に、郵便局建設に伴い、天守台に移築されました。尚、遡ること明治20年には佐賀県立測候所が天守台に開設されていました。

☆佐賀城天守台発掘調査が平成平成23年から3ヶ年をかけて築城400記念事業として進められました。その結果、創建時の天守閣の概要が判明しています。
①礎石の配列規模から、天守1階は天守台一杯に建てられ(15×13.5間)である。
 天守1階の広さで比較しますと、熊本城(13×11間)、姫路城(13×10間)、小倉城(13×13間)、名古屋城(17×15間)ですので、江戸・大阪・名古屋城に次ぐ全国最大級の天守閣であったようです。あの姫路城大天守より大きかったとは!
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②天守の内部構造は礎石の配列から「書院造」、多数の蝶番が出土したことで窓は「突上げ戸」でした。
③天守外観は、「寛永御城并小路町図」 では屋根に破風がない四重の層塔式天守、その少し前の慶長年間に書かれた「佐嘉小城内絵図」では五層となっています。支藩の小城初代藩主元茂の「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水より小倉城天守の図面提供より慶長14年(1609年)完成とあります。しかし、如水(官兵衛 孝高)は慶長9年3月(1604年4月)には亡くなっていますし、関ケ原後、筑前52万石に移封し、江戸期の小倉城は細川忠興により慶長7年(1602年)から7年間の歳月で築城したようですので、これが真実かどうかは不明とも言えます。只、小倉城同じ「唐造り」の天守であったと推測されていますので、小倉城天守に類似した天守閣だったようです。 ☆小倉城、昭和34年に鉄筋コンクリート構造で天守再建、観光面から史実にはない各種の破風が付加されています。細川忠興築城の天守は、最上階の入母屋破風以外に破風は一切ない造りでした
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 ☆小倉城庭園書院より天守を望む
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 佐賀城天守台発掘調査説明資料https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s36339_20131211105409.pdf 
 ・今は埋められていますが、本丸と三の丸(県立博物館&美術館がある)間にも内濠があり、痕跡が確認できます。
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 ・鍋島直正公銅像 再建! 平成29年(2017年)3月4日、生誕200年記念事業にて銅像再建除幕式がありました。 生誕100周年を記念して、大正2年(1913年)大隈重信候を委員長に、松原神社西側に建立されていましたが、残念なことに戦中時の金属回収令により供出となっています。
 目標の1億円を上回る1億4000万円の募金が集まり、鯱の門北側広場に再建されました。
 銅像は先代と同じ高さの4メートルで、直正公が建設を命じた「反射炉」をイメージした台座に立ち、西を向いています。
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鍋島直正公 銅像と鯱の門 1.jpg
鍋島直正公 銅像 全体.jpg
鍋島直正公 銅像.jpg
  

・南濠 南濠の西側にはハスの群生が見られます。ハスの群生が平成になって一時消滅の危機があったと聞きました。佐賀大学などの調査の結果、最大の原因は外来種の「ミシシッピアカミミガメ」による食害と分かり、地元赤松小校区の住民協力もあり平成22年(2010年)5月から10月までカメの捕獲を展開した結果、今では昔の風景に戻っています。
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 ・8月にはハスの花が咲きます。
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 ・南濠 復元された「亀甲乱積石垣」と土塁。景観を損ねているNHKのテレビ塔も移転で無くなりますから、南堀端から眺める本丸の風景は数年で格段に良くなると思われます。
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 ・佐賀レトロ館 NHK佐賀放送局の前にあるレストラン。明治20年(1887年)警察部庁舎として現在の県庁本館付近に建築され、昭和11年警察本部建替えに伴い、現在地に移設、様々な施設として活用されていましたが、平成21年(2009年)レストランになっています。佐賀城下再生百年構想「二の丸プロジェクト、にぎわい・もてなし」拠点です。
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 ・佐賀城下再生百年構想イメージ図 
   http://www.pref.saga.lg.jp/kiji00313187/3_13187_5_sagazyou.pdf
 ・東濠、一部を復元! 東堀は昭和初期に埋められています。これを平成22年(2010年)から復元工事が始まっています。NHK佐賀放送局と龍谷高校と間です。
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東濠 復元説明版.jpg

 ・好生館 跡 平成25年(2013年)嘉瀬町に移転した病院敷地は更地になっていましたが、平成28年9月(2016年)に4団体複合施設(健診センターなど)の起工式があり、建設が始まっています。敷地は県から佐賀市に約2万3000平方㍍が返還され、跡地北側に健診センター等の複合施設が平成30年1月、中央に市医師会の看護専門学校および南側に「市立休日夜間こども診療所」が平成30年4月に運営開始の予定です。
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 ・佐賀県立佐賀工業学校跡碑 復元され東堀の南端に佐賀城内・裏御門がありました。この裏御門の濠を渡った場所に明治32年(1899年)3月、佐賀県工業学校(佐賀工業高校の前身)が新築移転して、昭和11年(1936年)12月に現在の田布施(現、緑小路1番1号)に移転するまでありました。
 現在、龍谷こども園入り口に、記念碑が昭和52年4月に建立されています。
県立 佐賀工業学校跡 碑.jpg

 ・万部島 NHK佐賀放送局より北に住宅地の路地を進むと「万部島」に出ます。江戸期ここは川に囲まれた島でした。佐賀藩歴代の藩主が建立した。法華経一万部読誦記念石塔群があります。初代・勝茂から11代直大までの11基で、国家安泰・万民安楽を祈願しています。
万部島 法華経一万部読誦記念石塔群.jpg
 ・二基の六地蔵 この地の六地蔵は造立名から室町時代の代表的な石仏です。
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 ・佐賀の役招魂碑 明治7年佐賀戦争での戦没者を弔う碑で、明治18年に西の御門付近に建立、大正9年にこの地に移設されています。毎年4月13日(江藤新平・島義勇以下13名に死刑判決が下り、即日処刑された日)に慰霊祭が行われています。
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万部島 佐賀の役 招魂碑 2.jpg
 ・「亀趺(きふ)」の贔屓(ひいき)は北を向いています。大正8年に特赦令により、江藤・島ら首謀者が赦免され、格式高い招魂碑となっています。
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 ・北濠 北堀端に貫通道路が通され、濠幅は小さくなっています。この濠は別名「筑前堀」と言われています。佐賀城普請時、黒田長政が支援してできた濠でした。返礼として鍋島直茂は福岡城普請時に「肥前堀」を支援しました。明治時代の福岡市内地図では「佐賀堀」となっています。
 福岡城三の丸(裁判所)の東堀から更に東に延び那珂川に通じる堀を作る際、西から「赤坂門」、「薬院門」、「数馬門」を設置し、薬院門(現在の旧大名小学校)までは「中堀」、薬院門から那珂川間を肥前堀(佐賀堀)と呼んでいました。この濠は幅30~35間(60㍍内外)の水堀で、明治43年に産業博覧会開催為に埋められています。
 埋め立てられた堀跡には、大名の飲食街、岩田屋本店・ソラリアプラザ・天神地下街、福岡市役所などがあり、九州を代表する繁華街となっています。
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 ・天神地下街には、「肥前堀」を意図した壁面があります。ご存じでいたか? 天神地下街の7番から8番街の壁面は石垣をイメージした作りになっています。またここの広場は「石積みの広場」と呼ばれています。
 ☆関ケ原後、西軍であった佐賀藩は苦しい立場となっていましたが、東軍の黒田如水の誘いを受け、如水の説得を拒否した柳川城攻めに参戦しています。北進してきた加藤清正も加わったことから立花宗茂は降伏・開城しています(所説あり)。この時、明け渡された城は、成富兵庫茂安が受け取っています。
 「肥前堀」を紹介するブログなどの一部に、「黒田如水(もしくは長政)の口添えで、佐賀藩は関ケ原後の改易を免れた」との記述のみで、「筑前濠」に言及していないのは残念ですね。
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 ・佐嘉神社角交差点と天神西交差点 それぞれ城下の東北角に位置し、藩士の屋敷小路(桝形・クランク)の面影が残った交差点です。佐嘉神社角交差点は貫通道路ができる以前、天神西交差点と同じS字カーブでした。天神西交差点は今でもS字です。路面電車がここを通過するとき、つり革がぐるぐると回り、輪っかがガチャガチャと鳴く情景が思い出されます。今でも地下鉄で、このS字は体験できますね。
佐嘉神社角交差点.jpg
佐嘉神社角交差点1.jpg
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 ・東濠跡 北堀(筑前濠)の東角から南濠へ東堀が有りましたが、昭和初期に鍋島家から払い下げを受け、埋め立てられ、現在では駐車場になっています。駐車場出入り口西側の北堀端には、貸しボートの発着場がありました。先に紹介しました通り、東濠の南側は復元工事が進んでいます。
 現在の市村記念体育館の東側に残る土塁が分断されているところ、城内東の出入口である「東御門」がありました。
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東御門 跡.jpg

 ・宗龍寺 江戸期、東御門から土橋で東濠を渡った先には、鍋島山城(御親類筆頭、白石2万余石)の佐賀屋敷がありました。初代直弘は、初代藩主勝茂の四男にて、まず佐賀城下の治水・城下整備に貢献した成富兵庫茂安の養子となり、成富山城守と名乗っていました。茂安死去後、勝茂から改めて鍋島姓と白石に領地を与えられ、白石に館を構えました。
 隣接して、藩祖・鍋島直茂が龍造寺山城守隆信の冥福を祈る菩提寺の「宗龍寺(宗龍禅寺)」があり、宗龍寺の東向かいは鍋島山城抱地でした。
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宗龍寺 本堂.jpg
宗龍寺本堂入り口では、龍造寺の家紋「十二日足紋」と「杏葉(ぎょうよう)紋」が目に留まります。大友氏の象徴であった杏葉紋は、大友軍を夜襲で撃破した今山の戦勝記念として用いるようになりました。この戦いで最大の功績を上げ、のちに龍造寺氏を継承した、鍋島氏の定紋ともなり、江戸後期には「鍋島杏葉」として変化し本家は「筋杏葉紋」、本家の女性や子供及び分家は「花杏葉紋」となっています。杏葉紋は馬具の装飾品から文様に転じた意匠でとのことです。
 
 ・佐賀市民会館 明治となり、佐賀の役で焼失した三の丸御館が山城守抱え地に移転しました。のちの鍋島11代直大の佐賀別邸「侯爵鍋島家内庫所」です。時代は下り、昭和40年ごろに建物は、武雄の御船山観光ホテル(鍋島越後・武雄領主鍋島茂義の別邸地、御船山楽園)に移築され、現在では「萩野尾園 別邸 内庫所」として宿泊出来ます。移築後、跡地に昭和41年(1966年)4月開館したので、佐賀市民会館でした。
 市民会館は、1031席の本格的な音響・舞台装置を備えた多目的ホールでしたので、母校をはじめ数多くの学校が定演や発表会を開催していました。残念ではありますが、老朽化による耐震強度不足及び改修が現実的ではないとの判断から、平成28年4月より休館となっています。平成元年(1989年)10月、高木瀬(日の出町)に開館の佐賀市文化会館がありますので、閉館も仕方のないことかもしれません。昭和38年(1963年)10月開館で、優良ホール100選の福岡市民会館は現役バリバリです。余談ですが、優良ホール100選には、佐賀県で「武雄市文化会館」が選定されています。
 市民会館は平成29年(2017年)7月から解体工事に着手の予定で、当面は駐車場にして跡地利用を、検討するとしています。
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 ☆市民会館跡地は城内→万部島→佐嘉神社→柳町への観光動線上に位置しますので、明治期・大正期の鍋島家関連で、侯爵鍋島家佐賀内庫所の復元とか、関東大震災で倒壊した永田町西洋館の再現なども、面白いと思うのですが!

 平成18年(2006年)制定の「日本100名城」に佐賀城があります。佐賀県では、名護屋城と吉野ケ里遺跡の三か所で、福岡県は福岡城と大野城の二か所です。これまでの佐賀城は地味な存在と思っていましたが、城内を巡ってみて歴史公園として整備・保存が推進され、新しい発見も多くありました。
 県庁展望ホールから雲仙岳が望めたことから神代鍋島の事を知り、北濠周辺では福岡との意外な縁を知りました。
 これからも、「歴史公園100選」及び「日本の都市公園100選」である城内の整備・充実が進められる事でしょうから、故郷での散策などの楽しみが増えますね。

 ☆「さが維新博」が平成29年(2018年)3月から翌30年1月の10ヶ月間開催されます。
 ホームページがアップされています。https://www.saga-hizen150.com/

☆佐賀城内散策!堀端 編 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 雲仙市国見神代小路歴史文化公園鍋島邸
 ⑦ 角川日本地名大辞典
 ⑧ 福岡市HP、佐賀県HP、佐賀市HP、長崎県HP、雲仙市HP 
 ⑨ 福岡県立図書館 郷土資料室 デジタルライブラリー
 ⑩ 鍋島直正公銅像再建委員会HP
 

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佐賀の与賀神社参道を歩く [故郷(佐賀)を歩く]

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 与賀神社から西に延びる参道は、直線で約1200mほどにて、与賀神社下宮に至り右に曲がるとすぐに昭栄中学校前交差点となり、貫通道路に出ます。参道は江戸期には与賀八丁馬場小路と呼ばれた武家地や、八丁馬場、道祖元町の町人町がありました。また参道筋は天祐寺川沿いに本庄町へと進んでいき,西与賀町の厘外津(りんげつ)に至り、ここから船で諫早に向かえたのですから、佐賀藩専用の「海の長崎街道」でもありました。
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 *与賀(與賀)神社・・神社の境内には樹齢千年以上の楠木があり、有明海に向けて拡大してきた土地開拓の守護神として鎮座しています。三の鳥居は慶長8年(1603年)建立、石橋は慶長11年(1606年)建立、楼門は室町後期の造立と伝わり、どれも国重要文化財となっています。
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 ☆本殿・幣殿・拝殿は(1758年)造立にて、平成25年6月国登録重要文化財に認定されています。
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 ☆樹齢1400年超と伝わる大楠(ご神木)と宝壽森稲荷神社。稲荷神社の石祠に「安永き庚子六月二六日」(1780年)の刻印がある。
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 ☆少弐神社・・與賀神社境内東側に鎮座しています。祭神は少弐政資公(しょうにまさすけ)で、太宰府長官であったが山口の大内氏との抗争に敗れ、佐賀に落ち伸び、先考(亡父)少弐教頼が築いた與賀城(現在の龍泰寺周辺)を文明14年(1482年)修復し居城とした。その時、城の鬼門に当たる当神社を鎮守社としたと伝わる。室町時代の肥前守護職で、竜造寺・鍋島氏は当時その被官でありました。昭和27年、楼門解体修理を記念して当神社の再興と郷土開発の守護神として祀られて現在に至っています。
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 *龍泰寺・・與賀神社の南南西、徒歩で500m程にあります。龍造寺隆信が少弐氏の館跡(與賀城址)に永禄6年(1563年)に菩提寺として建立。本堂は佐賀の乱で焼失を免れた佐賀城本丸の「玄関・式台等」を大正初期に移築したものです。
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 *大隈重信墓所・・龍泰寺山門手前に東手にあります。東京都文京区の護国寺にもあります。大正11年(1922年)1月10日死去し1月17日に日比谷公園での国民葬には、30万人の会葬者が集まったようです。
 ☆大正10年東京都人口:383万人であったことから、大隈候の人気が分かります。また自宅から日比谷公園まの霊柩自動車で行進し、多くの市民が沿道で別れを惜しんだと言われています。
 その半月後、陸軍元帥・首相など明治政府の要職を歴任し、長州最後の巨頭と言われた山縣有朋公が2月1日死去、2月9日に同じ日比谷公園にて国葬が行われたが、民抜きの国葬と言われ、大隈候の葬儀との違いが新聞記事になったほどでした。同じ護国寺にお墓があります。
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 ☆大隈候の県民葬は、遺髪が届いた2月26日に県庁を中心に葬列が巡り市民1万人が別れを惜しんだようです。大正10年佐賀市人口34,744人。
 
 *江頭幾三郎先生之碑・・境内墓地の一角、江頭家墓の隣にあります。碑は昭和6年4月に佐賀成美高等女学校卒業生有志により建立されています。碑文によりますと、江頭幾三郎氏は昭和6年1月3日に病没、75歳。小城中学校・佐賀中学校を経て成美高等女学校校長を歴任、温厚な方で卒業生からの尊敬の表れとして、没後直ぐに顕彰碑が建てられています。
 ☆小城高校の同窓会誌「黄城」では、明治18年3月、小城郡立小城中学校が廃校になった時に江頭幾三郎氏が当時の在学生の為に「黄城義塾」を開設、のちには県立小城中学校設立に尽力されたと、紹介されています。
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 *辻の堂・・與賀神社から北に150m程で辻の堂交差点に出ます。交差点の角には、昭和12年(1937年)に建てられ、今では閉店していますが、木造入母屋造りの角に円筒を配置した個性的な二階家は交差点のシンボルとも言えます。
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 *与賀神社に戻り、参道を進みます。
門より参道を見る.jpg
太鼓橋より参道を見る.jpg
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  *清和高校東交差点(現:与賀神社西入口)・・この地にあった女子高2校は、与賀町交差点よりの県道54号拡幅工事に伴い、それぞれ移転しました。佐賀女子高等学校は、平成25年4月に旧佐賀市営球場跡地に新築移転。清和高等学校も平成26年4月に兵庫北に新築移転しています。
 跡地には、郊外型スーパーと「TSUTAYA積文館書店佐大通り店」が平成27年11月にオープンしています。これに伴い「積文館書店佐賀南バイパス店」は閉店。積文館といえば、多くの同窓は今は無くなった松原の積文館が思い出されるかもしれませんね。
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 ☆県道54号・与賀町交差点から佐賀大学前交差点までの風景は、この数年で一変しています。
 ☆与賀町交差点
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 ☆貫通道路・与賀西バス停より。佐賀女子高等学校(旧:佐賀旭高等女学校)の校舎が見えてたのですが。
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 ☆県道は広い歩道を併設した2車線に拡幅されました。この先は、佐大前交差点で、佐大学舎が見えています。
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 ☆佐大前交差点も大きく変わっています。旧制佐高時代からの正門風景として、梅雨時期の道路冠水が思い出されますが、この点も改善されたのでしょう?
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 ☆佐賀大学美術館:旧佐賀大学と佐賀医科大学の統合10周年記念事業として、平成25年10月に開館。入館無料、月曜日休館。
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 *参道に戻り西に進むと直ぐに二の鳥居があります。慶長9年(1604年)建立。江戸期には鳥居右手に与嘉神社の下宮がありました。
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 ☆二の鳥居手前、左手の小路(泰長院門前南北小路)を南に一寸寄り道。
 *山口亮一 旧宅・・東京美術学校を卒業後帰郷し、久米佳一郎や岡田三郎助らと佐賀美術協会を創設、同協会会長及び佐賀師範学校教諭を務め、昭和42年(1967年)没。旧宅を平成5年(1993年)佐賀市に寄贈されたが老朽化し解体の危機がありました。その後有志による保存運動や寄付が集まり、修復の上平成18年(2006年)開館しています。佐賀平野でよく見られる伝統的な家屋構造「くど造り」、築250年の武家屋敷です。
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 *泰長院・・山口旧宅から右に進むとあります。天文5年(1536年)龍造寺胤久によって建立。第3代住職が鍋島直茂に従って朝鮮の役に従軍の上、通訳事務を担当したことなどから、当時の書状など県重要文化財12巻105通が伝えられています。
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 *古賀精理・屋敷跡・・屋敷跡の説明版が、山口旧宅の先、清町小路にあります。古賀精理は藩校・弘道館創設時の教授であり、学規と学則を定め、藩校の基礎確立に貢献しています。寛政8年(1796年)47歳の時に昌平黌の儒官となり、寛政の三博士の一人と讃えられています。
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 *水月寺・・慶長年間、鍋島直茂が坐禅堂として建立したお寺で、「葉隠」口述者・山本常朝の師である儒学者・石田一鼎の墓があります。
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 *島 義勇 屋敷跡・・水月寺先角を西方向に150m弱進んだところに、清和高校体育館前に屋敷跡碑があります。
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 ☆島義勇は佐賀の七賢人の一人。この人は北海道開拓史初期のキーマンです。明治2年(1869年)11月、開拓主席判官として開拓本府建設の為、石狩の地(札幌)へ。まずは北海道神宮(当時は神社)の御霊代(開拓の三神)を祭る社地を選定し、真冬に雄大な構想力(京都を模した碁盤目区画や道幅100mの大通りなど)をもって都市開発を始めました。しかし、開拓史物資補給船「昇平丸」の難破沈没もあり、食料・建設資材の不足を補うべく当初の資金6万両を使い果たし、更に初代長官・鍋島直正(実務前に体調不良で辞任)の後任・東久世 通禧と開拓予算等で衝突、わずか三か月で罷免されています。
 当時の事を「北海道紀行草稿」に記しています。主に36点の漢詩からなり、現在では貴重な開拓史資料となっています。
 とても短い日々(100日)でしたが、今では「開拓の父」と崇拝され、札幌市役所1階ロビーに侍姿の銅像、北海道神宮境内手水舎の奥にも銅像があり、境内の開拓神社には、鍋島直正公とともに祀られています。また円山公園には、大正期に「佐賀の役」後の名誉が完全回復したことから、高さ8m程の石碑「島判官紀功碑」が昭和4年11月に建立されています。篆額は鍋島直映(12代)によるものです。建立に当たり、3500名程が寄付に名を連ねています。
 円山公園は古くから桜の名所ですが、佐賀の役で斬罪梟首された島を悼んだ開拓判官時代の道案内人・福玉仙吉により、明治8年神社の参道に150本の桜の苗木を植えたのが始まりです。
 北海道神宮の茶屋「六花亭」には、ここでしか食べられない銘菓「判官さま」という「そば入り餅」が売られています。
 ☆島義勇は弘道館に学び、3年間の遊学後、弘道館に勤務、その後に鍋島直正の側近となり、安政3年(1856年)9月、直正の命にて佐賀を出発、萩・津和野などの城下を見聞し(安政三年日記・記述)、安政4年4月から9月にかけて、箱館奉行・堀織部正利煕の調査団に随行し北海道・樺太を探検、「入北記(4冊(雲・行・雨・施)の内、雲以外は現存」を残しています。開拓使主席判官就任はこの時の経験を買われたとみられます。
 ☆七賢人での島の肖像は、不評で新たに北海道大学所蔵の衣冠束帯写真に変わりましたが、明治5年(1872年)3月秋田県の初代権令(知事)就任時、この衣冠束帯で出仕したと伝わります。同年7月には退官してしまいます。八郎潟開発(港及び干拓事業)の為16万両の借入を即政府に申し出、また医学教育の充実のため人材の派遣を当時の文部省に要請しています。しかし、恐らく要請がうまく進まず、明治政府中央と衝突し、今度は自ら退官したのでは!と思われます。秋田においても、「県の基礎を作った人」との評価があります。
 ☆「島義勇伝」:伝記漫画を札幌の(有)エアーダイブが出版しています。 

 二の鳥居に戻り、再び参道を西進します。
 *鶴屋・・二の鳥居の先左手に、寛永16年(1639年)創業にて藩御用御菓子司でもあった「鶴屋」があります。「丸房露」が有名ですね。因みに北島の丸ぼうろは「丸芳露」と表記しています。ポルトガル語の「ボーロ(bolo):焼菓子」に由来する南蛮菓子です。
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 *棚路(たなじ)・・田布施川水系の水路石垣護岸が整備されいます。生活用水を汲む階段施設です。
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 *肥前ビードロ・・嘉永5年(1852年)に設置された精煉方(理化学研究所)が明治に入り佐賀精煉合資会社に発展し、理化学用材から日用雑貨にいたるガラス製品を製造、そこに従事していた副島源一郎が独立創業、明治36年(1903年)道祖元町に工場を移転し、副島硝子工業株式会社として、伝統技法(ジャパン吹きガラス)を受け継いでいます。
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 *専修寺門前の風景・・この辺りは「道祖元町(さやのもとまち)」と言われた町人町でした。明治・大正にかけて、佐賀を代表する伊丹・深川一族の邸宅があり、専修寺の本堂は伊丹文右衛門が改築寄進したもので、伊丹一族の菩提寺でもあります。伊丹文右衛門が母屋を子息・伊丹弥太郎が庭園を完成させたのが、神崎にある伊丹家仁比山別邸「九年庵」です。特に伊丹弥太郎は「九州鉄道」・「九州電燈鉄道」・「東邦電力」の経営に深く関与、戦後それらの会社は、西日本鉄道(株)・九州電力(株)として今日に至っています。
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 *道祖神社・・与賀神社の末社で交通の神を祀っています。神社の説明碑には肥前ビードロで作られた説明ガラスが埋め込まれています。
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 *道祖元町歴史的建物群・・道祖元町は「海の長崎街道」の西の入り口栄えた街とも言え、久保田町から出た深川嘉一郎は海運業で大成し、明治26年にこの地に「地所株式会社(小作地管理・金融業)」を設立、明治期大いに繁栄しています。明治期の住宅である、山下邸・向かい合う二つの竹下邸(元深川邸)・延岡邸(伊丹分家)は歴史的建物群として、佐賀市景観賞を受賞しています。
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 ☆手打ちそば 二八が営業中
 *一の鳥居と与賀神社下宮(御旅所)・・参道の突き当りに、下宮があり、手前に一の鳥居「寛永17年(1640年)」があります。一の鳥居は昭和36年の道路工事前は300m程参道東に立っていました。下宮は大正期までは、二の鳥居近くにあったようです。
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 ☆例祭秋祭(おくんち) 10月第4日曜日
 御分霊が年に一度神殿を出られ、下宮まで氏子区域を台車2台に神輿を乗せて回ります。また、氏子青年団による厄払い獅子が、区域を舞います。
 ☆境内にある佐賀恵比寿神社での「十日恵比寿大祭」(平成29年1月9日・10日)において、佐高27会による特別祈願「エイ・エイ・エイ・オーの打込み」が佐賀新聞で紹介されていました。昭和47年1月に佐賀恵比寿会が発足し、年々盛んになってきているようです。博多区東公園内にある「十日恵比寿神社」の正月大祭では、長蛇の行列にもまれながら参拝する事を思えば、たまには佐賀でお参りも良いのかもしれませんね。
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☆与賀神社参道を歩く:参考文献等
  ① 佐賀市史・久保田町史  https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
  ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
  ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
  ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
  ⑤ 島義勇伝:(有)エアーダイブ
  ⑥ 札幌市役所
  ⑦ 與賀神社
  ⑧ 北海道神宮
  ⑨ 大潟村役場・大潟村百科事典
  ⑩ 佐賀十日恵比寿大祭   http://ebisukai.sagafan.jp/




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佐賀の長崎街道を歩く:「構口から柳町」編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 佐賀市内には、その昔長崎街道が通り、近年その道筋が整備されています。東の構口から西の高橋までの約6キロを、今回歩いてみました。高校生の時には気にも留めなかった「恵比寿像」が道々に点在し、案内板も設置してありますので、のんびりとした散策ができます。
 街道筋は構口から、江戸期の町名でいえば、牛島町・柳町・蓮池町・呉服町・元町・白山町・米町・中町・多布施町・伊勢屋町・伊勢屋本町・点合町・六座町・長瀬町・八戸町を経て、西の出入り口である高橋まで続きます。慶長年間に佐賀城下が整備された際に、城下の北縁に沿って街道を通したことから、20数か所の「曲(まがり)」があり、今日でもそれが確認できます。
 *長崎街道は東の入り口である「構口」から西の入り口である「高橋」まで、佐賀城下の縁を沿うように道を通した為、20数か所の曲がり角がありました。江戸時代の二重鎖国政策もあり旅人の従城下立ち入りを嫌った結果と言われています。また城下の街道筋には、城下を支える商工人が配され、町人町が街道の東西に連なりました。徒歩での往来で栄えた街道筋でしたが、近年の自動車の登場から、構口から高橋までの直線道路が昭和6年12月にまづ構口から工事が始まり、東と西で交互に工事が進められました。牛島橋と材木橋が昭和7年6月同時竣功であることは、最初の工区であった事が石柱からも読み取れます。
 *昭和11年に高橋までの道が完成しました。これが昭和世代が言うところの「貫通道路」です。開通当時は車も少なく、自転車で道路の真ん中を走りながら「貫通道路ツーツラツー」と口ずさんだと言われています。
 *佐賀バイパスができるまでの貫通道路は国道34号線でしたが、現在は辻の堂の先、平成にできた与賀町交差点まで国道264号(江見線)となっています。同国道はここから北に向かい、旧紡績通り・堀江通りを経て、国立病院前立体交差点で、国道34号線(佐賀バイパス)に接続しています。

 *牛島橋・・・「構口交差点」より「貫通道路」に架かる昭和7年6月竣功のレトロ橋
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*紺屋橋・・・「牛島橋」と同時に架けられた。
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 *紺屋橋の陸橋より見る「貫通道路」
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 *材木橋・・・これも昭和7年6月竣功となっています。
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  *牛島橋と材木橋との間には、旧国鉄佐賀線の高架鉄橋がありました。神崎方面から一直線に来た国道34号線は、この先でカーブし市内へと進んでいました。国鉄佐賀線高架はさながら、市内に入る大門の様な雰囲気がありました。高架跡は平成に入り更地にされ、道路(大財六丁目から南佐賀東)が平成25年5月に開通、跡地付近は田代二丁目交差点となっています
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 *バス停に駅名が引き継がれています。
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*構口から柳町のルート・・赤い☆印に恵比寿さんが鎮座
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 *構口交差点角、構口橋方向左手に鎮座
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1)構口橋・構口番所跡
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四角石柱に「ながさき 右」・「こくら 左」刻印。側溝にも駕籠かきの意匠が施されている。
 *道しるべ恵比寿・・構口番所跡に鎮座。先代は傷みが激しく2代目。
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 *街道は、旧JR佐賀線後の新市道を横切り、直進します。
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 *こととい(言問)恵比寿・・お顔が可愛いい。
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 *牛島町公民館・・・街道沿いに時間が止まった木造屋。校区の公民館は循誘公民観が表示されるので、今は役目を終えたのかもしれない。
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 *松亀恵比寿
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 *幸せ恵比寿
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*思案橋・・長崎街道の道筋はカラー舗装となってます。
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 *マンホールの蓋はムツゴロウ!
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 *野中烏犀圓本店 登録有形文化財
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 *説明版
 野中家は「野中烏犀圓」の製造販売を家業とする老舗で、初代源兵衛氏が寛永3年(1626年)に創業した。寛政8年(1796年)に生薬「烏犀圓」の製造販売を藩から許され、その際に建てられたのが現存する町家とされ、「冷善楼」と号される座敷では、藩の役人が薬の検査を行ったと伝えられる。
 広い漆喰壁、正面中央の大破風や看板を吊るす屋形が江戸時代の商家の風情を今に伝えている。佐賀県遺産会議

 *南里邸・・小路の右手。市内で最古の町家と言われ、平成25年佐賀市景観指定重要建造物に指定、修復工事を経て一般公開されています。南里呉服店発祥の地。
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 *南里邸角向い、柳町八丁目の道標。街道はここで左折しています。市内の長崎街道の道筋は城下を迂回する為、随所に道標があります。
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 ☆一寸!寄り道・・南里邸から、道標のある十字路を直進しますと、正保以前の長崎街道に至り、ここを右折して進むと、牛島天満宮です。境内に架かる太鼓橋は宝暦8年(1758年)造立です。
 ・牛島天満宮・・鍋島勝茂公が佐賀城築城に際し、城の鬼門として慶長年間に遷座されています。
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 ☆天満宮本殿
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☆境内の大楠
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牛島天満宮 大楠.jpg

 ☆牛島天満宮から更に北進、循誘小学校の横を通り、十間堀川に出ます。清心橋の先にある清心院は、城の東北に位置し、城の鬼門鎮護の道場として、西北の天祐寺とともに佐賀城の出城でもありました。江戸期の城下図を見ますと、天祐寺から清心院の先まで十間堀川が東西に流れていて、城の外堀だったことがよく分かります。
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 ・清心院・・永正年間(1510年前後)に龍造寺胤家が居館とし、その子斎亮が僧となり、清心院と名乗り、居館を寺として今日に至っています。門前には六地蔵が鎮座しています。
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 長崎街道筋に戻ります。
 
 *さぶとん恵比寿・・台座がざぶとんの様に沈み込んでいる。
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 *たたみ恵比寿・・畳屋さんの角にある。案内柱には「半跏恵比須」とあるが、説明版には「安座恵比須」となっています。不思議!です。
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 *柳町の歴史的建物群のご紹介・・ここは長崎街道沿いに明治から大正にかけて、商業地として繁栄した街でした。佐賀市都市景観条例に基づき、平成11年から「長崎街道・柳町都市景観形成地区」に指定され、建物の修復整備が進められ、街並みが一新しています。
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 *旧久富家住宅・・大正10年、県下でも有数の履物商を営む久富亀一によって建てられています。古民家再生事業として建物外観を保存・リノベーションして、平成27年(2015年)に開館。1階はカフェ・フォトスタジオ、2階は複数のテナントが入居している。白漆喰壁が美しい。
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久富家住宅.jpg

 *旧三省銀行・・明治15年に建築された蔵造商家で、明治の銀行創生期の遺構を残しています。
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 ・「佐賀城下ひな祭り」での柳町
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 ・三省銀行内部の雛飾り
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*旧牛島家住宅・・旧下今宿「佐賀市朝日町」にあった建物を、道路拡幅に伴い、解体移転。明治時代末期の姿に復元しています。
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*森永家住宅と長崎街道名産「富士の煙」製造所跡
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 *呉服恵比寿・・旧森永家住宅前に鎮座する。
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 *旧中村家住宅と八坂神社の大楠・・明治18年建築。古賀銀行開業時の社屋として活用後、明治39年に道向かいに古賀銀行が新築移転後、中村家の住宅となっています。
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 *八坂神社・・初代藩主・鍋島勝茂公により御城の鬼門除と国家太平を祈願して勧請された。
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 *旧古賀家・・平成3年に佐賀市所有、建設当時の姿に復元・・
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*旧古賀家住宅は改修工事の為平成29年8月(予定)まで休館中!但し「第17回佐賀城下ひなまつり」期間中は、有料開館(2017/02/11~03/31)
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 *古賀善橋・・・旧古賀家住宅と旧古賀銀行の裏手柳町高木町の境に、古賀銀行を興した古賀善兵衛の手によって架けられた橋がある。
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 *旧古賀銀行・・平成4年7月に佐賀市の所有となり、建築当初の外内装へ復元を図り大正モダン建築を今に伝えています。
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 *旧古賀銀行・・裏手からは和の風情(瓦葺)も見て取れます。
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 *旧古賀銀行 三景・・ 長崎街道・裏庭・裏手の堀は佐賀江川に通じてます。
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 *馬場家住宅・・鍋島藩の藩医宅で、開業していたと伝わります。18世紀末から19世紀初期の建築とみられ、表の腕木門も同時期と考られています。表構えは他の町家とあまり変わりませんが、家の間取りは武家屋敷に近い構造です。
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 ☆一寸道草!八坂神社と旧中村家住宅との間の小路を南に進みます。
 *成就院橋(明治33年12月竣工)・・八坂神社から肥前通仙亭に向かう小路に架かる。江戸期橋の西北に成就院と盲僧成就院の屋敷があったのが、橋名の由来です。
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 *肥前通仙亭・・佐賀市の地場産品(鍋島緞通、佐賀錦、肥前名尾和紙、肥前びーどろ、諸富家具)及び佐賀のお茶文化と高遊外売茶翁(煎茶道の祖)にまつわる資料を展示
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 *旧福田家住宅・・大正期の近代和風建築
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 *江戸時代の路地案内「通小路」・・
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 *柳町の歴史的建造物は「佐賀市歴史民俗館」が統括し、観光資産として、平成28年4月より、旧森永家と旧久富家が加わり、現在7館となっています。
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佐賀市歴史民俗館 HP http://sagarekimin.jimdo.com/

 *休館 月曜日 9:00 ~ 17:00 入館料 無料
 *無料駐車場あり。周辺は一方通行の為、標識を必ず確認ください。
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 *呉服元町交差点より柳町通りを見る。左手は観光バス駐車場となっています。
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☆故郷では地域再生策として、観光資源の構築・整備を図り、柳町の歴史的な建物群は10年来をかけて充実して来ています。帰省、同窓会参加の折にでも、久々に歩いてみては如何でしょう。
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佐賀の長崎街道を歩く:「呉服元町から白山」編 [故郷(佐賀)を歩く]

長崎街道案内 呉服元町から龍造寺八幡宮.jpg


 柳町から来た道は大財通りの呉服元町交差点を横切り、呉服元町から白山へと進みます。明治・大正時代は江戸時代からの水運の影響も残っていたことから柳町周辺が特に栄えたようですが、昭和恐慌を経て、柳町が疲弊した後は街の中心が西に移動していきます。昭和8年、呉服元町に佐賀玉屋百貨店が開業しました。周囲には多くの銀行も進出し、近くの松原神社北側に各映画館も開館、中小の各種専門店も立ち並ぶ佐賀では一番の通りに成長していきます。
 その後、昭和30年後半には呉服元町から白山までの長崎街道沿線の商店街に約1キロのアーケードが設置されました。佐賀玉屋は昭和40年に新しくできた中央大通りに移転しましたが、昭和41年6月からは「さが銀天夜市」も始まり、佐賀市民が押し寄せる、本当ににぎやかな通りとなりました。この頃は、昭和39年に開業した日祐との効果もあり、商店街・佐賀玉屋・日祐・映画館・復興通り飲食街と回遊型商圏が出来上がっています。
 昭和47年には白山にダイエーが出店し昭和49年に南里本店が新築オープン、昭和54年には窓の梅・寿屋が開業し、これが街のピークであったようです。
 平成に入りモータリゼーションから商業地は郊外型に移って行きます。長崎街道の道幅そのままに発展してきたアーケード街は、自家用車では逆に不便となり、結果平成10年ダイエー佐賀店撤退、対応策としてエスプラッツが同年開業するも平成15年に一時閉鎖(平成19年再開)、平成11年は南里本店閉鎖・寿屋佐賀店撤退・佐賀銀行呉服町支店移転があり、平成17年にはスーパー窓の梅が閉店、日祐の後にできたマルキョーも平成25年に閉店しました。ここは平成28年10月「バルーンミュージアム」として公共施設で再生されました。
 長崎街道沿線の各商店街の振興組合や協同組合はメイン商業施設の閉鎖や空き店舗の増加に伴い機能不全となり、アーケードの維持が出来ず、七夕が毎年飾られた栄光のアーケードも平成22年迄に撤去されています。
 *呉服元町に進む・・・・昔は違う看板だった様な?
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 *晒橋・・・欄干にガス灯が復元されています。軽犯罪者を晒した橋とも言われてます。旧古賀銀行から晒橋までの街道筋は、昭和36年(1961年)まで蓮池町でした。
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 *佐賀藩本陣跡・・・長崎へ向かう大名・旗本・幕府の役人が宿泊。今はマンション!
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寛政末期、この地に住んでいた御用商人、野口恵助の自宅を借り受け、佐賀藩の本陣として使用していましたが、その後、藩は隣接屋敷の買収などを重ねて、ご書院・寝所・御次・家老屯など数多くの部屋を備えた呉服町本陣屋敷がこの地に整備されました。
 
 *開運さが恵比寿ステーション・・元美穂野文具店の空き店舗に平成26年2月オープン。800体以上ある街角恵比寿の情報発信基地。
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 *みちしるべ恵比寿・・ここから街道は北に進みます。
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 *欄干橋・・松原神社の東側に「欄干茶屋」があり、本陣と茶屋をつなぐ橋が架けられていました。道しるべ恵比寿から街道とは反対に南に下った所にあります。橋の先、左手には「モンブラン竹下」・「南里本店」があり、手前には「金ちゃん(うどん屋)」「積文館書店」がありました。写真右手前の深川製磁佐賀店は昭和の姿を留めています。当時、車止めの上にはアーケード入り口の大きな看板があり、アーケードが連なる風景が脳裏にある昭和40年から平成10年代の同窓には不思議な風景でしょう。現在左手前の一角は全て空き店舗で、危険な状態です。
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 *旧佐銀呉服町支店・・昭和9年竣功。当時は佐賀中央銀行、昭和30年7月に佐賀中央銀行と佐賀興業銀行が合併して佐賀銀行となり、その呉服町支店となった。以前はアーケードで全体が見渡せなかったが、今は堂々とした外観が見て取れます。
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 *南里本店跡・・銀行の斜め向かいの風景。一休軒が復活し、サガン鳥栖の公式スポーツバーが平成25年12月にオープンしています。
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 *むつごろう(656)広場・・平成22年6月新生オープン。アーケード撤去に伴い滑りにくい床など改修されています。ここには昭和30年後半まで、協和銀行(現りそな銀行の前身の一行)佐賀支店がありました。写真左手。右手には佐賀大学のまちづくりサテライト「ゆっつら~と館」が平成14年11月にオープンしています。
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 *二階屋に横丁の入り口が今だ健在。
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 *佐賀玉屋旧店舗・ミヤコ佐賀店跡・・今は駐車場。佐賀玉屋があった時、先隣は旧住友銀行佐賀支店がありました。
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 *窓の梅・寿屋跡・・・戦前は食料品が豊富な「窓の梅デパート」、戦後はスーパーとなり、最盛期に2階以上に寿屋が入居しましたが、平成に入り寿屋撤退の後、平成17年に閉店しています。平成25年1月、佐賀県国保会館が跡地に移転新築されました。
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 *この先で街道は西に向きを変えます。来た道を振り返ってみます。
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 *街道は元町に入ります。昭和の道筋にあった高柳楽器や桃太郎玩具店など、多くの商店が見当たりません。ここから街道は拡幅されています。この一角だけは、長崎街道の道幅より自動車での回遊が優先されて、現代風な街並みとなっています。
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 *上林茶店は今も健在。
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 *一寸寄り道、正保以前の古い長崎街道沿いにある願正寺・・山門と格式ある五本線の高塀
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 *参道に「種痘の先駆者 大石良英 墓所」と「振風教校跡・佐賀龍谷学園発祥地」の記念碑があります。
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 *時鐘・・・江戸中期より昭和初めのころまで、町民・市民に時の鐘を鳴らしていたそうです。
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 *願正寺本堂・・・明治16年8月、初の佐賀県議会が開かれ、その後通算7回議会が開催されました。
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 ☆意外と、アーケードのすぐ近くに大寺院がある事を知らなかった同窓も、いるのでは?

 *エスプラッツ白山から北に街道は進みます。
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 *一度頓挫した施設は公共機関が入居し再出発しています。
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 *香蘭社佐賀呉服町元店はモダンな店舗に建て替わっています。
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 *白山商店街にはアーケードが残っています。ここから、また西に向きを変えます。
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 *エスプラッツ白山の鬼門を守る恵比寿さん「長崎街道恵比寿」。
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 *白山商店街、ダイエー佐賀店跡には平成26年4月に「佐賀商工ビル」がオープンしました。
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 *白山商店街通りの南側には、中央大通りより「ハローワーク佐賀」・「佐賀商工ビル」・「エスプラッツ白山」が連なります。
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 *中央大通りの風景・・昭和40年8月に中央橋よりお堀まで開通した佐賀のメインストリート。昨年「中央大通り再生計画」が提示され、今後街並みが変わるとみられます。既に福銀佐賀支店は唐人町(正式は駅南本町)に今年移転しています。
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 *白山恵比寿神社・・・地域の活性化として、平成11年1月本殿遷座祭、2月に落成祭を斎行。商工ビルより右先の鈴蘭橋に向かう「すずらん通り」にあります。
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 *町のお風呂屋さん跡・・白山恵比寿神社から鈴蘭橋を渡った正面に残っています。左右の入口には、「女」・「男」の文字が微かに読めます。
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 *白山商店街出入口・・・・長崎街道はここから中央大通りを横切り、龍造寺八幡宮に進みます。
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 ☆白山商店街・中央大通り出入口の左手に「鍋島更紗の由来」説明版があります。
 説明文・・・・鍋島更紗は古く佐賀に伝わる優美な染織品。
 工房は佐賀銀行白山支店付近にあった。*佐銀白山支店は現在ATM店舗。
 慶長年中、朝鮮出兵から帰国の折り、鍋島直茂が連れ帰った高麗人九山道清が伝えたという。道清はのち九山左衛門と改名、藩の庇護を受け、諸大名や幕府への献上品をつくった。技法は木版ずりと型紙ずりを併用した独特なもので、色染めも精巧を極めた。文様は動植物を図案化したもの、有職文様風、インド更紗風など多様であり、鍋島藩窯の色鍋島や鍋島緞通の文様にも共通するものがある。
 更紗製造は世襲であったが、五代目で男子の血統が絶え、知人の江口半兵衛が継承、半兵衛更紗といわれた時代もあった。その後、漢方薬本舗でもあった江頭兵右衛門が受け継ぎ、明治を迎えたが、存続できず、工房は廃絶した。現在、古い更紗資料は県立博物館に一部コレクションされている。廃絶の鍋島更紗の復元に故鈴田照次氏(染織家)が努力されたことはよく知られている。
 
 *中央橋から中央大通りと白山商店街出入り口を見る。
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 *中央橋より唐人町を見る。・・唐人町では昭和34年に両サイドに佐賀で初めてのアーケードを設置されました。その後佐賀駅が高架となり駅前商店街の機能が希薄となったこともあり、地域再生として昭和60年アーケードを撤去の上、道路拡幅・電柱の地中化などの再生事業を進めましたが、昭和最盛期からの店舗は少なく、多くが入れ替わっています。
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 *市政100周年記念の観光地図モニュメント・・中央橋から北島本店に向かう歩道上にあります。制作年:平成元年11月15日。
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 ☆母校に在学中、同窓は各々、呉服元町から白山までの商店街を幾度となく行き来した事でしょう。書店・レコード・楽器店・電気店及びパーツ店・スポーツ用品店・玩具及びプラモデル店・うどん屋ラーメン屋餃子屋・ジャズ&クラシック喫茶店、洋装店などなど、当時通ったお店の大半は無くなっているように思われます。相変わらず空き店舗の市内中心部ですが、ここ数年で大きな変化も見られ、また今後も再生事業が進められるようです。
 既に佐賀市民ではなくなっていますが、思い出多い地区の再生に、大いに期待しています。
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佐賀の長崎街道を歩く:「龍造寺八幡宮から佐賀護国神社」編 [故郷(佐賀)を歩く]

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 長崎街道は白山から龍造寺八幡宮に辺り、ここからお宮を回り込むルートを進みます。境内には「佐賀八幡宮」と「楠神社」が鎮座しています。
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 *肥前鳥居・・石造りの鳥居で、慶長9年(1604年)佐賀藩藩祖鍋島直茂公の北方藤女が奉納。
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 *朱木の二ノ鳥居の先に、石造りの太鼓橋があります。・・多布施川井樋水路に架かる橋ですが、境内は暗渠になっていて、不思議な風景となっています。
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 *成章校之址・・・・太鼓橋の右手に、学校記念碑があります。昭和12年6月、成章高等小学校同窓生徒有志により建立。同校は明治24年(1891年)市内の明倫・循誘・日新の各尋常高等小学校が統合されて龍造寺八幡宮一帯にて開校、明治32年(1899年)勧興尋常高等小学校と合併の為、閉校。新たに北堀端(昭和50年まで佐賀市役所があった)に「佐賀市立佐賀高等小学校」が発足。
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*楠神社・・・安政3年(1856年)佐賀藩執政鍋島安房(茂真・須古鍋島家・藩校弘道館の学館頭人)が楠公像を遷座し、八幡神社境内に祀り、「楠社大祭」を執行したことが、はじまりとあります。
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 *義祭同盟之碑の台座碑文・・楠神社右手に義士同盟之碑が建立されています。
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 *長崎街道は、神社の裏手の十間堀川沿いに進みます。
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 ☆十間堀川は鍋島藩時代、城下町の外堀の役割も担った川で、当時は十間(18,2m)の川幅があった。
 *街道は神社を回り込んみ、神社の北西と南西の角に道標があります。
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 *ここから紡績通りまでの先、国道264号田布施一丁目南交差点まで直進します。佐賀城下三十三町での「米町」・「中町」・「多布施町」、庶民が暮らす通りを進みます。
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 *大漁恵比寿・・成章中学校南門への道との十字路角に鮮魚店に鎮座してます。
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 *校南橋と校西橋・・・・大漁恵比寿の十字路を北に進むと、成章中学校があります。龍造寺八幡宮にあった「成章校之址」碑にあるように、佐賀高等小学校は北堀端に移転しましたが、火災などで何度も移転を繰り返した市役所再建から、現在の県警本部の地に移り、その後の昭和9年この地に木造総二階建ての新校舎を建設、学校の南と西に橋が架けられました。高等小学校は戦後、第一中学校を経て昭和26年から成章中学校となり現在に至っています。校舎は現在3代目ですが、通学路に架かる橋は80数年後の今も現役です。
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 *十間堀川と校南橋・・大正11年に佐賀市と合併するまで、十間堀川以北は、神野村であった。
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 ☆明治22年の市町村制施行時、神野村役場は、神野・多布施・大財の三大字を行政、合併後、神野町・上田布施町・大財町になっています。
 
 ☆一寸寄り道!
 *八幡小路の武家屋敷門・・長崎街道に並行して、南に八幡小路があり、裁判所の西横に武家屋敷門が保存されています。また、ここは洋画家(美人画が特に有名)の岡田三郎助の誕生地です。
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 *屋敷門の道路を隔てて西斜め前に、久米邦武・佳一郎親子の誕生地の碑があります。久米邦武は近代歴史学の先駆者で、弘道館記念碑や大隈重信誕生地碑の撰文者。佳一郎は洋画家にて、森鴎外と共著で「美術解剖学」を著作している。
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 *街道沿いの恵比寿さん・・江戸恵比寿:寛政5年(1793年)と刻まれています。
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 *文字恵比寿・・・・街道沿いの駐車場の脇に鎮座。「西宮」と刻まれています。
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 *中町(白山1丁目付近)にも「のこぎり型家並」の跡が感じられます。
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 *長崎街道は紡績通りを横切り佐賀城下三十三町の多布施町に入り、拡幅された国道264号多布施一丁目交差点より、左折南下します。
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 *橋(ぜんじゃあばし)・・明和元年(1764年)完成。それまでの土橋が老朽化、資産家・宇野善佐衛門が私費で石橋を架けた。明治33年一部補修。護国神社の西北隅にあります。これより、佐賀城下三十三町の伊勢屋町に入ります。
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 *善佐衛門恵比寿・・橋のたもとに鎮座しています。
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 *護国神社の西口から街道は西に進みます。
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 *護国神社・・戊辰戦争での佐賀藩戦死者78柱を祀るため、鍋島直大が明治3年(1870年)建立。太鼓橋のところは船下りの終着場であり、前の紡績通りには馬鉄も走っていました。太鼓橋は現在通行禁止。
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 *太鼓橋周辺には、棚路(タナジ)も残っていて、田布施川の水辺に下りれます。
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 龍造寺八幡宮から護国神社に至る街道筋には、今だぽつぽつと昭和の風情が残っています。

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佐賀の長崎街道を歩く:「大覚寺から高橋」編 [故郷(佐賀)を歩く]

佐賀御城下絵図でまち歩き 伊勢町から高橋.jpg

 *国道264号伊勢町交差点を横切り、街道を西進して行きます。佐賀城下三十三町での伊勢屋町・伊勢屋本町・点合町・六座町・長瀬町と、八戸町を歩きます。
 ☆鍋島藩祖・鍋島直茂が当時商工業の中心地であった鍋島蠣久の座を佐賀城総普請に際し、移したのが六座町であり、慶長10年(1605年)同じく鍋島蠣久から大神宮を移して伊勢神社を建立、門前町として伊勢屋町(旅籠街)ができ、伊勢屋本町には呉服商が軒を並べ、江戸期の商業の中心でした。六座町の西に刀工などが移り住み長瀬町が生まれ、そこは職人町として江戸期から明治・大正期にかけて更にに発展した通りでもありました。
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 *伊勢神社参道・・街道の景観に沿った建物が新たに立ちました。
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 *大覚寺・・伊勢神社の右手前に位置しています。山門は寛文11年(1671年)に上棟、昭和63年に今の場所に移動しています。
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 *大覚寺の石橋と本堂・・石橋は1672年に架けられた県内最古の眼鏡橋です。
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大覚寺 眼鏡橋.jpg
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 *大覚寺にある佐賀市重要文化財・「木原隆忠の墓誌」と「末代念仏十綬手印」説明版
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 *参道の恵比寿さん・・今は閉店している店先ではありますが、静かに微笑んでいます。
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 *伊勢神社の石造肥前鳥居・・慶長12年(1607年)に造立。この年は、文禄・慶長の役で断絶していた朝鮮通信使が、江戸幕府に初めて派遣された年であり、龍造寺高房が江戸で急死、父政家も亡くなり、鍋島直茂の嫡男・勝茂に龍造寺家の家督を継がせる形で鍋島家に、佐賀藩35万7千石(357,036石五斗九升九合)移行した年です。
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 *伊勢神社・・全国で唯一伊勢神宮の分霊を勧請できた神社です。
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 *石造肥前狛犬一対・・寛文7年(1667年)の造立銘があり、佐賀市内で最も古いものと言われています。
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☆石造肥前狛犬は、小型で静的な造形にて、造りは簡素で素朴なのが大半です。近年、不届者が県内にある肥前狛犬を盗み、ネットオークションに出して捕まっています。小城町の民家跡から盗まれた狛犬は転売が繰り返され、遠く米国ニューヨークに渡っていたことが追跡調査で判明、盗難品である事で無事返還されたとのニュースが今年ありました。
 ☆伊勢神社は、天文年間に信仰厚い杉野隼人が18歳から44歳までの28年間に春秋55回も伊勢神宮に参拝した熱意が認められ、五十鈴川のご神石をご神体として、天文11年(1543年)神崎郡田手に分霊を祀ったのが始まりです。その後鍋島蛎久の遷座し、鍋島直茂公・陽泰院ご夫婦の子授け祈願の月参りが満願、初代藩主勝茂公が誕生したことから鍋島家の信仰さらに厚く、佐賀城下整備に当たり、当地に再度遷座となっています。
 
 *英彦山神社と伊勢恵比寿神社・・石造の恵比寿像は佐賀で最も古い「寛保3年(1743年)」恵比寿さまです。当時、街道筋で繫栄していた伊勢屋町氏子の方々が、お礼にお祀りしました。
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 *長崎街道は、伊勢神社前から道筋が南になり,伊勢屋本町になります。
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 *駄賃小路入口の恵比寿・・寛政5年(1793年)製、この界隈は、旅籠・芸者置屋・料亭・駄菓子屋などの商店が立ち並んでおり、駄賃小路の奥には、幕末・明治に活躍した要人たちが学んだ「純粋社塾」がありました。
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 ☆一寸寄り道・・駄賃小路(町)「佐賀城下三十三町」を散策。

 *真覚寺・・永禄年間(1558~1569年)に創建された寺院で、入口に建つ鐘楼は元禄12年(1699年)に建立されたもので、佐賀市文化財指定。ちなみに、赤穂浪士討ち入りは元禄15年。また、「刀匠初代肥前国忠吉公之墓」があります。
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真覚寺 初代肥前国忠吉 説明.jpg

 *純粋社塾趾・・石井龍右衛門(松堂)が主催した私塾跡。藩校弘道館に学び、その後弘道館教諭に就任、その後体調を崩して職を辞し、私塾を開いた。大隈重信・福島種臣・大木喬任・江藤新平などが、弘道館に学ぶ傍らここでも学んでいます。
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 ☆吉田松陰の松下村塾は安政4年(1857年)から翌5年の短期間でしたが(塾自体はその後も断続的に続く)、純粋社は幕末から明治元年まで続いています。石井松堂は松陰と同じ勤皇思想家ですが、喜怒哀楽が豊かで、大酒のみ、若い藩士たちに人望があり「龍よんさん」と呼ばれ慕われています。明治15年(1882年)没。
 *純粋社塾跡より南進すると長崎街道に出ます。
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 *伊勢神社から街道を100m程南進し、点合町を西に向かいます。
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伊勢屋本町から点合町へ.jpg

 ☆ここを直進すると、伊勢屋本町から西魚町を経て、与賀神社参道に至ります。現在では、貫通道路西魚町交差点に出ます。
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 *点合町から六座町を歩きます。
長崎街道 点合町から六座町.jpg


 ☆一寸寄り道・・成富兵庫茂安、江藤新平が眠る本行寺の案内表示が、街道沿いにあります。
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 *街道から本行寺に向かう道筋は、江戸期において小丹小路と呼ばれた下級武士が住む地域でした。今では住宅地ですが、文化年間(1800年代)の佐賀御城下絵図を見ますと、各々の屋敷を堀が囲み、出入り口だけが小路につながっていました。本行寺は本行寺小路で与賀神社参道とつながっています。
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 *成富兵庫茂安・・安土桃山から江戸初期にかけ,、龍造寺・鍋島氏に仕えた武将。大友氏を撃退した「今山の戦い「元亀元年(1570年)」に12歳で参戦、龍造寺隆信より一字を与えられ、信安と名乗る。豊臣秀吉の薩摩征伐前に、名代として大阪に上がり豊臣方との折衝役を務める。その後龍造寺から鍋島に実権が移ると、鍋島直茂に仕え「茂安」と名乗った。大坂夏の陣まで、数々の戦で武勲を立てるとともに、加藤清正の熊本城・江戸開府時の江戸の町や水路の整備、二条城・駿府城・名古屋城・の築城にも参加しています。そのことから、鍋島直茂が佐賀城下を整備するにあたっては、茂安にすべてを託したと言われています。その後慶長15年から亡くなるまで佐賀平野の治水事業で多大な功績を残していることは佐賀の誰もが知っています。
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 *江藤新平・・下級藩士(手明鑓)出身で弘道館では3歳年上の副島種臣から可愛がられ、実父が職務怠慢で永蟄居の処分を受けると、内生に進めず種臣の実兄・枝吉神陽の私塾に通っている。明治新政府でのライバルとなる大久保利通も、実父がお由良騒動で連座罷免さており、少年期は似たような境遇を経験している。司馬遼太郎は新平を主人公にした「歳月」で江藤と大久保の明治新政府での実務者として似た者同士の相克を描いている。二重鎖国を犯して脱藩・帰藩・永蟄居を経て、幕府が消滅し大政復古の大号令に際し、佐賀藩から副島種臣と共に折衝役として新政府に派遣された。新政府においては近代法治国家の基礎を築いたが、征韓論に敗れ下野し佐賀の乱の首魁に祭り上げられたが敗走、自身が作った写真手配制度で捕まり、大久保より激しく危険視されたことから、梟首とされました。死後鍋島の蓮成寺に埋葬されましたが、明治14年5月に本行寺に改葬されました。墓碑銘は親友で書家でもあった副島種臣によるものです。
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 ☆成富兵庫茂安は新政権である豊臣との交渉役を担い、低山である脊振山系からの河川が少ない佐賀平野での治水に尽力し、江戸期では一揆や水争いもなく、干拓などの新田開発で草高90万石以上と言われた佐賀藩の土台造りに貢献しています。江藤新平も幕府に代わる新政権との交渉役から、その後明治政府での司法の独立を確立し近代国家造りに貢献しました。枝吉神陽が唱える天皇中心の律令制の知識に接していたこともあり、明治2年に帰藩し準家老(着座)として版籍奉還、その後の廃藩置県を見据えた藩の改革を、躊躇なく断行しています。佐賀藩の黎明期に貢献した人物と終焉を主導した人物が、同じ墓地に眠っています。

 *白石鍋島家初代直弘の墓が、本行寺北西奥にあります。初代藩主勝茂の四男、成富兵庫茂安の養子になるが鍋島家に復籍し白石鍋島家の初代となる。死後養父(茂安)の菩提寺に納めるよう遺言したと伝えられています。
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 *天徳寺・・街道に戻ります。佐賀城下初期の町造りで、蠣久天満宮と共に現在地に移さていいます。
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 *大庭雪斎の墓・・医学者にして博学の人。安政元年(1854年)弘道館の教導、嘉永4年(1851年)蘭学寮が創設されると教導となり、学生であった大隈重信に多大な影響を与えた。医学寮が好生館と改称された後も、指導方頭取の要職にありました。明治6年(1873年)没。
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 *北面天満宮・・本殿が北を向いていることから、こう呼ばれています。入口の肥前鳥居は明暦4年(1658年)の銘があり、神門には火除けの龍がいます。
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 *六座町・・江戸初期に佐賀城下町割りで最初に作られた街並みと言われています。六座とは、硝煙座・穀物座・縫工座・木工座・金銀座・鉄砲座からなり、大層な賑わいだったようです。
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*天祐寺川が街道を横切り、道祖元町から本庄方向に流れています。この先街道は長瀬町に入ります。
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 ☆一寸寄り道・・日新小学校の手前から天祐川に沿って北に上がる路地を進むと、天祐寺があります。龍造寺高房の菩提を弔うため、元和元年(1615年)鍋島直茂が建立。佐賀城下北西の出城としての役目もありました。諫早に、諫早龍造寺家の菩提寺で、南北朝期の西郷尚善開基の天祐寺があります。
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 *ここには、からくり儀右衛門の息子(娘婿)の墓があります。佐野常民により佐賀藩に招かれた親子は「精煉方」で働き、佐賀藩の近代工業化に寄与しました。父・久重が久留米藩に招かれた後も佐賀に残り、自前の蒸気船建造に取り組んでいたが、悲運にもアームストロング砲製造開発に苦悩していた秀島藤之助の発狂により惨殺されています。久重は明治なり東京にでて明治8年(1875年)、東芝の源流の一つである、日本初の先進設備メーカーである田中製造所を設立しています。

 *日新小学校、築地反射炉・・鍋島直正は10代藩主に世襲後、藩行財政立て直しの改革を進め、一定の成果を収めたのち、フェイトン号事件以来の懸案であった長崎警備の強化を幕府へ建議しています。許されて、実用反射炉として、鉄製の洋式大砲を鋳造する為に嘉永3年6月(1851年)築造を始め11月に完成させています。4基の反射炉を作り稼働させ、当時佐賀藩領であった伊王島と神ノ島の砲台に配置しています。ペリーが浦賀に来航するのは、嘉永6年6月(1853年)です。
築地 反射炉.jpg
築地 反射炉 と説明版.jpg

 *小学校の東側を流れる祐天寺川・・川の流れで水車を回し動力とし、大砲の砲身をくり抜く錐鑚台(すいさんだい)もありました。
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 *日新小学校より先で左に折れ少し南に長瀬町を歩きます。戦時中に焼夷弾で背中が焦げた恵比寿さんが目印。
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 *左手に西念寺があります。・・幕末、閑叟公の側近として長崎での対外交渉に活躍した伊藤次兵衛の墓があります。
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 ☆伊藤次兵衛は佐賀藩中老です。藩校致遠館教師5人と共にフルベッキと一緒に写った写真が近年発見され、伊藤次兵衛の日記に明治元年10月8日フルベッキと一緒に上野彦馬が撮った事が記述されていますので、撮影日が特定されました。幕末志士の群像写真とも一時言われていた「フルベッキ群像写真」は、同じく致遠館教師5人が写っていることで、藩校の致遠館に岩倉具視の子息2人が遊学した記念に、学生が集って撮った群像写真との説に落ち着きそうです。
 
 *泰教寺・・街道を南に進むと泰教寺があります。ここには鋳物師谷口家の墓があります。谷口家は佐賀藩御用鋳物師であり、反射炉での大砲製造にも貢献、明治期には西洋の近代技術をを取り入れた谷口鉄工所に発展、鉱山用機械や鋳鉄管などを製造し、舶来品を上回る品質で西日本でも有数の鉄工所となりましたが、昭和恐慌の煽りを受け昭和4年に閉鎖されています。
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 *街道の東側に明治・大正期の谷口鉄工所があり、敷地2100坪、職工400名内外にて長瀬町の繁栄を支えていました。
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 ☆福岡県庁のある東公園にある明治37年(1904年)建立の「亀山上皇銅像」と「日蓮上人銅像」は谷口鉄工所が鋳造しています。
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 ☆高さ6メートルの銅像の原型木造は、高村光雲の弟子で博多出身の山崎朝雲の代表作で、筥崎宮の奉安殿に安置されています。
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 ☆日蓮上人銅像の原型作者は竹内久一、台座壁画は矢田一嘯。高さは10,66mもあり、奈良の大仏・鎌倉の大仏に次いで、国内3番目の大きさと言われています。
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 *長崎街道は医院の先から西に進みます。
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 *肥前忠吉屋敷跡・・街道をまたいで、記念碑と説明版があります。文化年間の佐賀御城下絵図に「橋本近江」とある場所です。
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 *忠吉は龍造寺家の家臣橋本道弘の子として生まれ、肥後・山城にて刀作を学んだ後佐賀に戻り、鍋島勝茂より藩工として長瀬町に居を構え、寛永元年(1624年)に武蔵大掾を受領し忠広と改名。息子は近江大掾忠広(二代肥前忠吉)であり以後9代続きました。初代と3代(陸奥守忠吉)は文化2年(1805年)山田浅右衛門による「懐宝剣尺」で最上大業物12工の一人とされ、2代・近江大掾忠広は大業物(21工)としています。忠吉の門人には肥前国住伊勢大掾藤原吉広(初代)がおり、良業物(50工)とされています。
 ☆「懐宝剣尺」は、戦乱がなくなった江戸期において、実際に刀を使う機会がなくなり慶長以降に作られた「新刀」の評価が曖昧になったことから、幕府の御試御用首切り役の山田家5代当主浅右衛門が実際に試し切りをした結果をランキングした書物です。肥前国忠吉9代及び一門は100名を超える刀工を輩出しています。作刀は佐賀県立博物館にて常設展示されています。

 ☆佐嘉神社正面入り口に、日本最初の鋳造鉄製150ポンドカノン砲があります。
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 ☆傍に「日本近代科学技術の曙をつげた草分の先覚者を紹介しています。
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☆藩祖鍋島直茂は朝鮮より有田焼の祖「李参平」を連れ帰り、また刀工忠吉及び鋳物師谷口清左衛門を召し抱えました。江戸期においてそれぞれの技術集団は発展し、10代鍋島直正の築地反射炉及び大砲鋳造で直茂の巻い種が成果をみたとも言え、有田焼の対高熱登り窯レンガは反射炉の耐火煉瓦に活かされ、刀工・鋳造一門はカノン砲を造りあげました。

 *更に歩くと、佐賀市重要民俗文化財の道標があります。1 面に「ながさきへ、こくらみち」と 2 行に、もう 1 面には、「いさはやとかいばへ」(諫早渡海場へ)と刻まれています。
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 *長崎に向かうには、西与賀の諫早渡海場から船で諫早・本明川河口の光江津に渡り、そこから長崎に向かうルートもありました。

 *これから八戸に進みます。八戸は佐賀城下の西端の郷宿で、古宿・新宿・高橋を合わせて八戸宿と呼ばれていました。
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 *北島邸・・明治期の建築様式を多く残す町屋建築。鯰橋から先が八戸宿です。
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 *のこぎり型家並み・・敵の攻撃を防御するためとか、荷車を置くスペースを確保するためとか言われています。
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 *枝梅酒造・・のこぎり型家並みの一角を占る造り酒屋の「枝梅」は平成23年(2011年)廃業しましたが、佐賀市が敷地の一部を買い取り、建物は無償譲渡の予定にて、トイレと休憩エリアや駐車場を整備する事が決まりました。高橋に至る街道筋に現在トイレ休憩施設がなかったことから、今後が期待できます。
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 *久保薬局屋根看板・・佐賀藩御用の製薬販売から明治になって、一般向けにも販売するようになって掲げた看板が、今も残っています。
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 *街道はのこぎり型の道並が続きます。
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 *龍雲寺・・葉隠の口述者・山本 常朝及び一族の墓があります。ここは室町時代から戦国まで八戸一帯を支配した豪族於保氏(八戸氏)の館跡であり、山本常朝は末裔と言われています。
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☆山本常朝(じょうちょう):万治2年(1659年)~享保4年(1719年)61歳、2代藩主光茂に仕え、石田 一鼎の教えを受け、京都御用時には三条西 実教より古今伝授を得ている。主君の死後出家し隠遁、宝永7年(1710年)より田代 陣基へ武士としての心得を口述「葉隠 11巻」しています。5代将軍綱吉とほぼ同じ時代を生きた人です。

*龍雲寺の先に地蔵橋があり、地蔵が鎮座しています。
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 *宝暦6年(1756年)長瀬町の鋳物師谷口左衛門による銅製の地蔵が鎮座しましたが、昭和19年供出、昭和29年に八戸の有志により石像で再建されています。
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 *国道208号の環状西通りを渡ります。
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 *長安寺・・刀匠橋本新左衛門忠吉(肥前忠吉)の2代目から9代目までの墓があります。
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 *長安寺の先に現役の「丸形庇付ポスト」があります。15時に郵便回収。
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 *八戸窯恵比寿・・恵比寿像は敷地の鬼門に当たる北西に置かれますが、例外もありますね。
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 *江藤新平誕生地を示す看板が「高く」掲げられています!要注意。街道はこの先にクランク「桝形道路」があり宿場町の出入り口の特徴が残っています。
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 *街道から北に200mに誕生地の説明版があります。周囲にはまだ田園風景が残っています。
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江藤新平誕生地 田園風景.jpg

 *のこぎり型の道筋を高橋へ歩きます。
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 *井手邸(2011年・佐賀市景観賞)・・呉服商であった町屋を平成21年にリノベーションされています。(個人宅)
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 *高橋・・佐賀城下の西端に当たります。東の構口と同じく番所がありました。
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 *新旧の高橋・・長崎街道の「高橋」は慶長年間に架けられています。現在は平成2年7月に歩道橋として竣工、貫通道路の新「高橋」は平成元年10月に架け替え竣工しています。
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 橋を渡ると、街道はまたクランクして、現在の国道207号と同じ道筋で扇町から嘉瀬町に進んでいきます。
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