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徐福サイクルロードの桜並木!満開です!! [故郷(佐賀)を歩く]

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 1991年に廃止された旧国鉄佐賀線跡の約5キロが歩行者および自転車専用道として整備され、春は桜並木が美しい道になっています。
 2019年4月1日、南佐賀駅跡から光法駅跡を歩きます。


■ 徐福サイクルロード 入口 ■
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■ 南佐賀駅 跡 ■
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■ 南佐賀駅 駅舎とホーム ■
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■ 桜並木より南佐賀駅跡 ■
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■ サイクルロードの桜並木 ■
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桜並木 道端の黄色い花.jpg

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桜並木に自転車と歩行者 2.jpg
桜並木 道端の白い花.jpg

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■ 光法駅跡 ■
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 徐福サイクルロード入口から光法駅跡まで約1.7㎞を往復しました。光法駅跡から諸富駅跡までは約2.5㎞となっています。

**付録**

■ 大隈重信記念館 ■
大隈重信記念館 桜.jpg
大隈重信記念館 生家と桜.jpg

■ 佐賀城址 鯱の門 ■
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佐賀城址 鯱の門 2.jpg

■ 佐賀県庁 ■
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■ 母校旧正門 ■
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■ 多布施川 ■
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多布施川 桜アップ.jpg


*佐賀市内、桜の名所PV!

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肥前さが 幕末維新博覧会 開催中! [故郷(佐賀)を歩く]

 明治維新150年を記念して、佐賀市内を中心に開催されています。

*肥前さが幕末維新博覧会 公式HP https://expo.saga-hizen150.com/
まずは、中央通りで展開されている「さがの偉人を巡る・モニュメント」をご紹介。
■ 幕末・明治期に活躍した郷土の偉人たち ■
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JR佐賀駅から佐賀郵便局前までの中央通りに幕末から明治にかけて活躍した強度の偉人たちのモニュメントが置かれています。155~180センチの等身大アルミ製で、重さや各50キロ前後です。
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☆駅前まちかど広場・・駅前交番西交差点には幕末・明治に活躍した賢人のモニュメントが出現しています。
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:名君・鍋島直正を支えた賢人たち
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・古賀穀堂( 1777-1836 )・・藩主直正の教育担当。意見書「最急封事」を持ち、藩主直正に語りかける53歳頃の姿。
・鍋島茂義( 1800-1862 )・・武雄領主。積極的に蘭学を導入する30歳頃の姿。手には天球儀!。
・鍋島直正( 1814-1871 )・・藩主となり藩政改革を推進する17歳頃の姿。
 
:弘道館で学んだ若き日の賢人たち。18歳頃の同い年3人。力強い表情で島義勇、佐野常民に語りかける枝吉神陽。
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・枝吉神陽(1822-1862)・・「義祭同盟」を結成し、多くの人に影響を与えた。
・島 義勇(1822-1874)・・北海道開拓の父。
・佐野常民(1823-1902)・・日本赤十字社の基礎を築いた。

*親友の大木喬任と語り合う19歳の江藤新平。大木は個性的な長袴姿で、愛読書「資治通鑑」を持つ!
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・江藤新平(1834-1874)・・司法制度の基礎を築いた初代司法卿。
・大木喬任(1832-1899)・・近代教育の基礎を築いた初代文部卿。

*弘道館で学ぶ大隈17歳の姿!拳を握りしめ、高い志を抱く!副島は弘道館の班主を務めた21歳の姿。杖を片手に凛々しい表情。
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・大隈重信(1838-1922)・・早稲田大学の創設者。
・副島種臣(1828-1905)・・「正義の人」として評された外務卿。

☆佐賀銀行本店前 日本の近代建築の先駆者!辰野は建築家の必需品、T定規を持つ姿。曾禰は設計図を片手にベンチに座る姿。
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・辰野金吾(1854-1919)・・日本銀行本店、東京駅を設計。
・曾禰達蔵(1853-1937)・・慶応大学図書館や丸の内のオフィスビル街を建築。

☆唐人町まちかど広場 明治を代表する書家。愛用の立ち机で、富士山頂に銅碑を建立した書「鎮國之山」を書く姿。
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・中林梧竹(1827-1913)・・明治三筆の一人。

☆唐人町二丁目信号近く 青年教育に尽力した社会教育家。田澤は青年教育について熱く演説する姿。下村は青年教育に従事する49歳頃の姿。手には田澤の障害を描いた著書。
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・田澤義鋪(1885-1944)・・青年団の父。
・下村湖人(1884-1955)・・「次郎物語」の著者。

☆中央橋信号、唐人プラザ前 日本の工学・化学分野の先駆者。志田は、愛用の電子検流計を持つ33歳頃の姿。黒田は、理化学研究所で紅花色素の研究を行う40歳頃の姿。
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・志田林三郎(1856-1892)・・日本の電気工学の祖。
・黒田チカ(1884-1968)・・日本初の女性科学者。

☆白山アーケード出口向かい 日本を代表するお菓子メーカーの創業者。森永はミルクキャラメルを発売した49歳頃の姿、手には当時のミルクキャラメル。江崎は栄養菓子グリコを発売した40歳頃の姿、手には当時のグリコ!
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・森永太一郎(1865-1937)・・森永製菓の創業者。
・江崎利一(1882-1980)・・江崎グリコの創業者。

☆松尾建設本社前 近代医学の基礎を築いた医者たち。伊東は種痘道具の針とシャーレを持つ姿。相良は蘭医ポードインに学ぶ18歳頃の姿、手には専門分野の蘭書!
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・伊東玄朴(1801-1871)・・近代医学の祖。
・相良知安(1836-1906)・・日本にドイツ医学を導入。

☆佐賀バルーンミュージアム前 知的障がい児教育・福祉の先駆者。知的障がいのある子どもたちを優しく微笑みながら迎え入れる二人の姿。
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・石井亮一(1867-1937)・・知的障がい児教育・福祉に尽力
・石井筆子(1861-1944)・・亮一の妻、大村出身。亮一の死後、意思を引き継ぐ。

大通り駐車場前 大企業へと発展させた実業家。中冨はサロンパスを発売した58歳頃の姿、手には当時のサロンパス。市村は二眼レフカメラ「リコーフレックスⅢ」を発売した50歳頃の姿、手には当時のカメラ。
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・中冨三郎(1876-1957)・・久光製薬の基礎を築いた創業3代目。
・市村 清(1900-1968)・・リコー三愛グループの創業者。

市内のメイン通りに25体の偉人モニュメントが配置されています!!
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肥前さが 幕末維新博覧会 県庁編 [故郷(佐賀)を歩く]

県庁旧知事執務室と旧来賓室等を「県庁CLASS」として公開されます。 (県庁旧館2階南側)
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■旧知事執務室
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■旧来賓室
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■レクチャースペース
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■旧館2階ホール
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■旧館玄関ホール
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■県庁展望ホールよりの眺め 新行政棟東側に展望ホール専用エレベーターがあります。
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■東■
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■南■
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■西■
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■北■
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*県庁展望ホールが20時以降に幻想的なアート空間に変わる「アート県庁プロジェクト」展開中
アート県庁プロジェクトHP:https://saga-art.jp/

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肥前さが幕末維新博覧会 街中の風景 [故郷(佐賀)を歩く]

佐賀市内の主要な建物が、幕末維新博覧会の会場になっています。
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*ながさき幕末維新館「佐賀玉屋ビル1階」
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ながさき幕末維新館HP:https://expo.saga-hizen150.com/venue/nagasaki/

*佐賀バルーンミュージアム(肥前佐賀の菓子文化展開催中)
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佐賀バルーンミュージアムHP:

*徴古館・・鍋島家伝来品で見せる「幕末明治の鍋島家~大名から侯爵へ」展を開催中。
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・徴古館HP:http://www.nabeshima.or.jp/

*弘道館記念碑・・徴古館の西側にあります。
弘道館記念碑.jpg・10代藩主鍋島直正は、二の丸消失を逆手に取り藩政を掌握し、財政改革を進め、同時に本丸再建(1835年)を表明、また藩校弘道館の拡張を図り、古賀穀堂の「学政管見」に準じ藩士の子弟全てを学ばせ、門閥に関わりなく優秀な人材を藩政に登用するとした結果、幕末・明治に活躍する賢人たちを数多く輩出しました。
北堀に移転した藩校は、現在の中央郵便局及び徴古館あたりにありました。
現在、柳町の旧古賀家住宅が藩校を紹介するテーマ館「リアル弘道館」として、伝説の藩校体験が出来ます。


*幕末維新記念館(市村記念体育館)大人¥800
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・会場入口前(昭和には円形噴水があった位置)に幕末佐賀藩の技術力の象徴が鎮座。
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(注)当時製造された大砲の残存例が未確認の為、1820年頃にアメリカ製輸入の品で、東京渋谷の旧鍋島邸に置かれ、現在は戸栗美術館所蔵を原型とした複製品です。

・「キングダム」作者:原泰久(基山町出身)が鍋島直正のイラストを制作
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・肥前さがFAN 原泰久のページ:

*鍋島直正公像が鯱の門横に73年ぶり(平成29年3月4日)復活。
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鍋島直正公立像 正面.jpg
鍋島直正公立像 拡大.jpg
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築地反射炉絵図レリーフ.jpg・台座は実用反射炉の「築地反射炉」をモチーフにて、周囲に直正の業績を紹介する銅板レリーフが配置されています。銅像は高さ4㍍で、台座を含めた高さは約8.5㍍の堂々たる記念像となっています。



*佐賀城本丸歴史館
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・24ポンドカノン砲(複製)幕末維新記念館前と同じ。
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・御玄関・出入口横に9ポンド・アームストロング砲の模型を展示。
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・幕末佐賀藩で製造を試みていますが、完成したかは明らかではありません。長崎のグラバー商会から輸入したアームストロング砲を使いこなしていた佐賀藩は、戊辰戦争で上野彰義隊を壊滅させ、奥羽に転戦して大いに戦果を出したことから、維新の雄藩として薩長土に続き「肥」が加わったとも言われています。

・臼砲(モルチール砲)・・青銅製でオランダより輸入し長崎の砲台に備え付けられていた記録があります。口径29センチ、全長87センチ、重量1200.5kg。
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・「冠軍・蓮池」銘 支藩の蓮池藩が所有、オランダ製臼砲を模造したとも考えられています。口径、全長はオランダ製と同じで重量が1134.5kg。
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佐賀城本丸歴史館HP http://saga-museum.jp/sagajou/

*南堀の蓮・・6月下旬よりぼつぼつ咲き始めています。満開は7月中旬か?
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南堀の蓮 紅蓮.jpg
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・外来種のミドリガメやブルーギルなどの食害で全滅の危機にあった南堀の蓮は、「ハス再生実行委員会」の活動など市民参加で再生が続けられています。

*ユージアム サガ(さがレトロ館)・・有田焼などの器で佐賀の味が楽しめます。
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ユージアム サガ特設HP: https://www.useumsaga.jp/

*東堀整備・・昭和3年に鍋島家より寄付された東堀はその後埋め立てられましたが、「佐賀城下再生百年構想」として一部復元されています。
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■街中歩きをしていますと、水ケ江界隈で昭和の面影に変化がありました。

*水ケ江の旧好生館跡地・・南側棟は佐賀市医師会立看護専門学校(平成30年4月移転開校)・休日夜間こども診療所・休日歯科診療所、北側棟は佐賀メディカルセンタービルとなっています。
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・「閑叟公と種痘の像」旧好生館跡に再設置。
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・旧好生館中庭にあったものです。天然痘の流行を危惧した10代藩主直正(隠居後・閑叟)は藩医の楢林宋建に牛痘の入手を命じ、長崎出島のオランダ医師オットー・ゴットリープ・モーニッケが宋建の息子に痘苗を接種し(1849年・嘉永2年)成功、好生館で淳一郎(11代直大)に侍医の大石良英が種痘したことを記念する像です。

*佐賀市民会館跡が更地!!
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・平成28年3月で閉館した佐賀市民会館は、更地になり敷地の約4800㎡の内2800㎡を民間に売却され来年には医療福祉施設棟が完成予定です。他の敷地は市営駐車場として活用。

・閉館後の市民会館(平成28年11月下旬撮影)
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・新道商店街の案内版・・通りの名称も今後変わるのかな?「市民会館通り」と「県病院北通り」と表示。この界隈は昭和30年・40年代は賑やかな商店街でした。映画館の「朝日館」もあり、貫通道路には大映もありましたね。
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*一休軒があった一角も更地に!
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*水ケ江交差点そばの寿通り商店街も更地に!!建物の老朽化と店主の高齢化もあり、平成29年6月閉鎖。
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寿通り商店街 跡地 片田江バス停.jpg
・寿通り商店街(平成29年6月撮影)L字の商店街で貫通道路と大財通りに出入口がありました。
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寿通り商店街 大財通り.jpg
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■肥前さが幕末維新博覧会、街歩きに戻ります。

*南里邸・・「世界を見ていた佐賀の人」「佐賀に縁のある女性」の企画展を開催中
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*リアル弘道館(旧古賀家)・・藩校「弘道館」の学びを体験!
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・明治17年に建てられた実業者の邸宅ですが、武家屋敷の風情もありますので、座敷を「弘道館の教室」に模しています。・リアル弘道館紹介ページ:https://expo.saga-hizen150.com/venue/kodokan/

*葉隠みらい館(旧三省銀行)・・現代に生きる「葉隠」の魅力を体験。
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■柳町・長崎街道筋の町並み整備が進んでいます。

・旧久富家住宅
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旧久冨家住宅 正面.jpg
旧久冨家住宅 中庭より.jpg
佐賀市歴史民俗館・旧久富家紹介ページ:https://sagarekimin.jimdo.com/%E6%97%A7%E4%B9%85%E5%AF%8C%E5%AE%B6/

・旧牛島家(左手家屋)、旧森永家(手前家屋)
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旧森永家住宅 内廷より.jpg
・佐賀市歴史民俗館・旧牛島家紹介ページ:https://sagarekimin.jimdo.com/%E6%97%A7%E7%89%9B%E5%B3%B6%E5%AE%B6/
・佐賀市歴史民俗館・旧森永家紹介ページ:https://sagarekimin.jimdo.com/%E6%97%A7%E6%A3%AE%E6%B0%B8%E5%AE%B6/

・旧古賀家住宅と旧古賀銀行の間の小路から
旧森永家住宅 と旧古賀銀行との間の小路.jpg

・八坂神社の大楠
八坂神社 大楠.jpg

・旧古賀銀行
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・佐賀市歴史民俗館・旧古賀銀行紹介ページ:https://sagarekimin.jimdo.com/%E6%97%A7%E5%8F%A4%E8%B3%80%E9%8A%80%E8%A1%8C/

*オランダハウス(旧佐賀銀行呉服町支店)・・オランダのクリエーター6人の作品を公開。
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オランダハウス 佐銀呉服町支店 ファサード.jpg
・内部にはまだ金庫があった!
オランダハウス 佐銀呉服町支店 金庫.jpg
・オランダハウスHP:http://hollandhouse-saga.com/
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・アーケードが無くなり、佐賀を離れた同窓には馴染みの薄くなった呉服町商店街入り口の風景。明治期に建てられた深川製磁佐賀支店は健在。
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*JR佐賀駅北口ロータリー、反射炉モニュメント。昭和50年12月12日建立。
一冊の蘭学書を基に、独学で耐火煉瓦製造から初めて約2年の1852年(嘉永5年)7月、試行錯誤すること14回目にして、実用大砲が完成しています。
反射炉モニュメント.jpg
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・出来上がった鉄製大砲は、長崎の佐賀藩領であった伊王島及び神ノ島の新台場に設置されました。ロシヤ使節プチャーチンが艦隊四隻で長崎に翌年の7月に来航した際には、新たに佐賀藩構築した新台場に設置した大砲の砲列に驚き、交渉には紳士的であったようです。6月の浦賀に来航したアメリカ使節のペーリーは、浦賀奉行の長崎回航を求めを拒否し、江戸湾に進入しています。長崎の防御が高められたことを知っていたのかもしれません。
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■肥前さが幕末維新博覧会は開幕から2ヶ月あまりで総来場者数が50万人に迫る勢いです。期間目標は100万人とのことですが、達成は見えてきているようです。
 できるだけ県外の方々に来て頂きたいものです。もちろん!同窓の皆様は一度は行って下さいませ。
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2017サガ・ライトファンタジー [故郷(佐賀)を歩く]

今年で29回目となる「サガ・ライトファンタジー」が開催中です。
開催期間:2017年10月31日(火)~2018年1月8日(月・祝)
点灯時間:17時 ~ 24時
光の総数:LED電球 約180万個

*佐賀市内中心市街地の活性化を目的に毎年開催されています。シンボルロードを中心に主要箇所のスポット電飾、沿線店舗による自主電飾、企業協賛による電飾及び市民参加による電飾があります。

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*会場マップ
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■ 年末年始で帰省した時の故郷の写真を募集しています!! ■
福岡栄城会HPメール・アドレス eijo.fukuoka@gmail.com 


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佐賀の七賢人「島 義勇」の蹟を訪ねて (Ⅰ) [故郷(佐賀)を歩く]

 佐嘉神社への鳥居を進んだ右手に「佐賀の七賢人」の石碑があります。
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 幕末から明治初期に活躍した10代藩主鍋島直正(閑叟)公、弘道館出身の大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇、副島種臣の七公を顕彰しています。その中で、衣冠束帯姿の写真は鍋島直正と島義勇ですが、奇しくもこの主従は北海道開拓において先駆け的貢献を果たしています。
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 9代鍋島斉直の文化5年(1808年)におきたフェイトン号事件で長崎警護の失態を幕府から責められ、外国の脅威を実感した佐賀藩は次の10代直正になって藩の近代化を促進させました。8代治茂は井伊家より姫を娶ったことから、当時の鍋島家と井伊家の結びつきは良好で、更に鍋島正直と井伊直弼は同じ年だったこともあり交際を深め、日本を取り巻く外国勢への危惧を共有していたとも言われています。
 井伊直政が大老となった翌年の安政6年(1859年)、井伊直弼の推挙により鍋島直正は「中将」に任じられています。それまでの藩主の多くは従四位下侍従。8代治茂が従四位下 肥前守 左近衛権少将まで進んでいます。同年長崎海軍伝習所閉鎖でオランダより寄贈の蒸気練習艦「観光丸」が佐賀藩預りとなり、三重津で運用されています。桜田門外の変で直弼の死により頓挫しますが、直正はこの時期に天領の天草を佐賀藩預りにして、そこに軍港を作ることを陳情しています。
 
 時代を少し戻します。安政3年12月21日、これまで幾度となく交渉が続いた日露和親条約が締結。箱館、下田、長崎がロシアにも開港しました。長崎で対露交渉が続けられていたのを見聞していた直正は、開港した箱館に注目し、更に北方防衛にも危機感を持っていたようです。
 そこで直正は、安政3年(1856年)近習の島義勇に蝦夷地の探索を命じます。
 今回は、島義勇にスポットを当て、藩主直正や幕末・維新期に活躍した多くの藩士の蹟も併せて、巡っていきたいと思います。

 島義勇は文政5年(1822年)9月12日、佐賀藩士島市郎右衛門の子として、佐賀城下の精小路に生まれています。
 *佐賀清和体育館敷地が明治期、島義勇の屋敷地と伝わっています。
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 8歳で藩校弘道館に入学しています。併せて、従兄である枝吉神陽に皇漢学を学んでいます。
 神陽は、東の藤田東湖と並び称される国学の権威であり、「日本一君論」を提唱し、藩内の思想をリードしていました。
 弘化元年(1844年)23歳で弘道館を卒業して、家督を相続しています。その後、諸国遊学にて、熊本の林 桜園、昌平黌の儒官(総長)佐藤 一斎、水戸学の藤田 東湖などに学んだと伝わります。
 特に藤田東湖の水戸藩は蝦夷地探検家の間宮林蔵や松浦武四郎の後援者と目されていて、島義勇は藤田東湖との交流で、蝦夷地の概要を習得したとも言われています。
 弘化4年(1847年)26歳で帰藩して鍋島直正の外小姓、弘道館目付けとなります。
 嘉永3年(1850年)義祭同盟発会式に参加しています。枝吉神陽、実弟の枝吉次郎(副島種臣)、島団右衛門(義勇)、大木幡六(喬任)、木原義四郎(隆忠)らが参加していいます。これ以降、毎年5月25日に行われて、江藤又藏(新平)、中野眞七郎(方藏)、大隈八太郎(重信)、久米丈太郎(邦武)、鍋島茂眞(直正の兄で須古鍋島家を継ぎ、25年間本藩執政、弘道館学館頭人に就任し、藩校教育に力を入れた。)、鍋島直嵩(白石鍋島家・本藩家老 請役所総裁)らも加わっている。
 *龍造寺(佐賀)八幡宮境内の楠神社前に顕彰碑があります。
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 鍋島直正から島義勇は安政3年(1856年)蝦夷地探索の直命を受けます。下命はロシアの南下策に対応するため、ロシアと接する蝦夷地の現状調査と箱館における佐賀藩交易の根回しであったようです。
 
 *前年の安政2年(1855年)7月25日、鍋島直正は長崎にてオランダ蒸気船ヘデー(ゲデー)号に乗船、佐賀藩精錬方では蒸気車や蒸気船の雛形の製造に着手、また多布施反射炉で鋳造した大砲を品川台場に据え付けています。長崎防衛、藩政改革が軌道に乗り佐賀藩の近代化を推し進めると同時に、正直は蝦夷地にも目を向けていました。直正はそれ以前にもオランダ船バレンバン号に乗船したことがあります。
 *弘道館教授で寛政の三博士である古賀精里の次男古賀侗庵とその子謹一郎(茶渓)は幕臣となっていました。昌平黌の儒者であった古賀謹一郎は国外への関心も強く、独学で漢訳蘭書で西洋事情を学んでいます。
嘉永6年(1853年)ロシアのプチャーチン使節来航時、川路聖謨らに同行し長崎での交渉に従事しています。佐賀藩人脈に幕府のロシアとの交渉官がいました。
 ■余談■
 古賀謹一郎の昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人に河井継之助(長岡藩家老・戦術家、白洲退蔵(白洲次郎の祖父)など多彩。勝麟太郎とともに創案した洋学研究機関である蕃書調所が安政4年(1857年)開設。蕃書調所頭取(校長)として、教授に箕作 阮甫(ペリー来航時に米大統領国書を翻訳)をあて、教授見習の中には、村田蔵六(大村益次郎)、松木弘庵(寺島宗則)、西周助(西周)など幕臣以外からも採用している。明治後、東大の前身となる大学校の教授に明治新政府から招聘されるも幕臣として節度から辞退し、静岡に移り住んでいます。
 
 安政3年(1856年)9月4日、島義勇は佐賀城下を出発し、萩・津和野・浜田・鳥取・京都を経て江戸に入り、11月7日に江戸を発っている。この期間を「安政三年日記」として記録しています。各地で多彩な人物と交流しています。

 ■余談■ 他の七賢人の当時の状況
1)佐野常民
 島と同年である常民は精煉方頭人として、安政2年(1855年)に日本初の蒸気機関車の模型を完成させ、長崎海軍伝習所で伝習(一期生)を受けている。
2)副島種臣(島の母方の従兄弟)
 嘉永5年(1852年)京都に遊学、尊王活動に従事。兄神陽の尊王思想を実行しようと「将軍廃止と天皇親政」の意見書を公家大原重徳に提出、久邇宮朝彦親王より藩兵の上洛を要請される。しかし藩主直正は動かず、種臣を藩内に留めるべく、弘道館の国語教授に命じています。
3)江藤新平
 安政3年(1856年)「図と 海策(かいさく)」なる長文の時事意見書を執筆。経済及び軍事の近代化を図るために積極的開国を主張しています。
4)大木喬任
 この時期詳細不明。藩内での勤王運動に参画。
5)大隈重信
 安政2年(1855年)に、弘道館での南北騒動をきっかけに退学、安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じています。旧態然の儒学学生と洋学志向の学生との弘道館内対立事件で、首謀者として退学もすぐに復学を許されています。

 島義勇はその後、仙台伊達藩など東北地方を廻り、安政4年3月頃に同僚の犬塚与七郎と箱館に入っています。

 ■ 現在の函館(箱館)160余年後の町並み。当時は箱館山の麓の港を中心に集落がありました。当時の箱館奉行所は現在の元町公園に置かれていました。
函館の夕日.jpg
函館山.jpg
 
 幕府旗本で函館奉行の堀利煕の蝦夷地視察(廻浦)に同行し134日にわたる視察に向かいました
。主に蝦夷地周囲を船と徒歩で廻っています。幕府公認ではなようですが、藩主直正は堀利煕とも親しく、島は堀の近習として参加したとも言われています。
 当時の資料によりますと、同年閏5月11日に箱館を出立し、ヤムククシナイ(現:八雲町山越)・ヲシヤマンベ(長万部)からスツツ(現:寿都町)・イワナイ(岩内)・ヲタルナイ(現:小樽)・ゼニハコ(銭箱)・イシカリ(石狩)・ハママシケ(現:石狩市浜益区)・ルルモツヘ(現:留萌)・トママイ(苫前)・テシホ(現:天塩)・ソウヤ(宗谷)から樺太南部を巡視し、モンベツ(紋別)・アバシリ(網走)・シヤリ(斜里)・シベツ(標津)・ノツケ(野付)・アツケシ(厚岸)・クスリ(現:釧路)・ヲホツナイ(現:十勝川河口 打内・大津)・ヒロオ(広尾)・襟裳岬・ニイカツプ(新冠)・ユウフツ(現:苫小牧・勇払)・チトセ(千歳)・シラヲイ(白老)・ノボリベツ(登別)・モロラン(室蘭)・ウス(有珠)・レフンケ(現:豊浦町字礼文華)から長万部と道内を一周し9月27日に函館に戻っています。
北海道 白地図.jpg

 *巡察時の記録として島義勇の「北入記」が今に伝わっています。全4冊(雲・行・雨・施)があったと言われていますが、「雲」の原本は伝わっていません。
 仙台藩士玉蟲(虫) 左太夫も参加していて、同名の「入北記」9冊を残し、こちらは原書が全て伝わっています。玉虫・北入記に「安政4年(1857年)閏5月26日午前10時に島団右衛門道同、松浦武四郎へ参る」とあります。
 *蝦夷地巡察で島義勇と交遊した人
1)函館奉行の堀利煕(1818年~1860年 享年43歳)
 幕臣・堀利堅(大塩平八郎の乱時・大坂西町奉行)の四男。安政5年(1858年)に新設の外国奉行、のち神奈川奉行も兼任し、横浜港開港に尽力し、通商条約での日本国全権の一人として署名。万延元年(1860年)プロイセンとの条約交渉において、不手際を老中安藤信正から指弾され、9月に神奈川奉行免職。11月6日、プロイセンとの条約締結直前に自刃しています。
 ■余談■
 箱館奉行は当時3名任命され、1名は江戸在府・竹内保徳、1名は箱館在勤・村垣範正(後に遣米使節の副使・外国奉行)、1名が迴補の堀利堅でした。迴補に随行した随員12名の中には、島・玉虫の他に榎本武陽もいました。

2)仙台藩士の玉蟲 左太夫(1823年~1868年 享年47歳)
 江戸の湯島聖堂に学び塾長となる。安政4年の蝦夷地巡察に同行、「入北記」を署す。万延元年(1860年)日米修好通商条約の批准書交換使節団の外国奉行随員として渡米、「航米日録」全7冊(8冊の内1冊は秘書となっています)を著す。遣米使節の記録の中でも、客観的で世界一周した各地の実情を詳細に記録しています。
 慶応4年(1868年)戊辰戦争時、奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取、明治2年(1869年)敗戦に伴い捕縛され、獄中で切腹しています。
 *幕府は東北諸藩に蝦夷地警備を命じ、仙台藩では蝦夷地の白老(現白老町)に安政3年(1855年)仙台陣屋を置いて、襟裳岬を経て国後島・択捉島までを守備範囲としていました。陣屋跡地は昭和41年(1966年)国指定の史跡になり、近くに「仙台藩白老元陣屋資料館」が開館しています。
 ■余談■
 鍋島直正は江戸出府時、遣米使節派遣の計画を知り、国元に随行者の人選を命じています。結果、正使一行が乗船したポーハタン号に本島喜八郎(長崎海軍伝習生)、島内栄之助(長崎海軍伝習生、火術方)、小出千之助(長崎海軍伝習生、語学に堪能)、綾部新五郎(小城藩)、医師川崎道民(長崎海軍伝習生、写真技術を習得し佐賀の写真技術の祖)の5名、咸臨丸には秀島藤之助(精錬方・アームストロング砲製造に従事)、福谷啓吉(長崎海軍伝習生、精錬方・蒸気船建造に従事)の2名、計7名が派遣されています。*長崎海軍伝習所一期生において佐野常民以下佐賀藩藩士はオランダ教官から高評価で、修練も幕臣・他藩を凌駕していたようです。
 佐賀藩が幕臣以外で最も多い人数を派遣できたのは、藩主直正の幕閣との交流の賜物であり、操船技術を会得していた人材が豊富になっていた事だと考えられます。
 長崎でオランダ船に乗り込むほどの直正ですから、彼の心底では自分も随行したかったのではないでしょうか。随行する藩士に、事細かな視察目的を指示しています。

3)松浦武四郎(1818年~1888年 享年70歳)
 現在の三重県松坂市の郷士の出身。蝦夷地を六度に渡り調査し、当時蝦夷地に関しての第一人者であった。伊能忠敬や間宮林蔵によって、蝦夷地の地図は作られたが、あくまで白地図に過ぎませんでした。安政2年(1855年)、「蝦夷山川地理取調御用御雇」となり、道内や樺太をくまなく廻り、「東西蝦夷山川地理取調図」を箱館奉行所に上申し、道内の山や川の地理図にアイヌ語での地名を明記、道内各地域村落のアイヌ酋長・小使名を明らかにしています。当時のアイヌの風習や実情を調査し、和人による圧政を批判、佐賀藩などの大藩が地域開発に乗り出すのを歓迎しています。島義勇には、クスリ(現:釧路)場を推薦しています。
 明治2年(1869年)新政府より開拓判官となり、蝦夷地をアイヌ伝統に敬意を込めて「北加伊道」を選び、「北海道」と命名し、同じようにして各地の郡名等を選定しています。島義勇の先導役でありました。明治3年開拓使のアイヌ政策の怠慢に抗議して辞職、従五位の官位も返上しています。
 余生を東京で過ごし、自宅の片隅に作った一畳敷の書斎は、その後当時の趣味人を伝え渡り、「一畳敷書斎」として、最終的に現在の国際基督教大学内に移築され、学園祭に特別公開されています。

 *箱館迴補奉行の堀利煕は幕末開港での外交官僚として活躍するも、孤立して荒波にのまれました。蝦夷地巡察で幕閣から評価され遣米使節で世界一周した玉蟲 左太夫は、幕府への忠節に殉じて維新の激動にのまれました。島義勇も、人徳・人望があるが故に明治維新の揺り戻しにのみ込まれてしまいました。市井の人に戻った松浦武四郎だけが風流な余生を送ったことになります。

 島の「北入記」は経済的視線で記録され、多くの絵図もあり、当地での産業・交通・交易に注目しています。幕府の蝦夷地政策や支配役人の不正にも言及していますが、佐賀藩による箱館貿易での具体策も書き留めています。藩主直正の意向だったと思われます。
 一方の玉蟲の「北入記」は、松浦と同じく地理やアイヌ民族及び現地での支配体制を詳しく調査しています。仙台藩が白老陣屋を拠点に、蝦夷地防衛とアイヌ及び和人への民政をすすめる上での調査とも考えられます。二人共にそれぞれの藩を背負っていたことが判ります。
 島義勇と同行した犬塚与七郎は途中で報告のため帰藩し、10月には佐賀藩郡目付・高柳忠吉郎以下藩士が3名箱館を来訪しています。
 島は箱館に帰還後、築城し始めた「五稜郭」を見聞、また箱館台場築造の工法・工費など詳細を記録しています。
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 島義勇は安政4年(1857年)11月19日、江戸に帰府する堀奉行に同行して、箱館で新造された「箱館丸」に乗船し、試乗航海で12月19日江戸に戻ってきています。この時の詳細を「東洋記」として著しています。この日記には箱館丸の構造・備品などの絵図、宮古などの湾内鳥瞰図も書かれています。
 *箱館丸の説明


 島義勇は安政5年(1858年)帰藩し、その後に蔵方組頭に任じられています。

 幕末期が、佐賀藩は二重鎖国体制の元、藩士の藩外への往来は厳しく制限されていました。しかし一方で、藩主鍋島正直の積極的な富国強兵策の先兵として、多くの弘道館出身者が藩内外で活躍もしていました。
                            つづく 

☆参考資料
① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
④ 島義勇伝:(有)エアーダイブhttp://www.dybooks.jp/
⑤ 国立国会図書館デジタルコレクション - 東西蝦夷山川地理取調図

  
 
 
 

 
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さがさいこう⇒さがさ・いこう⇒さが・さいこう [故郷(佐賀)を歩く]

■ 佐賀さ行こう・佐賀最高 ■

*2017佐賀インターナショナルバルーンフェスタ
 今年も予定総数112機(18カ国・地域から)が参加し、11月1日(水)~5日(日)まで開催されます。
 10日間天気予報から、期間中は天候にも恵まれそうです。

*2017佐賀インターナショナルバルーンフェスタ公式HP
佐賀インターナショナルバルーンフェスタ[Hi-res/4K SAGA]
360°パノラマ動画「2015佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」

*360°パノラマ動画「2015佐賀インターナショナルバルーンフェスタ」のHP

*バルーフェスタ以外にも「第24回 シチメンソウまつり」、「佐嘉城下 骨董市」が開催されます。
■「第24回 シチメンソウまつり」11月3日~5日 10:30 ~
 ライトアップ 18:00 ~20:00 10月28日~11月2日
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■「第29回佐賀城下秋の骨董市」11月3日~5日 10時 ~ 17時
 会場 : 松原神社境内
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■ 九年庵:秋の一般公開 平成29年11月15日(水)~11月23日(木・祝) 9日間
             午前8時30分~午後4時まで 
             美化協力金300円(中学生以下無料)
   九年庵[Hi-res/4K SAGA]

■佐賀市インバウンド観光向けのPR動画「Surf Slow SAGA, Japan 4K 」


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昭和の面影、昭和33年松竹映画「張り込み」ロケ地等を歩く。 [故郷(佐賀)を歩く]

 まずは松原町周辺を歩きます。中心部の交通混雑解消のために、郊外を迂回・周回するバイパス道の周囲は開発が進み、人の流れが郊外に拡大した結果、市内中心部は衰退し、時が止まった区域が点在しています。
 昭和の面影が残っている場所もあれば、平成に入り変貌してきた場所もありますね。
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 ・「松原マーケット」の今!
 戦後「徴古館」の土地および佐嘉神社境内地を引揚者の方々に貸し出してバラックが建ち並ぶ闇市が出来ました。その後「松原マーケット」と呼ばれる商店街に発展しました。
 昭和47年7月発行の「佐賀市白山町商店街診断報告書」では、競争相手の商店街として、松原マーケットは店舗数「77店」・買い回品「20店」・最寄品「24店」および飲食とサービス「33店」の規模で、食料品主体の街区で市内有数の飲食街である、と記されています。
 その後、近くにあった市役所が佐賀駅近くに移転、城内公園化構想から、地権者である鍋島報校会も廃業時に更新しない方針をとり、近年は廃業店舗の解体も進み空き地が広がっています。
 ・整備されつつある徴古館の周囲、北濠城内より。
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 ・取り壊された店舗跡は駐車場になっています。
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 ・貫通道路からの入り口にある人気の饅頭屋さんは健在!閉めた店もあれば、頑張っている店もあります。
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・昭和の家屋と平成のマンション(平成13年・2001年、完成、15階建て)
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 ・昭和の旅館と平成のマンション 旅館の手前は公園化されています。ここには戦後、親和銀行佐賀支店がありました。
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 ・広場の東側は「復興通り」
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 昭和30年代、松原2丁目界隈には映画館が立ち並び、東映・日活・東宝・松竹・洋画の有楽会館などがありました。佐賀大映だけは、貫通道路沿いの福岡商店ビル辺り(水ケ江)でした。東松原(新馬場)には「平和映劇」、市民会館前には「朝日映画」がありました。また、駅前西通りには「駅前東映(名画座)」、紡績通り角に「若草映劇」、唐人町に「昭和映劇(昭和東映)」がありました。
 福岡市内では中州に映画館が集中していましたね。国体道路と50m道路(昭和通り)との間に、昭和32年当時16館の映画館が林立していました。今は大洋映画劇場だけになっています。
 ・佐賀東映 映画館跡 今はマンションになっています。
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 ・閉館したセントラル会館は昭和30年代、有楽会館や有楽オスカーがありました。
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 ・佐賀松竹(松竹世界館)今は駐車場です。奥の「セントラルプラザ」には佐賀東宝がありました。セントラルプラザ・東隣の駐車場は当時「レストラン赤玉」でした。
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 ・「セントラルプラザ」!3階に中心部唯一の映画館「CIEMA」が頑張っています。
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 ・佐賀日活 今はセントラルパレスで飲食ビルになっています。
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☆さてここから本題です。映画つながりで! 
 昭和32年(1957年)、今から半世紀前の秋に佐賀市内で映画のロケがありました。松本清張の短編を映画化した「張り込み」です。
 松竹映画 監督:野村 芳太郎 脚本:橋本 忍 音楽:黛 敏郎 主な出演:大木 実、宮口 精二、高峰 秀子、田村高廣。
 上映は翌昭和33年1月でした。日本の映画館入場者数は昭和33年(1958年)に年間11億人に達し、入場者数がピークになった年です。昭和34年の皇太子殿下・美智子様のご成婚パレード実況中継でテレビが爆発的に売れ、プロレス・野球・相撲など映画では太刀打ちできないスポーツ実況生中継がテレビの存在価値を高めました。更に、テレビドラマでもVTR収録が始まり作品の品質が向上し始めたことなどから、以後映画館入場者数は減少の一途となります。
 「張り込み」では、 佐賀駅、護国神社周辺、県庁前、旧佐賀警察署、中の小路、松原通り、松原神社、呉服町、材木町などでロケがあり、60年前の風情が物語の背景に描かれています。
 特に尾行のシーンでは、母校の旧正門・図書館・講堂の一部が背景に確認できます。この当時、母校から貫通道路までの道など市内の主要な道は未舗装だったことがよく判ります。
 ストーリーの後半、尾行のシーンには、護国神社北の多布施沿いの小路、県庁前、母校前の通り、県知事公舎の角、日本勧業銀行佐賀支店がある中の小路交差点、松原川沿いの松原小路、松原町・呉服町界隈が登場します。
 ストーリーに準じて今の風景をご紹介します。
 *「張り込み」はDVD&Blu-rayが発売され、レンタルもあります。(店頭にないことが多く、ツタヤなど取り寄せ可能な店舗がお薦め)
■ストーリー :東京で発生した強盗殺人事件の容疑者(田村高広)の元恋人(高峰秀子)が後妻として佐賀に嫁いでいたことから、立ち寄る可能性が高く、刑事二人(大木実、宮口精二)が佐賀に出向き、嫁ぎ先向かいにある旅館の部屋で張り込みをする。単調な日常生活の連続で犯人が接触してくるのか、刑事二人に焦りがでるが、張り込み予定最終日に犯人が接触し、追跡の上、逮捕となる。

 ・冒頭、一昼夜かけて横浜から佐賀まで夜行急行列車でのロングシーンがあります。満員で真夏の風情をドキュメントタッチで描いています。電気機関車から山陽本線では蒸気機関車の雄姿に替わり、瀬戸内、広島駅・小郡駅・関門トンネル・博多駅の当時の風景が見られます。博多駅は先々代のホーム・改札が登場します。その後に懐かしい旧佐賀駅に到着、グリコの広告塔ロータリーがチラリと見えます。
 ・新山口駅(旧小郡駅)
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 ・劇中の蒸気機関車と同じC591型、当時急行雲仙を牽引。
C591蒸気機関車.jpg
 ・当時の板張り客車のイメージ
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 ・当時の関門トンネル専用電気機関車。山陽・鹿児島本線が未電化の昭和30年前半、関門鉄道トンネルは既に開通時の昭和17年から電化されていましたので、下関と門司で機関車の付替えがありました。
関門トンネル専用電気機関車.jpg

 ・旧佐賀駅前、現在の「駅前交番西交差点」
駅前交番西交差点 1.jpg
駅前交番西交差点.jpg
 ・翌日、佐賀署に挨拶に出向く。城内の空撮、県議会議事堂ドームと佐賀警察署が映るショットから警察内部での挨拶場面、その後警察前から、バス停のシーンとなります。警察署前の交差点(信号機など無し)、昭和バス・初代トヨタクラウンが通る中をすり抜けてバス停に向かいます。背景に北濠の貸しボート遊びが見られ、懐かしいです。今、佐賀警察署は移転し佐賀県警本部になっています。
県警本部前交差点.jpg
県庁前 バス停.jpg
 ・刑事二人は、元恋人が後妻に入った家がある場所へ向かいます。護国神社前から多布施川沿い(瓦葺店舗もあれば西進し、茅葺店舗も見られます)に西進し、三角橋を渡ります。近年、国道264号が妙安寺小路から紡績通りへ拡幅新設され、三角橋にも安全確保の欄干が付けられています。劇中では、多布施川の棚路で洗い物をする姿がバックに見られます。
護国神社 太鼓橋前.jpg
護国神社 多布施川沿い.jpg
平成の初め頃までは撮影当時の姿でした。多布施川沿いの道にもガードレールが設置され、棚路も埋め込まれています。
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三角橋.jpg
三角橋 親柱.jpg
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三角橋 1.jpg
三角橋 多布施川 .jpg
 ・監視対象の家の前が旅館だったことから、二階の一室で張り込みに入ります。この後にやっと映画タイトル「張り込み」が映し出されます。当時映画を見た全国の方々は、これで如何に「佐賀が東京から遠い所にある街」か実感したのではないでしょうか。
      ↓イメージ写真(長崎街道・伊勢屋町)
肥前屋 イメージ.jpg
 ☆見張りの為に宿泊する旅館「肥前屋」でのシーンは松竹大船撮影所で撮られています。
 
 単調な生活の中、決まった時間に買い物に行くシーンでは、撮影当時「日峯さんの縁日」で興行していた矢野サーカステント前(東堀埋め立て広場)、東魚町・新道商店街(県病院北通り)?の商店街が背景に使われています。 ・東濠跡の駐車場(1時間100円、24時間)
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 ・東魚町
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 ・新道商店街(県病院北通り)一角、好生館跡地に「健康検診センター等の複合施設」が建設中。
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 原作にはありませんが、高峰秀子演じる後妻さんが、夫の代わりに焼香に出向くシーンとなります。当時の佐高・西校舎正門前から本願寺前、材木町の佐賀劇場前が「材木町市営バス停」として(フィクション)登場し、国道34号線・神崎手前の大町橋バス停を降りて、唐香原(からこうばる)に歩いて行くのを刑事二人が尾行します。
西高 旧正門前.jpg
 ・佐賀劇場(昭和41年に閉館)の跡には借家長屋などが建てられています。当時の橋は架け替えられ「劇場橋」と命名されています。劇中では、懐かしのボンネット市営バスが登場します。*佐賀市交通局のホームページに撮影当時のバス写真がありますよ。
佐賀劇場 跡.jpg
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 ・「劇場橋」には佐賀劇場の面影が埋め込まれています。
劇場橋 近影.jpg
劇場橋 イメージ.jpg
 ・現実の「材木橋バス停」は、貫通道路の材木橋を挟んで、佐賀共栄銀行本店前など東西にあります。
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 ・神埼市本告牟田、国道34号線大町橋付近の今!西鉄久留米駅&信愛女学院行と、昭和バス三瀬車庫前行が運行しています。
大町橋バス停 西鉄バス.jpg
大町橋 バス停.jpg
 ☆原作者の松本清張は北九州小倉出身ですが、清張夫人の地元は神埼町・大町橋近くの農家で、戦時中疎開していました。出征していた清張もここに復員しています。芥川賞を受賞し東京に出て、社会派推理小説で活躍した松本清張ですが、意外にも、佐賀平野の地理や風情に精通していたようです。
 
 後妻さんが歩いたバス停から日の隈山へ延びる道は田んぼの中の一本道でしたが、現在では日の隈山まで、道の東側は桜並木が続きます。
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 ・唐香原の集落に歩き進みます。
唐香原 入口.jpg
唐香原集落 入口.jpg
唐香原集落 .jpg
 
 ☆唐香原集落を通る道は「平山 古代官道」であり、太宰府から吉野ケ里を通り肥前国府に通じていました(西海道)。 
 
 ・ 農家の庭先での葬儀に参列し、道端から刑事が覗くシーンとなります。
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 ☆現在の唐香原集落に、撮影当時の風景は見られませんが、大町橋から唐香原に向かう途中に「横武クリーク公園」があり、くど造り民家が保存公開されています。
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くど造り民家.jpg
横武公園 くど造り民家.jpg

 ・「張り込み」次のシーンは雨が降り出し、後妻さんが主人の勤務先へ傘を届ける場面となります。これは柳川で撮影がありました。 

 ・張り込みも予定の日数が過ぎ、刑事の二人も諦めかけた時、傘直しに変装した犯人が現れ、時間をずらして外出する後妻を刑事一人が尾行します。三角橋、県庁前、母校前・本願寺正門前、県知事公舎角、旧勧銀佐賀支店前交差点、松原川に沿って、松竹宇宙館、松原神社前の浮立面踊り、呉服町、国鉄佐賀駅、祐徳バスターミナルが映し出されます。 ・撮影当時の楠木?県庁前の大楠
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 ・元恋人に会う為か、日傘をくるくる回しながら門前を通っていくのが印象的。
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 ・裁判所前交差点、県知事公舎角の塀の丸みは今も同じ。
知事公舎 角.jpg
 ・今は佐賀玉屋南館が在りますが、旧勧銀佐賀支店前交差点が登場します。
 ☆勧銀佐賀支店は昭和41年(1966年)9月17日深夜、金庫室が破られ当時の金額で3200円が盗まれてました。犯人は捕まらず時効になっています。2年後に東京府中にて3億円事件が発生するまで国内現金盗難事件で最高額でした。
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 ・県庁通りから松原川沿いの道に入り松原町を進みます。シーンでは写真館の看板が目につきます。
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 ・松原川は市民が水に親しむ親水公園となって、遊歩道も整備されています。
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 ・中央通り開通後進出した日祐の跡はマルキョウが入っていましたが撤退、平成28年(2016年)10月、佐賀バルーンミュージアムとして、再スタートしています。
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 ・旧嬉野家の武家屋敷門(薬医門)が平成27年度に保存修理、嬉野家(当時は多久蔵人屋敷)の西隣には創設時の「弘道館」がありました。東隣はシーンに看板が見られた写真館。
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松原川 薮内写真館.jpg
 ・佐賀県教育会館?らしき建物を通り抜けます。佐賀県教育会館は昭和53年(1977年)3月、高木瀬町に移転して、今では15階建てのマンションが建っています。
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 ☆マンションの前立つ河童の手に触れると、松原川に架かる河童橋が放水します!!
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 ☆松原川では鯉が放流されています。
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 ・松原川沿いに日峯さんで賑わう街が映し出されます。今では静かな通りです。
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松原川 松原通り 1.jpg
 ・松原神社前の通りで、「浮立」が群衆の中で舞われる中、刑事は群衆に阻まれて、後妻さんを見失います。今は平屋のフラワーショップになっていますが、シーンには「お肉屋さん」が映っています。ここの一角には後に「金ちゃんうどん」が在りましたね。
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 ☆昭和を通じて市内で最も人通りが多かった通りも、書店が移転し、呉服町のアーケードも撤去されたりして、様変わりしています。
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 ☆松原神社の大鳥居。「張り込み」で新人助監督だったのが「山田洋次」でした。彼の代表作である「寅さんシリーズ」の「42作・男はつらいよ ぼくの伯父さん」昭和64年12月公開で、佐賀・小城を地方の舞台とし、「張り込み」と同じ日峯さんの祭り風景と境内での浮立踊りを取り入れています。「張り込み」から30年後、今から約30年前の風景が見られます。
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 ☆「寅さん」でも「浮立」は登場し、この時は境内で舞われています。
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・後妻さんを見失った刑事は呉服町から佐賀駅に向かいます。喫茶晩翠、南里本店店頭が確認できます。晩翠・南里本店(道路左)・ミキヤ洋品店(道路右角)跡。
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 ・駅では見つからず、駅前の祐徳バスターミナルでの目撃情報から、多久にタクシーで追います。タクシーでの追跡シーンでは、佐賀平野の空撮が登場。原作では古湯(原文要約:川北温泉、S市を流れている川の上流)を連想しますが、ロケハンで不採用となり最終的に大分の宝泉寺温泉で撮影されています。

 ☆松本清張は、映画化された中で気に入った作品として「張り込み」・「黒い画集 あるサラリーマンの証言」・「砂の器」を上げています。
 ☆「張り込み」は昭和33年「キネマ旬報」第8位。
   第7位は小倉を舞台にした「無法松の一生」でヒロインはここも高峰秀子、第19回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞。
 ☆原作:松本清張、監督:野村芳太郎、脚本:橋本忍のトリオで、この後数々の作品が映画化され、集大成として昭和49年(1974年)10月公開「砂の器」が公開され、キネマ旬報年間第2位となっています。この時、脚本は橋本忍&山田洋次でした。
 
 ■松原などの街中散策に戻ります。更に水ケ江方面に歩きます。

 ・松原神社大鳥居前、昭和を代表する繁華街の一角でパチンコ店が連なっていましたが、今は更地です。
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「一休軒本店」は昭和30年から親しまれた老舗のラーメン店でしたが平成23年(2011年)8月14日閉店。向かいには対照的に親水公園が整備されています。左手の洋館風建物は公衆トイレ。
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 ・新馬場通り(松原神社参道)、大財通りからの参道入り口には、木製鳥居がありましたが、「シロアリ」により昭和43年頃撤去されています。参道入り口左手は「松川屋」。森鴎外「小倉日記」に登場し、鴎外が泊まっています。また昭和32年10月、映画「張り込み」の撮影時の宿舎にもなっています。
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 ・松原参道入口向かいには、明治27年(1897年)から昭和14年(1939年)9月まで、佐賀米穀取引所がありました。戦後タクシー会社本社が有りましたが、今では外食チェーンの店舗&駐車場になっています。
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・取引所跡地東に残る重厚な煉瓦塀
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 ・水ケ江交差点、昭和30年から40年代にかけて市内でも交通量の多い交差点でした。昭和46年(1971年)に箱型歩道橋が設置され、人と車の混雑解消が図られました。只、同時期に北部・南部バイパスが完成し、人と車の流れが分散したこともあり、障害者や高齢者に優しい街づくり・バリアフリーの観点から平成11年に歩道橋は撤去されています。
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 ・片田江交差点「椎小路・説明版」
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 ・閉鎖が決まった寿商店街 平成29年6月で60年の歴史に幕を下ろします。大財通りと貫通道路に出入り口があるL型ミニ商店街で隆盛期は20店舗ほど有りましたが5店舗に減少、店主の高齢化もあり商店会を解散するようです。
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寿通り商店街 通路.jpg
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 ・水ケ江・片田江商店街 シャッターを下ろした店舗も多い中、「大隈重信生誕地」商店街をアピールしています。
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 ・バス停も「大隈記念館入口」になっています。以前は「県立病院東門」平成25年(2013年)4月変更。
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 ・大隈重信記念館:生誕125周年記念で昭和41年11月落成、昭和42年10月開館 平成27年2月館内リニューアル。
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 ・重信候生家(国史跡名勝天然記念物)
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 ・江戸時代の侍町割り説明版「片田江小路」
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 ・新道商店街 県立病院が移転し市民会館が閉館し、商店街のランドマークが無くなり静かな通りです。昭和の時代、此処も活気が有りましたね。商店街案内図を見ると、卒業写真の撮影をした写真館などが確認できます。
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 ・新道商店街から東に進むと市村記念体育館の裏手に出ます。昭和38年(1963年)、市村清氏寄贈により佐賀県体育館として開館、平成4年(1992年)に寄贈者を記念して「市村記念体育館」に名称が変更されています。
 昭和39年(1964年)9月15日、長崎県からの聖火は西有田村(当時)で佐賀県ランナーに引き継がれ、国道35号から34号線を進み、午後6時半前に市村体育館の2階ブリッジに到着しています。翌16日、県庁を出発し基山町で福岡県に引き渡しています。
 また昭和40年(1965年)2月、佐高最後の第16回卒業式もここで挙行されています。
 体育館前には円形の大噴水が有りましたが、今は撤去され芝生が張られています。
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 ・県庁展望室より、松原町・水ケ江町を望む。
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 □今回ご紹介しました映画「張り込み」は、レンタルなどで鑑賞されることを重ねてお勧めします。映像特典では20年弱前の佐賀市内の風景が見られます。三角橋はまだ欄干がなく、呉服元町アーケードも健在です。

☆ 参考資料
 ① 佐賀市史        https://www.city.saga.lg.jp/main/2599.html
 ② 佐賀の歴史・文化お宝帳 http://www.saga-otakara.jp/
 ③ 佐賀市歴史探訪     https://www.city.saga.lg.jp/main/3859.html
 ④ 佐賀県立図書館デジタルデータベース 近代地図目録:佐賀市(大正~昭和30年代)
 ⑤ 徴古館収蔵品データベースと佐賀御城下絵図(翻刻図)文化年間
 ⑥ 佐賀県立図書館 ゼンリン住宅地図 昭和30年~40年代
 ⑦ 新潮社:松本清張傑作総集より「張り込み」
 ⑧ 松竹DVDコレクション「張り込み」本編116分 映像特典19分 
 ⑨ 北九州市立松本清張記念館「松本清張と映画」
 ⑩ 西村雄一郎のブログ:ドキュメント「張り込み」①~㉞
 ⑪ 佐賀新聞社 デジタルライブラリー
 ⑫ 九州鉄道記念館
 ⑬ 佐賀市営バスブログ
 ⑭ 佐賀市、神埼市HP
 ⑮ 松竹DVD 第42作 男はつらいよ ぼくの伯父さん
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
・特に佐高の諸先輩方からの「思い出」特集を企画したく、
投稿よろしくお願いいたします。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

タグ:張り込み

春!徐福ロードの桜が満開です [故郷(佐賀)を歩く]

 国鉄佐賀線は、国鉄再建法の第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化の直前の昭和62年(1987年)3月27日で全線廃止となりました。佐賀線の廃線跡は、大財六丁目交差点から南佐賀東交差点までが市道になり、南佐賀東交差点より諸富鉄橋展望公園まで総延長約5キロの(名称:徐福サイクリングロード)歩行者・自転車専用道路になっています。
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 ・「みなみさが駅跡」
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 時間が止まった「運賃・時刻表」 今佐賀駅バスセンターから南佐賀バス停の運賃は260円です。
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 ・夏の「みなみさが駅跡」
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 ・桜のトンネル
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 ・国道208号と立体交差の「ふれあい橋」付近
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徐福サイクリングロード ふれあい橋 付近 1.jpg
 ・諸富町、県道48号佐賀佐賀外環状線と交わる所にある県重要無形文化財「三重の獅子舞」のモニュメント(獅子の広場)
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 ・国鉄諸富(もろとみ)駅跡に建てられた佐賀市立諸富文化体育館(ハートフル)
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旧佐賀線 諸富駅跡 説明版.jpg
 ・筑後川昇開橋(正式名:旧筑後川橋梁) 平成15年5月 国指定文化財。
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 ・記念碑説明抜粋
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 ・筑後川を渡る「渡し舟」や佐賀馬鉄の説明碑もあります。
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・大川から
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 ・徐福伝説 秦の始皇帝に願い出て、不老不死の薬草を求めて渡来した徐福が上陸した地、との伝説があります。国鉄佐賀線跡のサイクリングロードの名称の由来ですね。全国に徐福伝説はあり、佐賀県内にも他に伊万里上陸説があります。徐福が生きた始皇帝の治世は紀元前三世紀ですから、日本では弥生中期にあたり、吉野ケ里が環濠集落への発展途上と推定される時代です。佐賀・久留米間の西鉄バス江見線が走る国道264号が当時の海岸線(沿線に貝塚が多い)ですから、実際の上陸地は千代田あたりでかも知れません。海岸線の南下に伴い伝承も南下してきたとも思われます。但し、歴史ロマンとしては分かりやすい土地ですね。
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 ☆国鉄佐賀線、佐賀市内の駅:佐賀駅、東佐賀駅、南佐賀駅、光法(みつのり)駅、諸富(もろとみ)駅の5駅がありました。佐賀線ではディーゼル急行「ちくご」が熊本⇔長崎が運行されていました。
 ☆国鉄佐賀線橋梁のレールの意匠がある市道「新曙橋」平成25年3月竣工。(29)蓮池・橋津と(28)今宿・道崎のバス路線が渡ります。
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 ☆同じく八田江川には「佐賀線偲橋」平成5年3月竣工。親柱が「佐賀線を走るSL」の意匠に拍手!!
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 ・(21)諸富・橋津のバス路線となっています。
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 ☆国鉄佐賀線は昭和10年5月25日に開通しました。それまでは佐賀と諸富の間に馬鉄が通っていました。佐賀馬車鉄道(株)が明治37年(1904年)から、水ケ江の明治橋諸富まで運行を始め、翌年には旧市役所・御幸橋経由で旧佐賀駅まで延伸しています。大正元年(1912年)川上軌道と合併し佐賀軌道(株)になりましたが、昭和3年(1928年)6月、路線は馬から乗り合いバスにて代りました。横小路バス停前に病院長が個人で記念碑を立てています。病院の敷地には、当時の佐賀軌道(株)の本社がありました。
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 ・諸富鉄橋展望公園にも説明碑が有ります。「昭和2年、馬鉄に代わり6人乗りのバスが走るようになりました。」とありますが、佐賀市史では昭和3年6月26日馬鉄休止とあります。
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 ・ ☆現在市内を走るバス
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 ☆廃線つながりで話題をもう一つ!佐賀市役所の南東にある市役所前公園に「D51」が鎮座しています。説明版によりますとD51がのるレールは旧佐賀駅時の長崎本線のものとの事。市役所がここに新築移転したのが昭和50年(1975年)5月で、佐賀駅が高架で北に100㍍移動したのは昭和51年2月でした。
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 ☆おまけ!「徐福」つながりでご紹介。金立にある徐福館に至る高速道路の手前に金立コスモス園があります。春は菜の花と桜で、隠れた人気スポットです。
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 廃線跡などどちらかと言えば侘しく荒廃した風景を想像してしまいますが、実際の国鉄佐賀線跡は市道やサイクリングロードに転換活用されています。
タグ:徐福

春!佐賀城内の桜が満開です。 [故郷(佐賀)を歩く]

 多布施川は護国神社より東に向かい県県本部より北濠を越えて城内に流れます。
■北濠の桜
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■母校旧正門周囲の桜
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■西御門橋より南、西濠の桜
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■南濠の桜
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 ☆南濠の周囲には、(古賀忠雄 彫刻の森:平成6年3月開園)古賀氏の代表的な作品の野外展示が26体あります。桜並木と共に数点ご紹介します。
・「頬杖をつく」昭和49年(1974年)
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・「沼の幻想」昭和43年(1968年)
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・「想い」昭和43年(1968年)
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・「語らい」昭和42年(1967年)
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 ・「青雲」昭和38年(1963年)
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 南濠 楠に桜に蓮
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 ■枝吉神陽・副島種臣、兄弟の生誕地 南濠の遊歩道に沿った堀端南通りに佐賀県社会福祉会館があります。ここは、文化年間・佐賀御城下絵図には「枝吉 栄」と記され偉人の誕生地です。
 枝吉神陽は弘道館教授・枝吉南濠種彰の長男にて身長は180㎝の大男、のちに弘道館教授。父の勤王思想を受け継ぎ「義祭同盟」を主宰、政治体制は律令制が理想しその知識を伝授、実弟の副島種臣、従弟の島義勇、大木喬任、大隈重信、江藤新平などに多大な影響を与えています。23歳の時昌平黌に学び、昌平黌の舎長になるほどで、この時「一君論」を展開しています。水戸学の大家で徳川斉昭の側用人でもあった藤田東湖とも交流しています。また吉田松陰は長崎・平戸遊学の途中に佐賀で八歳年上の神陽と面談し「奇男子」と評しています。コレラに罹った妻の看病及び葬儀を出して罹患し、神陽が悲願とした大政奉還の5年前の文久2年(1862年)9月に41歳で亡くなっています。
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枝吉神陽・副島種臣、兄弟の生誕地 説明版.jpg
  ☆枝吉神陽・副島種臣の墓所は「高伝院」にあり、神陽の功績を伝える顕彰石碑があり、説明版もあります。
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 ■南濠の遊歩道には南濠の石垣が移築再現されています。
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 ・南濠より本丸御殿を望む
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 ・亀甲石垣より南濠の桜並木
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 ・南濠桜並木より赤松小学校正門
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 南濠の東端側より望む
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 ☆龍造寺隆信!生誕地 南濠の南、赤松小学校の東側は戦国期、水ケ江城がありました。水ケ江竜造寺氏の居城です。龍造寺隆信は享禄2年(1529年)水ケ江城東館天神屋敷で生まれています。7歳の時に宝琳院で出家しますが、天文15年(1546年)還俗して水ケ江家を継ぎ、天文17年には本家の村中龍造寺家も継ぎ、龍造寺家の当主となり、山城守隆信と称しました。天正年間には五州二島(壱岐・対馬)の太守と言われ龍造寺全盛を築きましたが、天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで戦死を遂げています。
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 ・龍造寺隆信胞衣塚(えなづか):胎盤を納めた塚で、誕生碑の左後方にあります。
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 ☆島原市にある龍造寺隆信供養塔
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 ☆墓所は、藩祖鍋島直茂公が隆信の菩提寺として佐賀城の鬼門に建立した宗龍寺に有りましたが、明治以降高伝寺に移されています。
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 ■城内・本丸の桜
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 ・鯱の門、石垣に桜
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 ・天守台入口の桜
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 ・天守台より本丸を望む
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 ・本丸より天守台を仰ぐ
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 ・旧赤松小学校跡に復元された石垣土塁
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 ・本丸歴史館西門横にある赤松小学校跡記念碑
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赤松小学校跡記念碑1.jpg 赤松小学校は明治41年4月創立、平成5年に佐賀城本丸歴史館建設により、旧城南中学校跡に移転しています。移転後発掘調査を実施、本丸西側に石垣土塁の遺構が確認され、当時の絵図も参考にして「西側土塁石垣」「南西隅櫓台(亀甲乱積石垣)」が復元されています。


・南西隅櫓台より天守台を望む 左手の緑窪地は堀跡
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 ・南濠より南西隅櫓台と土塁 ここには旧赤松小学校の校舎が有りました。
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 ・整備された二の丸広場
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 ■成美女学校跡の桜
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 ■佐賀高等女学校跡の桜
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 ■万部島の桜 多布施川に石橋が掛かり、静かな花見スポットです。 
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 大濠公園・福岡城址・西公園のにぎやかなお花見とは違い、佐賀城城内は静かなお花見スポットでした。

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