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小笠原の思い出 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 江口直明

 1968年(昭和43年)6月にアメリカの施政権下に置かれていた小笠原諸島が日本に返還された。太平洋戦争中、東京に疎開した人たちが、故郷の島に戻りたいということから、とりあえず人が住んでいない母島から、現状がどうなっているか調査することになった。それが1972年にことである。折から、佐賀のテレビ局を辞めて、東京の大学に戻っていた私の目にとまったのは、東京都が募集する小笠原調査団のアルバイトであった。事前の説明では、ジャングル化している母島のかつての道路等の様子を確認するための測量が中心の仕事だというが、今ひとつ実感が湧かず、ただ面白そうだから応募してみようというのが正直なところだった。

 東京竹芝の埠頭に集まった人々は、測量士、土木の職人さん、何かの技師さんなど十数人だったが、中でも一寸と気になったのが、爆発物処理の専門家二・三人であった。とは言え、その時はそれ程気にせず、乗り込む船を見ると、これがわずか500t位の漁船である。これで太平洋を1,000㎞も航行するのかと思うと少し不安になったが、今後の冒険に気をひかれそれほどの不安という訳ではなかった。乗組員は小笠原漁協の漁師さんたち。この小さな船に、ジープを乗せてくくりつけ、父島に運ぶのである。いよいよ出発。初めは物珍しさに甲板に出て、周囲をながめていたのだが、その内ただただ海面ばかりの景色に飽き、船底の寝室に入ったところ、異様な風景を見てしまった。部屋の角に当たる部分に木の棒が立ててあって、決して美しいとは言えないアルミのデコボコした洗面器が角と木の間に何十と設置してあった。漁船で小笠原まで行くのに2泊3日は掛かるという。その間、静かな海ばかりではない。慣れない人は船酔いで戻すという。そのときに使う洗面器である。

 鳥島に近づくにつれて、風邪が強くなり、そのまま進むのは危険というので、風を避けて鳥島を風よけにして漂泊をすることになった。これは碇泊と違っていかりを下ろさずに漂うのである。風向きによって島の裏側に行って風を避けるのであるが、余り島に近付きすぎると座礁するし、離れすぎても役に立たない。細かくエンジンをかけ舵を取らなければならないのでかなり技術のいる航法らしい。例の洗面器を役立てていた人がかなりいた。風を避けるといっても、波は船を越え、反対側にいた私に上から降りかかってくる。
 翌朝すっかり収まった波の上に私は生まれて初めてあほうどりを見た。大きな白い身体を見せて2羽のあほうどりが、昨夜の風は何にもなかったかのように、ゆっくりと舞っていた。こうして、小笠原父島に1日遅れの3泊4日で着いた私は、さすがに足元にしっかりとした大地にほっとした。さっそく、船に積んできたジープて宿舎に届けてもらった。
 この父島には人が住んでいて、一寸と不思議な雰囲気があった。それは、住んでいる住民が白人系でしかも東京弁なのである。後に聞いたところによるとオーストラリア系の人たちで、東京都小笠原村の住民ということで立派な東京都民であった。さらに不思議なのは、学校の作り方が、外国映画でよく見る平屋の切り妻型、しかもその敷地が約40㎝位の高さで幅10㎝位の先の尖った白い板で囲ってある。しかも、芝生の上には薪を背負って本を読んでいる例の二宮金次郎の銅像があった。その隣にはキリスト教会があって面白い取り合わせであった。さらには、道交法が適用されているのかは知らないが、子供たち(中学生位か)がバイクに乗っているのである。また、ナンバープレートのついていない車が、普通に走っていた。ある車はホイールを軸に止めている部分が、きちっとしたピンではなく針金でぐるぐる巻きにしたものもあった。修理用の部品も取り寄せるのに苦労するせいか、ほったらかしにしているのかもしれない。
*小笠原諸島、父島にて1968年と1998年同じ場所を見比べています。聖ジョージ教会の写真があります。

*返還当時の父島を8ミリフィルムで撮影。竹芝の埠頭での出港シーンや父島でバイクに乗る少女の映像があります。

 私たちが到着した父島二見港は立派な岸壁が作られ、小規模な自衛隊の基地もあった。売店もあり、「クラブ」と呼ばれるバーもあった。警察官もいたし、それこそ日常生活には困らない施設はあったが、シケが続くとまず生鮮食品から無くなり、次いで一般の食料品がなくなる。一足先に開発されている父島には、多くの作業員他東京都庁の小笠原分室(?)の職員、終戦直後からの住民など結構な人数の人々が住んでいるので、船が着かなくなるとまず食料が不足しはじめる。今でこそ立派なリゾートとして、大型のリゾート船も定期的に行き来しているが、45年以上前の父島は絶海の孤島であることには違いなかった。湾には沈没した軍艦のマストが波の間に顔を出し、戦後27年経った小笠原父島にも、いたるところに戦争の跡が見られた。
*父島の現在の映像!沈没船の今が写っています。
 
 しかし、私たちが目指すのはここではない。当時完全に無人島になっていた母島である。母島は父島から60㎞程離れた海の中にある。小笠原漁協の漁船をチャーターし、とは言ってもこの船は、恐らく数tしかないと思われる、言ってみればお濠などに浮かんでいる手漕ぎのボートを大きくした位のものであって、これに測量器具、各種のロープ類、食料などを積み込んで太平洋の海原へくり出したのである。
 東京竹芝から父島への舟では波が高く大揺れで、ほとんどの人々が、10食予定していた食事の内2~3食しか食べられなかったようだが、私は持ち前の意地汚さで全食食べ尽くした。乗り込んでいた漁師さんが「根性あるね。」と笑っていた。これに比べると母島までの海は穏やかだった。時折り起きる波の腹から、申し合わせたようにトビウオが横一列になって飛び出し、そのまま100m程飛んで一 斉に海に潜る姿や、漁師さんがロープ結び付けた魚の切り身に食いついた1.5m程の小さな鮫を引っぱり上げるところなどを目にしながら3時間程の船旅の後、母島に着いた。

 母島では、戦前からあったのかコンクリートの小さな桟橋が作ってあり、そこに横着けして周りを眺めてみると、幅150m位、奥行き100m位の湾であった。方角が分からなかったが、湾の奥に向かって右側が小高い丘になっていて、100m程の丘の中腹にはレンガ造りのトーチカが見えた。高さ1mもなく横に数メートルあいた四角い横長の穴をトーチカと判断したのは、そこからだと湾全体をやや上から見渡すができたからである。余計なことかも知れないが、トーチカとは、山の斜面などに穴を掘って、銃眼をあけたもの。
 桟橋に荷物を揚げて宿舎に入った。宿舎は母島を開発のために急拠作られた飯場のようなプレハブで、広い空間に全員雑魚寝である。東京都から仕事を受けた各建設会社の職人さんや技師など10数人。私たちは海洋調査と測量を受け持つ五洋建設という会社に雇われていた。ただ有難かったのは、広々とした風呂場が作ってあったことである。水はジャングルの賜物で、美しい湧水が出た。翌日からいよいよ現場で仕事である。
 第1日目は、戦前に作られた道路や家屋の下見である。既に熱帯植物によってジャングル化した場所を、かつての道路と思われる跡を頼りに進んで大体の道路の図を描いて行く。驚いたことに、道路から斜めにずり落ちた形でキャタピラの付いた、先端がラッパ状に少し開いた二連の機関銃が見付かった。銃身の長さはコイル状のバネの付いた根元まで、おおよそ2mはある。私は勝手に「自走式キャタピラ付重機関銃」と名付けた。全体的に赤いサビに覆われていたが、銃身の根元のコイル状のバネの一部はグリースが残って、まだ光っていた。丘の斜面の道路跡を、覆いかぶさった植物を伐採しながら進んで行くと、道からややはずれたところに、明らかに元人家のつぶれた屋根が樹木の間に埋もれていた。作業に入る前に東京都の職員から言われていたのは「この島で戦闘は行われていないので、人骨が出ることはありません。」ということだったので安心はしていたが、やはり廃屋というのは気持ちのいいものではなかった。道路の少し先の方の道路の片方が崖でセリ上がったところに、またもやトーチカがあり、この銃眼は少々広く、中を覗くことができた。3畳ほどの空間の一部に飯盒炊さんの跡が残っていた。しかも、両サイドをY字型の木の枝で支えたやや太目の木の棒に飯盒を通した形で、ついさっきまでご飯を炊いていたかのようだった。まわりには、古びたアルミ食器や茶わんがころがったままであった。手を付けずそのまま少し進むと、道路から1m程下の方にサビで覆われた機関銃が転がっていた。いずれ撤去しなければならないので、道路まで引っ張り上げて、背くらべをしてみると、私よりやや背が高い位であった。形状は、銃身の前の部分には地面に据えられるように2脚のスタンドがあり、根元の方には恐らく照準器と思われる部品や弾を繰り出す装置と思われるものが付いていたが、ベルト状につなげられていたはずの銃弾は見付からなかった。重さはどの位だったろうか、道路に引っ張り上げた時、「こんなものを担いで行軍するなんて、大変な重労働だな。」と思ったのを覚えている。
*ミリフィルムが語る昭和の小笠原諸島 ~母島~

 ある日の朝、「今朝は各自の作業をやめて、浜の方に集まってくれ」という知らせがあり、普段山の方にばかり行っていた私たちは、物珍しさもあって、何となく楽しみな感じで浜辺に集まって来た。今まで単なる砂浜と思って気にも留めていなかった波打ち際が少し変である。近づいて行くと浜はビッシリと銃弾を敷きつめた様であった。弾丸だけもあれば薬莢だけのものもあった。中には、薬莢に弾丸がくっついたままのものもあり、爆発の恐れがあるから、これにだけは決して手をふれるなということであった。弾丸の大きさは長さ約4㎝、直径約8㎜位、薬莢は10㎝位だったと記憶している。弾丸の方だけ10個程そっと拾ってポケットに入れた。
 私が勝手に名付けたキャタピラ付自走式重機関銃といい、二脚付機関銃といい、またこの海岸の多量の銃弾といい、そのまま遺棄されたということは、兵器は兵士より大切であるという日本軍の風潮の中で、貴重な武器より人命を優先して、あらゆる兵器を投げ捨てて退却を命令した指揮官の決断に深く感動したことを覚えている。武器を携帯せずに本土に引き揚げてきた兵士、ましてやそれを指示した司令官が、東京でどのような白い眼で見られたか考えてみると、どんなにか勇敢な決断と行動であったか。このことが先の「ここで戦闘で死んだ人は一人もいない」ということに繋がったのである。
*亜熱帯の草木の中に朽ちかけの機関銃座がチラリと写っています。
 
 朝から浜辺に集まったのは、この母島の湾内の海底から、500㎏の不発弾が発見されたからである。潜水班と爆発物処理班が水中に潜って観察したところ信管は付いたままであることが分かった。海中での処理は困難でることから、砂浜に引き上げてから処理するということで、引き上げの途中何らかの事故で爆発しても被害が少ないように、長いロープを結びつけ、皆んなで引っ張ることになったのである。砂浜に引き上げられた爆弾は直径1m程、長さ1.5m程のずんぐりとした鉄の俵のような形をしたものであった。500㎏爆弾というものを初めて見たが、案外不格好なものだと思った。幸い、海底の砂に触れていた部分に穴があいていて、火薬は流れ出して爆発の危険はないということになった。これで一件落着。

 海がシケると、1週間に1度来る漁船が来られなくなり、途端に食料が不足する。そこで皆んなは、仕事を放り出してそれぞれに食料探しに出かける。ある者は戦前畑だった所に出かけ、野菜や根菜を探し、ある者は海に魚を捕えに行く。潜水班は海に潜って貝類を探し、私たちは野生の山いもを探しに山に向かう。なかなか思い通りに食料が集まらないので、潜水で獲ってきた名も知らぬ大きな貝を天ぷらにして食べようということになったのだが、油で揚げ始めると臭いが強烈でとても口に入れられるものではなかった。それでも勇気あるものがかじっていた。シケは長く続くこともなく、やがて父島から食料が届いたときは、さすがにホッとした。

 ある日の作業中、入口が直径1m程の洞穴を見付けた。この島では戦争で亡くなった人はいないということを聞いていたので、ちょっと覗いてみると、天井の壁にぶら下がっているものがいる。大きさは恐らく30㎝から50㎝位か。眼が慣れてくると、真っ黒の身体でモゾモゾ動いている。刺激して一斉に飛び出して来たら困るので、そーっと退却した。後で聞いた話によると、オガサワラオオコウモリで、我々が本土で見るコウモリとは大きさが違う。はっきり言ってかわいげのない姿と大きさである。以来しばらく仲間内で、余り見たことのない生物には、勝手に「オガサワラ」というのをかぶせて、名前を付けるのがはやった。例えば、鳥のメジロにそっくりなのだが、眼のまわりが黒い鳥がいて、これには「オガサワラメグロ」と名付けた。ずっと後で分かったことだが「メグロ」というのが小笠原の固有種として生息しているらしいことが分かった。
*オガサワラオオコウモリ

*小笠原の固有種を紹介しています。

*小笠原のプロモーション映像!「メグロ」の映像がチラリと見れます。

*小笠原の最新のプロモーション映像!必見!!

*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

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ラジオ深夜便、ご存知ですか? [西高1回生寄稿集]

西高1回生 二宮 正博

  東京在住でありながら福岡西一会の世話人、徳永さんから投稿の案内をいただきました。関東と福岡の両方の西一会に参加している関係上の配慮かと思いますので、近況報告に加えて、番組に出演して頂ける人物の紹介をお願いすることにしました。

 福岡を離れて4年、東京渋谷にあるNHKの放送センターで週に2日か3日、ラジオニュースを読むアルバイトをしています。全国放送が多いのですが関東ローカルもあります。日勤だったり宿泊勤務だったりと、月毎に仕事が決まりますが、もちろん当方の都合が優先されます。

  もう一つは「ラジオ深夜便」の進行役、アンカーとやらを第五週の水曜日に担当しています。これは、年に4〜5回しかないので、深夜便の中で放送する番組を提案し制作するアルバイトもしています。
ラジオ深夜便 二宮先輩.jpg
*月刊誌「ラジオ深夜便」より

 10数年前、2度目の福岡局勤務で迎えた57歳の定年退職、その年が近ずくにつれ、退職後何をしたらいいのかが見つけられない中、歳下の上司から打診を受けました。
 「退職後、このまま福岡局で仕事を手伝ってもらう事は出来ないでしょうか?」というもの。
 退職時の職場に病欠者がいるものの補充がなく人員不足に陥ってしまうからで、もちろん渡りに舟と二つ返事でOKしました。それ以来、ずるずるとそれまでの延長で仕事を続けて来ました。
 退職したものの、何と14年間も、現役時代の流れで仕事をする幸運に恵まれて来たと言えます。

  4年前に福岡から東京に転居しましたが、福岡の頃、東京にいた後輩から「東京で仕事をする気はありませんか」と打診されていた関係もあり、すんなりとラジオニュースを読む仕事をさせてもらっています。

 そして半年ほど経った頃、今度は深夜便の責任者から、「年に数回ですが「ラジオ深夜便」を担当する気はありませんか?」と声を掛けられました。想定外のことで「小生でよければやらせてもらいます」と返事をして、3年目を迎えています。

 番組は23時15分から翌朝5時迄の6時間という長時間の生放送ですが、フリートークで好きな時間喋ることなど出来る筈もなく、決まり事を喋って繋いで行くのが殆どで、やや欲求不満に陥っていました。

 そんな中、番組提案をし採択されれば、アンカーの立場で番組制作ができることが分かったのです。深夜便は芸能や歴史、文芸と言った文系の内容が殆どで、理系の内容が少ないことに気づいたのです。そこで、昨年からアンカー企画、「サイエンスは今」を始めました。様々な分野の先端技術研究の現状と将来、そして課題を分かりやすくお伝えしようというものです。
  かつて、ビルの一部屋を占めていたコンピュータ、今では同程度の性能は手のひらに乗るスマホになりました。そのスマホでさえ音声や画像認識はおろか通訳機能を搭載するなど、コンピュータの進化は止まることを知りません。
 科学技術は人間の歴史と共に進歩発展してきましたが、新しい技術が次々に生まれています。中でも、人工知能の進化は世界を一変させる可能性を秘めています。
 先端科学のあらゆる現象が、私にとって大変興味深い対象になっています。

 さて、 知りたいテーマは多いのですが、出演者を見つけ出し放送で実現するまでには、正直言って結構大変な思いをしています。

 それぞれのテーマの研究者や開発者は、インターネットのお陰で容易に見つけ出す事はできるのですが、およそ40分間、分かりやすく話しをして頂ける方かどうかの見極めが、中々つかないのです。

 私が現役の頃は、約束などを取付ける事無く、フラリと訪ねて首実験をすることが出来たのですが、今は当然のことながら、約束を取り付けてからしか会うことは出来なくなりました。ネットには電話番号の記述がないのがほとんどで、電話で話をしてみる事も先ず不可能になりました。

 そんな難しさもある中、最近気づいた重大テーマがあります。人工知能の時代に入ったコンピュータは世界を変えて来ましたが、もう一つ世界を変える事象に巡り会った感覚です。
 それは、ゲノム編集という技術です。ゲノムとは遺伝情報のことで、そのゲノムを、あたかもビデオ編集するように切り貼りして、遺伝情報を書き換えるものです。 動植物の品種改良が短時間で出来るようになるばかりか、エイズやガンの克服はおろか、やろうと思えば、人間の改良もできるという技術です。

 これまでに放送したテーマは、「人間にとって科学とは 」、「自動運転自動車」、「ロボットと暮らす未来 」、「ゲノム編集とは何だ!」、「IoTで変わる生活 」、「GPS新時代がやって来る」。 
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*月刊誌「ラジオ深夜便」より

 この企画、残念ながらリスナーからの反応はあまりありません。関心が無いのか、話が面白くないのかよく分かりません。私が知りたいテーマは数多くあり、深夜便のネームバリューのせいか、それぞれの分野の専門家の皆さんは、出演交渉をすると概ね快い返事を下さるのです。

 もう一つの提案枠として「明日へのことば」があります。この枠でのご協力をお願いしたいのです。

 色んな分野で活躍している人への40分間のインタビューで、聴いている人が「へぇー、こんな人がいるのか、自分の生き方の参考になるな」と、感心してもらえる人だと提案が採択されやすい傾向にあります。
 
 何本か提案をして、採用されたのは以下の2本です。
 「スーパーITおばあちゃん、若宮正子さん」。62歳になって初めてパソコンに触れ、独学でプログラムを勉強し、iPhoneスマホのアプリを制作して、アップルから新製品発表会に招かれ、最高齢のアプリ開発者として世界中に紹介された83歳のおばあさん。
月刊誌ラジオ深夜便 女性.jpg
*月刊誌「ラジオ深夜便」より

 もう1本は、日本科学界の御意見番的存在の池内了(いけうちさとる)さんに、「科学技術の光と影」というテーマで話を聞きました。
 池内さんは「ヤバンな科学」「科学の落とし穴」「禁断の科学」など多くの著書を通じて、科学の内実を伝え、科学の未来をバラ色に描くのではなく、科学は使い方次第で善から悪に転化することを忘れず、むしろ科学がもたらす影を常に想像して、その弊害を少なくするために科学とどう付き合うべきかを考え続けてきた人です。

 たまたま、科学関係の人になりましたが、どんな分野でもかまいません。

 佐高の大先輩で、官僚のトップとして5人の総理を支えた古川貞二郎さんに関東西一会の会合でお会いする機会があり、「あるべき官僚の姿」を語ってもらおうと打診しましたが、本には書けても放送では難しいと断られました。
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*古川先輩を囲む「関東西一会」
 
  こう書いてくると、何かハードルが高そうに感じられるかも知れませんが、世間には人知れず、コツコツと一途に打ち込んでいる人が大勢いらっしゃるようです。そうした人の掘り起こし、是非全国に紹介したらどうだろうかという人を教えていただけると有り難いのです。よろしくお願いします。

NHKラジオ深夜便ホームページ:http://www4.nhk.or.jp/shinyabin/
ラジオ第1 毎週月曜~日曜 午後11時15分
祝日 午後11時10分
FM 毎週月曜~日曜 午前1時05分
*西高1回生・同窓の二宮さんは5週水曜日担当!

*紹介は福岡栄城会HPでも連絡可能です。
連絡先 eijo.fukuoka@gmail.com

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『映画、観てますか』 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 埜口  滋

 映画、観てますか?
 私は、月に1、2本、年に10数本観てます。最近はカンヌ映画祭でパルムドール賞を受賞した「万引き家族」を観ました。面白かった。最近私が観た日本映画の話題作は、ほとんど間違いなく面白い。



映画 映写機イラスト.jpg 若いころから映画好き。学生時代は渋谷、新宿の入館料100円の名画館を見て歩いた。というより4年次には名画館巡りのために、大学の受講時間を正午前後に合わせて選択していた。「ずーっと学生でいられたらいいのに」と思いながらも「映画関係の仕事なら、就職してもいいかな」と思っていたぐらい。といっても、そのための準備も何もしなかった私は、全く違った世界に進み、あっという間に現役世代を過ぎてしまった。年金世代になって、映画は空いた時間を過ごすほどよい趣味になっている。


 ということで、暇を見つけては映画を観る日常。「万引き家族」を観る数日前には「モリのいる場所」を見た。東京・池袋近くのアトリエ(自宅)敷地内の狭い空間で、植物やアリなどを描き続けた仙人(本人はこの表現を嫌ったそうだが)画家、熊谷守一の晩年を描いた作品だ。自宅を取り壊して建てられた小さな美術館を、7,8年前、孫と訪ねた。彼の著書「へたも絵のうち」に掲載された絵を含めて味わい深い作品が並んでいた。画家でもある娘さんが館長をしていて、コーヒーをごちそうしてくれた。

 「万引き家族」の何が面白かったのか。
 血のつながりのない「家族」の、たわいない物語ではあるが、血のつながりのある「家族」が、いまや見失ってしまった温かい何かを見せてくれたような気もする。リリー・フランキーのいい加減さ、安藤桃子の体当たり演技など、初めて知った俳優たちの魅力もさることながら、がん闘病中と聞く樹木希林の演技はさすが。彼女は「モリのいる場所」にも妻役で出ていた。演じることに力を注ぎこむ俳優のパワーに驚かされた。少年役のまっすぐな視線、終盤の急展開など余韻が残るいい映画だった。
 「李下に冠を正さず」とか「信なくば立たず」などと言いながら、その真逆の言動をしている国のトップリーダーに対するアンチテーゼでもあろうか。

 日本社会から取り残されたような人たちの、ちょっと外れた価値観や日々の営みを描いた映画が、なぜ外国の映画祭の最高賞を射止めたのか。この映画で描かれた日本人のどこに彼らは共鳴したのか。そんなことを考えさせられる映画だった。

・是枝裕和監督 『万引き家族』公式サイト :http://gaga.ne.jp/manbiki-kazoku/ 

・沖田修一監督 『モリのいる場所』 公式サイト:http://mori-movie.com/
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
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佐賀西高女子バスケ部・事始め! [西高1回生寄稿集]

西高1回生 伏見 滋子

 私は、「搆口」という、その昔と言っても江戸時代ですが、長崎街道を東から佐賀城下に入る人に眼を光らせていた番所のあったところで育ちました。子供のころは、そのようなことは露知らず、のんびりとしたものでした。
 その「搆口番所」跡が最近の発掘調査で石垣が見つかり、現在公園化がすすめられているようです。 
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*構口番所跡碑
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 高校は佐賀西高にしたのですが、入学生徒数は450名、女子2クラス・男子7クラスで、佐賀高校の男女半々とは大きく違っていました。当時の女子の大学進学率はまだ低く、進学校と思われていた西高への女子応募者は少なかったのです。
 さて、クラブ活動ですが、城東中ではバレーボール部でしたが、高校では文系クラブでおとなしく過ごすつもりでした。しかし、動かないと物足りず運動系クラブを求めることになりました。ところが女子が入れる部は、テニスとバスケットの2つしかありませんでした。
 迷った私は、体育の先生におたずねしました。「どっちがいいでしょうか」
 その先生というのが人もあろうに、かの野口七郎先生。「そりゃあお前、バスケットボールは全身運動やけんな」
 かくして、バスケットみたいにきついのはしないといってた気持ちはどこえやら!即入部。
 「お前たちゃ、いつまですっとな。大学受験はどうするとや。」と3年生の秋、担任の桜井英二郎先生があきれるまでボールを追いかける生活が始まりました。
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*卒業アルバム、中央は野口先生 

 始まったばかりの西高バスケット部は、経験者は、HさんとIさんだけ、試合のときの応援プレイヤーのMさん、あとNさん.Yさん、超初心者の私。
 私の役目は、マイボールになったらスローインして、ゴール目指してひたすら走り、Hさんからのロングパスを必死でキャッチし、そこへ走ってくるHさんにパス。かっこよくいえばアシスト....…?
 それしかできなかったのです。
 
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*卒業アルバム、修猷館高校との交流試合

 私たちが1年生・2年生のときは佐賀高校と西高は、同じ校舎にいながら別の学校でした。佐賀高校は西校舎(現西高)と北校舎(現北高)に分かれており、この2年間は新設校舎の東高と合わせて4つの高校があったのです。
 ということで、佐高と西高が対戦相手になることもありました。
 双方のベンチに七郎先生の姿はない。心細い思いもありました。
佐高VS西高 バスケ女子.jpg

 ただ、ただ、ボールを追いかけて!それしかなかった3年間。
 大切な青春の思い出。かけがえのない宝物です。


*佐賀高校のバスケ男子は、昭和28年新潟で開催された第6回全国高等学校バスケットボール選手権大会で優勝、10月の国体でも優勝しています。
*戦前においては、佐賀高女・成美高女もバスケで全国大会(明治神宮競技大会)に出場しています。
 前身校の沿革を参照下さい。
*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
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台湾の京都「台南」で音楽・歴史交流 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 中村 又善

 福岡栄城会の皆様、暑い日が続きますが皆様元気でお過ごしではないでしょうか。
 昨日は福岡西一会の7月例会でした。台湾旅行計画の話をしていると、ふと、私は何回台湾へ行っているのかと感じました。台湾へ行っているという感じがあまりなかったからです。
 私の海外旅行経験はカナダ、中国(大連)、台湾、韓国しかありません。何しろ、日本語しか話すことが出来ませんので多くの国へ行くのは無理でした。
 台湾へは職場旅行で台北へ初めて行きました。兎に角、オートバイの数の多さとタクシーの運転の粗さには吃驚しました。
 その後、大学のマンドリンクラブの先輩のお誘いで台湾の台南へ行くことになりました。
 台南には奇美実業という世界的に有名な会社があり、その創業者の許文龍氏のお宅に伺うということでした。許文龍氏は絵画、彫刻、楽器演奏など芸術分野への造詣が深く、殊マンドリンに関しては楽器を貸与してその振興に寄与されていました。
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*許文龍邸内での音楽会風景(許文龍はヴァイオリンを弾いています)
 
*YouTube「クリスマスイブ:許文龍2012年クリスマス音楽パーティー」

 しかし、私の台湾に関する印象は「過去に植民地として統治していたので、日本人に対する印象は悪いのではないか」というものでした。そこで、許文龍氏宅で彼が話をするということでしたので、日本統治時代の酷さの事かなと、身構えていました。
 ところが、彼の立ったままでの20分間の話を聞いて、私の予想とは全く違うということが分かりました。台湾の戦前、終戦直後、その後戒厳令が解除されるまでの時期、解除された現在について、何があっていたのか、それに対する考え方をお話しされました。日本統治から解放されて新しい台湾を創っていたのではないか考えていた私は、特に、戒厳令下での市民生活の実情を聞いて驚きの連続でした。その頃、台湾の経済が目覚ましい発展をしていることを知っていたのでそのギャップを理解することが出来ませんでしたが、台湾の発展は零からの発展ではなかったことを許文龍氏によって知らされました。 
 彼が台湾の発展の要因を調べていくと、社会的基盤が整っていることに行き着きました。そのいろいろな社会的基盤は統治時代に日本が膨大な金額を費やして造ったものでした。許文龍氏は台湾今があるのは日本のお陰であると私達に話されました。
 最後に、現在の日本における外来語の氾濫などについて憂慮されており、日本には立派な伝統と文化があるのだからもっと自信を待たなければいけないと指摘されました。
 
 台湾では奇美マンドリン楽団とジョイントコンサートが奇美実業博物館のコンサートホールで開催され、参加しました。
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*奇美マンドリン楽団とのジョイントコンサート

*YouTube:2013年11月24日「奇美マンドリン楽団『アルハンブラ宮殿の思い出』・台南市民文化センター舞台芸術ホール」
 その後、福岡西一会では台湾へ旅行し、許文龍氏が作製した日本人の胸像を訪ねて彼らの業績を偲びました。その時,大企業創業者の住居とは思えない、許文龍氏邸(街の中の小さな佇まい)の門前で記念撮影をしました。
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 その後、私は50年以上のマンドリンの経験を活かして、台湾(台南)のマンドリン奏者の基礎的な練習のお手伝いをしています。
 台南は台湾の京都と呼ばれ、台湾の歴史は台南から始まるとも言われています。したがって、名所旧跡も多く、数多く案内して頂きました。
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*台南のランドマーク「赤嵌楼」
 また、食は「台南にあり」と言われるほど美味しい食べ物が沢山です。さらに、マンゴーなどいろんな季節の美味しい果物を食べることが出来ます。
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*マンゴーフルコースの一品
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■台南市政府観光局HP:https://www.twtainan.net/ja-jp

■奇美実業(中国語: 奇美實業股份有限公司、英文社名:Chimei Corporation)

*福岡栄城会では、同窓会員の方々の投稿をお待ちしております。
投稿先 eijo.fukuoka@gmail.com

 
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「西高出てから五十二年、今じゃぁ無職の・・・・・・」 [西高1回生寄稿集]

西高一回生 鐘ヶ江正之

一回生として佐賀西高で学び1966年に卒業して、はや半世紀が過ぎ去りました。

 私事ですが卒業後、福岡の大学へ進学。経済学とワンダーフォーゲル活動に勤しみ、当時は学生運動最盛期、空母エンタ―プライズの佐世保寄港阻止では過激派の六本松教養学部のロックアウトやら、箱崎の電算機センターへのファントム墜落事故やらを身近に色々経験しつつ無事に卒業証書を頂き、社会人としてのスタートを切りました。

JAL 飛行機.jpg 憧れの半官半民の航空会社へ入社、丸の内でのサラリーマンを期待しておりましたが、初任地は北海道千歳。おかげで札幌オリンピックは目の当たりに見ることができました。地球儀.jpgその後は東京本社、フランクフルト、大阪、また東京本社、メキシコへ遠距離通勤、大阪、福岡、名古屋、とあちこちへ出稼ぎが続きました。55歳になった時、驚天動地のJASとの合併話が持ち上がりました。火中の栗を拾うような話ですが、大赤字を抱えたJASが倒産すれば後ろ盾の東急グループの屋台骨まで危うくなるという状況で政治的画策の結果、民間企業といえども、国策会社で半官半民の時代を経てきた経緯があり、(競合A社に比べ自民党に取り込まれ易い体質という事もあり)押し付けられる次第となったようです。
 定年になったら福岡へ帰ると家内と決めていましたが、折よく団塊の世代処理として会社が、早期退職者勧奨制度(2年間有給で勉強した後退社、自活しても、60歳までは会社の健康保険、福利厚生を適用する等という優遇措置)が提示されたのに応じ、卒業を5年程早く切り上げて福岡へ帰って来ました。福岡市内で家内の実家の自動車修理会社2社を引き継いで10年間続け、順次整理してやっと65歳でフリーとなり年金生活者の仲間入りを果たしました(その間に会社はJASを吸収合併した結果、大赤字と事故が重なり最終的に破綻してしまいましたが・・・)。

 還暦前に福岡で娘2人が大学を卒業して家を出て自立しました。それからは、家内と二人きりの生活です。さて、毎日が日曜日の年金生活をいかにすごそうか?

 そこで還暦を機に俳句の世界に入門させてもらいました。俳句は、四季・日常の身の回りのことを詠めばいいので、取材は短編小説よりも楽で、季寄せ帖と鉛筆と手帳があれば、いつでも何処でも創作が可能なのです。そこで水原秋櫻子が創始した「鷹」と云う結社の博多の会に入れて頂きました。
恥ずかしながら、この十年間の凡人の拙句の中からいくつか披露させて頂きます。
(蛇足ですが5年前から油絵の勉強を始めておりますが、いまだご披露うできる程の作品
はありませんので、今回は俳句を出させていただきます。)
俳句  タイトル 流水紋.jpg

俳句 初蝶や.jpg
俳句 遠近に.jpg
俳句 カヤック・夜鷹・沈黙.jpg
俳句 用の無き・古伊万里・ユトリロ.jpg
俳句 蒼茫・和綴本・蒼天 2.jpg
俳句 海鳴り・点鬼簿・錆浮きし 3.jpg
俳句 昭和の・妄想の・冬の川.jpg
俳句 滑走路・潜水艦・秋惜しむ 2.jpg
俳句 荷風忌 堕天使 夏中洲.jpg
俳句 宿場町・伽耶琴・.jpg


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島 女 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 中馬 蕭子

 私は福岡西一会に参加する様になって、“島女”と呼ばれる様になりました。私はこの呼び名が、凄く気に入っています。なぜなら私は「離島めぐり」が大好きだからです。
 今回福岡栄城会HPへの投稿を徳永治通さんから勧められ、なぜこれ程までに好きになったのか、自分自身の為にも、原点に戻って書いてみようと思います。
 思い起こせば、「島巡り」の原点は50年前の20才の時でした。佐賀の父からの一通の速達郵便です。
船旅.jpg

 その頃私は東京に住んでおり、正月休暇を目前に浮き浮きとしておりました。寮の友達には故郷より帰省のキップがどんどん送られてきておりました。私はお金の準備はしておりましたが、なぜか羨ましくなり、私は親に甘えたくなりました。その旨を親に連絡すると、折り返し直ぐに父から速達郵便が来ました。
“この資本主義の世の中において、お前みたいに甘い考えで-ーーーーー”との書き出しです。
 私は涙が溢れ出て止まりませんでした。
 “甘えてみた私がバカだった”。
 “わかっていたのに!”。
 もう今さら佐賀には帰れません。どうしようもない寂しさに襲われました。
 数日後、やりきれなくて“海でも見に行こう”と東京の竹芝埠頭にやってきました。 
 丁度その時、大島経由三宅島行きのフェリーがやって来て、つい飛び乗ってしまいました。200人程の客が乗船しておりましたが、大島の港に着くと殆んど降りてしまい、船にはおばさんと私の女性2人、それに十人程の男性釣人でした。
 “宿は決めているの?”おばさん。
 “ううん、決めていない”私。
 “じゃぁ~民宿しているから、うちに泊まり”
 “うん”
 そして三宅島に着きました。
 翌朝4時に起こされ、おばさんに勧められました。
 “釣りの人たちと一緒に磯釣りに行っといで!”
 大波が打ち寄せる岩場で、私は波にのまれない様にと、荒縄で体を縛られました。そして焚き火の傍で釣りを見ていました。
 荒海を見ていると、なんだか気持ちが少しづつ解れて段々と楽になって行く自分が居ました。
 翌日、島を一周サイクリングしましたが、その途中、爽やかな緑の木々の世界から、一瞬暗黒の世界に変わりました。以前火山の爆発して山の頂から海岸まで溶岩が流れ出して出来た場所なのです。平穏な佐賀に暮らしてきた私にとって驚きの世界でした。

 今現在私は、北の礼文島から南の与那国島など日本の周りの島を37個訪れています。
 振り返れば、若い時は苦しいときに島に逃げていた様で、結婚してからは楽しみながら夫婦で足を運んでいます。 

 50年間に訪れた島の内、強烈に印象に残っているのは、隠岐の島(島前の西ノ島)の国賀海岸です。摩天崖と呼ぶ257mの断崖絶壁です。垂直に海に落ちる崖は圧巻で、サスペンス2時間ドラマに最適な場所と言えます。
 その当時、柵もなく、風が吹いたら真っ逆さまに落ちてしまいそうな場所ですが、“どうしても真下を見てみたい”そんな衝動にかられました。周りを見ると誰もいません。それをいい事に寝転んで這いつくばって、そっと首だけを出してみました。「凄い、凄い・・」の一言です。想像は皆様におまかせします。

 今私達が住んでいる福岡にも、日帰りで楽しめる島が多くあります。肥前大島、地島、玄界島、能古島、志賀島、巌流島は行きましたけど、相島、小呂島等その他2~3宿題として残っています。景色が良かったのは、肥前大島の風車展望所です。又気分を変えたい時は玄界島を一周歩くことです。

 玄界島には4度行きました。この島は博多から市営渡船で30分で着きます。ほぼ円錐形に近いこの島を約1時間~1時間半かけて周囲4.4kmを歩いて一周するのです。左に山を見て、右に海を眺めながら、人とも車ともいっさい会わず、道幅2~3㍍の砂利道を延々と歩くのです。
 2回目(冬)の時には、佐賀の幼な友達とたわいもない話をしながら歩いていました。その時何かが飛んで来ました。それは初めて見る『波の花』でした。まるで石鹸の泡を大きくした様なものが、海から次ぎから次ぎへと飛んで来るのです。
 3回目の時は、港で言われました。「この島を一周するのなら、この棒を持っていきなさい。イノシシが出没するかも分からないから」。私は一瞬怯みましたが、「折角ここまで来てあの感動を味わえないって!」。勇気を出し棒を持って歩き出しました。年老いた白髪のおばさんが棒を振り回しながら歩く姿は滑稽としか言えません。

 最近の遠出は日本の最西端の与那国島でした。パンフレットの写真がとても素敵で、どうしても行きたくなったのです。岬の草原に放牧された数多くの馬達が私を呼んでいるのです。
 そして馬達に出会ったのです。“やっと此所まで来たか”と胸を張って大きく深呼吸をして下を見ました。そうしたらどうでしょう?写真には写っていなかった馬の糞が一杯。

 その時、65年前の幼い私(5歳)を思い出しました。佐賀の片田江交差点より大財方面には昔はよく競馬場の馬が手綱を引かれて歩いていました。そしてその後には大きなお大きな糞が残っていたのです。子供の目には異常に大きく見えたのです。あの頃、佐賀の神野付近には確か競馬場があったはずです。もうとっくに無くなっていますけど。

 この様に島を巡っていると思いがけなく昔の佐賀や昔の自分に出会えるのです。だから「島巡り」が辞められないのです。
 これから先も元気でいる限り島を訪れたいと願っております。

 私の拙い文をここまで呼んで下さってありがとうございました。
 皆様どうぞお元気で!

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『古いゼンリン住宅地図に思いを馳せ』 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 江口 浩二

 梅雨空が続き、部屋の机の中の書類の断捨離を思いついた。
 七十歳も過ぎるとそろそろ身の回りの片づけも必要だろう。
 その時、古いゼンリン住宅地図(佐賀市中心部)新聞紙を広げた大きさのスポンサー提供による各家庭に配布された住宅地図が目に留った。今はときめく大企業になった(株)ゼンリン佐賀営業所の作成によるものだが、残念なことに作成年度が記載されていないのではないか。しかし、佐賀市中心部の詳細な地図に大いに興味がそそられた。
佐賀市市内中心部 地図 加工後.jpg

 私の実家は中の小路にあり、その周辺にある商店名から地図の作成年度を探る事にした。まず佐賀玉屋だが、既に地図上では中の小路交差点に記載があるので昭和40年度以降である事は分かる。
佐賀玉屋 現在と昭和40年代半ば.jpg
佐賀玉屋は昭和8年に呉服町に開店し、昭和40年に現在地に移転している。佐賀玉屋の移転により、町の流れが変わるとの危機感から昭和41年6月18日、呉服町、元町、白山銀座の3つ商店街が「銀天夜市」を立ち上げたそうだ。ちょうど高校を卒業し、余計な勉強をしていた頃だ。

さが銀天夜市 山車.jpg
さが銀天夜市 白山商店街.jpg
さが銀天夜市 白山おまつりひろば.jpg

 佐賀玉屋の前のみずほ銀行の名前が第一勧業銀行佐賀支店とあるので、これが地図の作成年度の手掛かりになりそうだ。昭和46年10月に 株式会社日本勧業銀行と株式会社第一銀行が合併し、株式会社第一勧業銀行と商号変更しているから、地図の作成は昭和46年度以降である事が分かる。
 復興通りの角にある天山酒店の前にあった喫茶店「もんせふり」も記載されている。ここには私の幼いころ回転饅頭の店があり、良く食べていたが1個50円だったような曖昧な記憶がある。
復興通り 元天山酒店.jpg

エスプラッツ.jpg復興通りを北の方に辿ると、「おもちゃの植松」「落合めがね」の記載がある。「落合めがね」は私が近視になり初めて眼鏡を購入した店だ。
メガネの落合 上林茶舗.jpg
 余に分厚いレンズだったので愕然としたことを思い出す。多分ガラスレンズで安物だったのだろう。
 白山二丁目に目を転ずると、書店の「金華堂」がある。高校生の頃、タダ読みで何時間も過ごせたが、店員さんには迷惑がられた。
金華堂書店 白山通り.jpg

 白山二丁目の東には「永池本店」がある小学校の同級の実家だ。遊びに行った時、勉強部屋が大きな酒樽で作られていて、大変驚いたものだ。
旧永池本店 エスプラッツ.jpg

 「永池本店」の南に「コイケスポーツ店」がある。「コイケスポーツ店」では野球のグローブを購入して貰った。私は目が極端に悪く、トンネルはするし、ボンフライは捕れないし散々だったが、社会人になり、会社の同僚との懇親ソフトボールではそこそこ役に立ち、親にはとても感謝している。
島内鮮魚店.jpg 「コイケスポーツ店」の南側の東魚町には「島内鮮魚店」がある。ここにも小学生時代の同級生がいた。確か松本清張原作の佐賀を舞台にした映画「張り込み」の撮影も「島内鮮魚店」の前で昭和33年に撮られたが、「島内鮮魚店」の二階から覗き見した記憶がある。
松川屋跡.jpg 佐賀のロケでは、一万人の見物客が出て、多数の群衆の中で撮影の行われた佐賀駅では、人よけのためにロープを結び付けた駅舎の柱がズルズルと動き出し、警察が中止を求める騒ぎとなったそうだ。また、大木実ら主演俳優の宿泊した旅館の周りをファンが取り囲み、警官隊と押し合いになったと聞いている。
 昭和33年の時代は映画ぐらいしか娯楽がなく、高峰秀子、田村高広等の有名人が佐賀に来たともなれば、そんな騒動も分かる気がする。
 映画館と言えばこの住宅地図には「佐賀日活」「佐賀東宝」「セントラル会館」「平劇」の記載はあるが、いつ頃まで存在したのだろうか。
セントラルパレス 佐賀日活.jpg
セントラルプラザ 佐賀東宝 佐賀松竹.jpg
閉館のセントラル会館.jpg

 呉服元町には「大坪書店」、松原3丁目には「積文館」、良く利用させて貰った。
積文館 跡.jpg

西高時代に立ち読みしながら、清純な?女子高生の姿にほのかな憬れを抱いたものだ。スマートホンもない、パソコンもない、カラオケもない時代に立ち寄るところは佐賀県立図書館と本屋しかなかった。
南里本店 跡.jpg 古いゼンリンの住宅地図を拡大鏡で見ながら、住宅地図の作成年度の分かる糸口を探るがなかなか難しい、その中で呉服元町に「南里本店」の記載がある。又「窓の梅ショッピングビル」の記載もある。「南里本店」は昭和49年に4階建ての衣料品店「南里本店」を新築開業している。窓の梅 寿屋 跡 佐賀県国保会館.jpg又昭和54年には、明治後期から呉服町に商店を構えていた「窓乃梅」が寿屋と共同で大型店を開業、下層階に核店舗として寿屋のスーパー、上層階窓乃梅の衣料品エリアが入居する形で開業している。
 これらのことから推定すると古いゼンリンの住宅地図の作成は昭和54年から数年内だろう。今からおおよそ40年前と推察できる。
 佐賀市内の様相は40年後の現在、大きく変容している。「おもちゃの植松」、喫茶店「もんせふり」、「コイケスポーツ店」、「佐賀日活」、「佐賀東宝」、「平劇」、「大坪書店」、「南里本店」、「窓の梅ショッピングビル」・・・・・これ以外にも無くなっている店は数多ある。
大坪書店.jpg

 40年前のゼンリンの住宅地図を見ると、佐賀市の中心部はまるで『千と千尋の神隠し』のようだ。
「中央マーケット」「松原親和マーケット」の裸電球の輝きと行き交う人達の賑わい、乱雑に置かれた外国の缶詰、魚屋、野菜屋、餃子屋、肉屋、乾物屋、なんでもありの世界だった。
中央マーケット.jpg
松原親和マーケット.jpg

50年代の中心街 略図.jpg
エスプラッツ出入口.jpg
長崎街道 元町説明板.jpg
昭和50年台 佐賀市中心街地図 松原.jpg

時代は変遷する。平成も終わりだ。
1枚の古いゼンリンの住宅地図から、思いを馳せた。
果たして将来グーグルマップから思いを馳せる事が出来るのだろうか。

*平成30年7月7日(土)から8月4日(土)まで、第53回「さが銀天夜市」が開催中!!

*佐賀西高校「栄城」5回生のホームページに1996年12月大晦日の佐賀市内の風景写真がアップされています。「佐賀の町並み」には「松原商店街」や「積文館」・「まだアーケードのある呉服町入口」などの当時が写っています。
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私の計算人生 [西高1回生寄稿集]

西高1回生 徳永 治通
 
1.高校について
 勉強が好きではない私が何故佐賀西高を選んだのか?理由は単純で自宅の隣が西高だったから。佐賀高校が三つに分かれても、その選択に迷うことはありませんでした。
 したがって、高校の3年間よりも、子供時代の遊び場としての想い出がはるかに大きいのです。
 当時の自宅は、西高敷地の南西隅にあったプール(現在は校舎)の西側、小川を挟んですぐのところでした。4歳の頃に住み始めた時は、自宅の南側はすぐ田んぼであり、田植えのころは蛙がケロケロ鳴くのを縁側から見ていたものです。

母校 校庭.jpg

校庭西側 レンガ遺構.jpg 小学生の頃は高校が休みの時は、校庭でゴム飛行機や凧揚げをするなどいい遊び場でした。校庭の南側には上水場がありましたが、現在は校舎となっているところです。ところで、当時のプールは久留米の工兵隊が造った旧いもので(プールの建設経緯を記した銅板(?)がプールの北側飛込台の横に埋め込まれていました。建設年・建設部隊名があったのですが、小学生だったので詳細は覚えていません)、当初は、高校西側の小川からポンプで水を揚げていました。昔はあの小川でも水量は豊かでした。北山ダムができたころから川の水量が減り、すでに水道水に代わっており、ポンプは使われないまま放置されていました。
*昭和3年に旧制佐賀中学校のプールとして完成。(佐中沿革より)
母校 プール.jpg

 さて、高校生活のことですが、受験勉強はしたくないと学習に励むことはなかったのですが、物理と化学だけは計算尺で簡単に計算できたので好きになったものでした。
 計算尺は、対数目盛によって掛算・割算の概数計算が足算・引算の感覚でできるものです。なお、その計算尺の付属マニュアルは旧日本軍の高射砲の発射角度計算用でした。
計算尺.jpg

このおかげで、高校も大学も何とか卒業できました。
西高一回生 卒業アルバム 見開き.jpg

2.算盤からパソコンへ
 さて、社会人になってからの計算の話です。
 1970年、会社から渡される計算道具は算盤の時代でした。算盤を使うのは主に実績表作成、当然手書きです。上司からは「縦計・横計は合っているか?」と厳しく指導されたものです。その後、ちょっと複雑な損益差異要因分析をさせられたのですが、算盤・卓上計算機(まだ数少ない貴重品)で手書きの表作成に1日がかりでした。

N5200n5200.jpg 1983年頃、NECのビジネスパソコンN5200が導入されました。 8インチフロッピーディスク(FD)を使うもので、0番にシステムFDを入れて起動し、1番にデータFDを入れて、カタカタと音を立てて動く、のんびりしたものでした。このパソコンに表計算ソフト「LANPLAN」が入っていたので、先ほどの損益差異要因分析に使ってみることにしたのですが、初めてのことで、まさしくチンプンカンプン。それでも計算式を完成させて、データ入力30分でプリンタから出力、大いに作業効率アップに成功しました。
 さて、手書きの表に代えてパソコン出力の表を提出したときの反応です。まず、「きれいで、見やすい。」と好評価。次に、「縦横が合っていない。」とクレーム、この時点では四捨五入関数がなかったためで、腹の中では「大勢に影響ない」と思いつつも、口からは「再検討します」でした。
 今では、パソコンの性能は向上し、使いやすくなっています。しかし、使い手が「パソコンで計算したので大丈夫です!といってチェックをおろそかにする傾向があり、この「パソコン過信」のために幾度苦い思いをしたことか。
 
 私は、今も農水省などの統計資料から表・グラフを作成しますが、縦横合計や二重チェックという昔の手法を利用して、間違いを減らす努力をしています。しかし、完璧は難しいものです。
 算盤、計算尺、データの手入力、手書き文書など、手を使った作業は記憶に残る量が多いような気がします。

 参考までに、総務省の「家計調査」データをグラフにしたものです。1970年代の若い時にインフレで苦労したことが想い出されるとともに、最近の家計所得の低迷がよくわかります。なお、支出が増え続けているのは「交通・通信」だけです。
1世帯あたり年平均1ヶ月の収入と支出.jpg

 さて、会社では計算で頭を使ってきましたが、現実の世の中は「縦横が合わない」ことが多々あります。計算どおりにいかないのが人生、私は自分の人生の計算を全くしていません、成り行き任せでした。これからも同じです。

愛用の電卓.jpg 最後に、1989年購入のカシオのソーラー式電卓が今も健在です。当時の会社は要員削減・経費節減の最中、出張先での計算に12桁が必要であり、10,000円出して自分で買いました。安い買い物ではありませんでしたが、29年間電池交換不要で使えば良しとすべきでしょう。


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後輩への願い  [西高1回生寄稿集]

最所 顧問.jpg
福岡栄城会 元会長 最所憲治
 
 先日、私の長男から孫の動画がラインで送られてきました。その動画は、スノーアプリを使用したもので、動画ですが自動的に被写体の特定の部分(たとえば目や口の部分)を変化させたり、他の映像を付加することができ、実物とは全く異なる映像になっていました。このアプリを使えば、自分をスターウォーズの異星人のように変えることが可能です。孫も異星人になっていました。これが映画の世界であればまだしも、普通の人が誰でも映画の世界のような映像を簡単に作れるのです。
 この技術の進歩に驚くと共に、私がふと感じたことは、私達は自分の目で見える世界を当然のように現実と考えていますが、もしかすると、それは自分だけが見ている現実であり、他の人の目で見ればこの現実は違ったように見えているのかも知れないということです。あたかも、スノーアプリで作られる映像の世界のように。「他人の目で」と述べましたが、「違った視点で」この世界を見れば、違った現実が現れると言った方が分かりやすいかも知れません。
 このことは、同窓会という世界においても同じことが言えるのではないでしょうか。同窓会において、最も重要なことはその継続性にあることは言うまでもありません。しかし、その在り方までも継続する必要はないでしょう。「同窓会とはこういうものだ」という固定概念で同窓会を見るのではなく、違った視点から同窓会を見ると、そこにはそれまでにない同窓会が見えてくるはずです。
 私は、福岡栄城会の前身である西高福岡同窓会の会長時代から通算すれば、随分と長い期間、会長職を務めさせて戴きましたが、その間、違った視点から同窓会を見て、従来の殻を破った同窓会を作りたいという想いでした。しかし、最後まで違った視点からの同窓会を作り上げることはできませんでした。
 自分ができなかったことを後輩に求めるのは申し訳ない気もしますが、そこは佐賀西高出身の後輩の皆様です。優秀かつ感性豊かな人材が豊富におられるはずです。
 これから福岡栄城会を背負って戴く皆様には、是非とも福岡栄城会をそれまでとは違った視点から見て戴き、これまでにはない、かつ、他の同窓会にはない特色を持った同窓会へと進化させて戴けるものと信じています。
 一人でも多くのご参加と、「違った視点」からの活発なご意見を期待しています。       
以上
略歴
出身地    佐賀県三養基郡みやき町中津隈
生年月日   昭和23年1月21日

昭和38年3月 佐賀市立成章中学校 卒業
昭和41年3月 佐賀県立佐賀西高校 卒業(1回生)
昭和45年3月 九州大学      卒業
昭和53年4月 弁護士登録
昭和61年4月 最所法律事務所開設 現在に至る

*会員コラムへのコメント投稿を待ってます。同窓交流活性化の為、卒業回数(卒業年)・氏名の明記をお願いします。


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